はつこいオブ・ザ・デッド(7)

はつこいオブ・ザ・デッド(第7話)

高橋文樹

小説

5,443文字

代々木公園で起きたパニックによっては避難することに決めた。ヤバさが到達するまで二時間、その間までに避難の準備を始める必要がある。三苫家と手分けしてホームセンターとイオンモールに向かった「俺たち」が見たものは。

「逃げた方がよくない?」

カズがそう言うまで、俺達はコンタがぽんと机の上に置いたスマホを眺めながら、それぞれの手にお椀を持っていた。あるお椀は味ぽんでチャプチャプになっていたし、あるお椀は大根おろしと水菜が山盛りに入っていた。俺はお椀に入っていた鶏もも肉を口に運んだ。鶏皮の脂身が異様に気持ち悪かった。

「逃げる前に情報収集しようよ。手分けしてさ」

コンタが言った。それもそうだ。vultureによると、ヤバさの到達まであと二時間あった。二時間あれば、色々なことができる。第一、逃げると言っても関東一円ヤバいのだから、どこに逃げるのが得策なのか、わかったもんじゃない。

「とりあえず……買い出しする?」と、俺が言うと、「何買います?」と、コンタがすぐに答えた。

「え、電池とか? あとなんだろ、燃料? つーか、車確保したほうがよくないか? カーシェアで」

「そうですね。いわゆる防災的なものとか」

「えー、食料と水でしょ!」と、カズが議論に加わった。それもそうだ。

「んじゃ、二週間分ぐらい集めよっか。通信用端末ワイマックスの電源切れたら困るし、電池と、なんか発電機的なもの?」

「そんな電気ばっか心配してもしょうがなくない? オタクすぎでしょ」とカズが俺に突っ込んだ。

「いや、俺オタクだから。ネットに繋がんなくなったら死ぬから」

俺がそう返すと、カズはふふっと笑った。その後、僅かな時間で立てた計画はこうだ。近くの駐車場に行ってカーシェアから車を借りる。その後、三苫家を海浜幕張のイオンモールで下ろし、俺達は近隣で唯一二十一時まで営業している船橋のホームセンターへ。買い物が済み次第イオンモール前の公園で三苫家をピックアップ。移動の間に房総半島南端の宿を取り、そちらまで移動。ヤバさを示す円がわずかに到達していない房総半島南端で、事態が沈静化するのを待つ。はぐれた時のために、それぞれが一台ずつ携帯電話を持った。ナオはまだ中学一年生になったばかりでスマホを持っていなかったので、俺が検証用端末として買っておいたアンドロイドスマホを渡した。

一人駐車場へと向かった俺は、かなりおっかなびっくりだったのだが、五十メートルぐらいの道のりの途中にこれといった危険はなさそうだった。住宅街はいつもの通り静かで、換気扇から夕食の匂いが漏れ出ている。三〇台ぐらいは停まれる駐車場にはまったく牧歌的なことに、プリウスとヴィッツが停まっていた。これから延々と逃げることになるかもしれないという予測から、俺はプリウスを選んだ。ダッシュボードにはスマホを取り付けるホルダーがついていたので、俺はそこにiPhoneをつないだ。twitterのタイムラインには代々木公園でのパニックに関する情報が次々に上がっており、ヤフーなんかの大手メディアも次々にニュースを上げていた。動画の一つを開くと、NHKホールと代々木公園を繋がる歩道橋に人が死ぬほど乗っており、バラバラと道路に落ちている様子が無音で映っている。太鼓を方にぶら下げた坊主の若者が腕を抑えてのたうち回っている動画。倒れた女の上に五人ぐらいの人間が馬乗りになっている画像。どのつぶやきもパニックの苛烈さについてこれまでとはまったく異質なものだと告げていた。俺がいままでに見たゾンビ達とは様子が違った。なんというか、よりゾンビっぽいのだ。いままでに見た品川駅のオッサンも、「とりはま」の板前も、明確にゾンビというよりは、度を失って怒っている人に見えなくもなかった。だが、いま映っている代々木公園のそれは、明らかに人っぽさがない。特に首が不自然な角度まで折れたまま歩いているヤツの画像を見たときに俺はそれを確信した。人ではないなにかだ。

 

俺の顔にはなにがしかの深刻さが宿っていたのだろう、家に戻った俺を見た三苫家とコンタは顔色を変えた。先ほどの遠足の準備めいた楽しさが代々木公園パニックを打ち消していたのだが、その麻酔効果も終わりだ。俺たちはこれから、命をかけて逃げ続けなければならない。俺たちは路駐しておいたプリウスに乗り込み、イオンモールを目指した。

車でわずか5分のイオンモールは関東でも最大規模のモールの一つで、ファミリー向けやスポーツ・アウトドアなど、カテゴリー別に五個ぐらいにわかれていた。目当てとする食料品売場はグランドモールで、駐車場はすでに満車だった。俺たちは三苫家を駐車場の入口で下ろすと、落ち合うはずの公園を説明した。別れ際、不安げな表情でナオが「絶対戻ってきてね」と呟いた。

船橋までの道は渋滞がなければ三十分。買い物時間を含めても九時半ぐらいには戻れるだろう。買うべきものはリマインダーに入れておいた。幸い、どこもまだパニックは起きていない様子だ。国道三五七号線はそれほど混んでいない。助手席のコンタはずっとスマホをカチカチいじっていたが、十五分ぐらい経つと「宿、ここでいいですか?」と俺にスマホを見せてきた。

「いいよ、そこで。泊まれりゃ」

「和室、オーシャンビューで一泊三万五千円って書いてありますけど」

「一人七千円だろ? いいよ別に」

「でも、私、そんなお金ないんで。まだ二年目だし。」

「だから、とりあえず俺が払っといてやるから、早く予約しろよ」

そういうと、コンタは顔をぱっと明るくし、「マジですか?」と喜んだ。そのまま電話をかけ、若干キョドった感じで無事予約を終えたあたりでホームセンターについた。大きめのカートをガラガラ引きながら店内に入ると、もう閉店間近ということもあってか客はまばらだ。俺とコンタは手分けをして必要なものをカートに放り込んだ。ロープ、簡易テント、寝袋、マット、ホワイトガソリンにバーナーのセット、焚き火台、鎖、南京錠。あと、武器としてバールと金属バットを二本ずつ。ゾンビものの定番であるチェーンソーも買おうと思ったが、意外と重かったので、折りたたみ式の手鋸にした。鍬やハンマーは軽すぎたり重すぎたりで使いづらそうだったので、やめておいた。

レジに並んでクレジットカードで買い物を済ませると、買ったものを車に積み込んだ。バールはいつでも使えるように助手席と運転席の間に置いた。俺はLINEで熊のブラウンがドライブをするスタンプを送信した。二十一時五分、予定通りの行動だった。再び三五七号線に出てイオンへの道を戻りはじめると、さっきより車が増えていた。

「コンタ、ちょっとvulture確認してくんない? なんか変わってる?」

コンタはスマホをいじりながら「うーん」と唸った。

「いま、twitter落ちてるっぽいです。データ更新されてないんで。ヤバさは変わらず」

「じゃあ、それヤバくないか?」

と、話しながら運転している俺達の脇を凄まじい速度で追い抜いていく車があった。千葉の国道でスピード競争をしている馬鹿なヤンキーかと思ったが、その後も二、三台が乱暴に追い抜いていった。そのうち一台は品川ナンバーだ。もしかしたら、俺たちがほかの人に先んじることができたのはわずか一時間ぐらいで、もしかしたら民族大移動が始まっているのかも知れなかった。

 

イオンモールに到着すると、駐車場はおろか、公園にも近づけないぐらい道が混んでいた。イオンモールは国道から少し外れた海岸沿いにあり、休日などでもイオンモール以外に混む理由がない。ということは、いまこうして路駐しまくっている車たちは、わざわざ閉店間際のイオンモールに集まっているということで、それなりの理由があるはずだった。俺は公園から少し離れた道路に車を停めると、コンタに待っているよう説き伏せた。カズは電話に出ないし、ナオにも繋がらない。ちょうど正月のような回線混雑状況だ。俺はバールをTシャツの背中とリュックの間に潜ませると、忙しく歩を進めながらLINEを送った。

——買い物終わったか? 着いたぞ

すぐに既読の印がついて返事が返ってくる。

——終わった! めちゃ混んできた ヤバげ

公園に向かうとベンチに三苫家が集まっていた。前の道路には車列が並び、どれも買い物帰りの家族を待っているようだ。皆一様にカートいっぱいの買い物をしている。公園の滑り台にも小さな子どもと遊んでいる若いママさんの姿があって、まるで休日の昼のような賑わいだった。

「どれぐらい混んでた?」

「もうメチャクチャ。食料品とか、取り合いだったよ」とカズが答えた。「パンとか全部なくなってたし」

「略奪じゃないけどね、喧嘩も起きていたし。危険だよ」

実さんはそう言いながら、わずかに肩を上下させていた。たしかに、結構な混雑だ。

「んじゃ、もう行こうか。宿は取ったから。俺も荷物持つよ」

そう言いかけて歩き出すと、カズが「あーっ!」と叫んだ。

「ドラッグストア行かなきゃ!」

「えー、戻るの?」と、ナオが口を尖らせる。

「途中のコンビニとかじゃダメか?」と、俺が聞くと、カズは「えー、うーん」とまごついた。俺はそのまごつきからすぐに察した。カズはおそらく、女の子のデリケートな何かを買おうとしているのだ。前に会社のインターンに来てた女子大生も、よくわからない海外のクリームを手にベタベタと塗って、それがないと指がボロボロになるようなことを言っていた。女にはそういう事情があるんだろう。

「よしっ、じゃあ俺一緒に行ってやるから、実さんとナオは先に車戻って荷物積んどいてくれよ」

「え、いいの?」

「いいよ、あっちのアウトドア向けのモールにもドラッグストア入ってるし、俺、武器持ってるから」

そういうと、俺は首の後ろからバールをちらりと覗かせた。

アクティブ・モールはそれほど混んでいなかったが、すでに閉まっている店も多かった。こんな事態にチャリンコを買ってもしょうがないだろう。ただし、キャンプ用品を売っているエリアは死ぬほど混んでおり、もしあそこでパニックが起きたらかなりひどいことになるはずだった。ドラッグストアは一階にあって、カズはお目当ての製品を探しに店内に入っていった。俺は向かいにあるボルダリングジムを眺めながら、こんなときでもボルダリングやってる奴がいるんだな、と考えこんだ。もしここでパニックが起きたら、いま壁を登っている痩せっぽちのあんちゃんは壁にしがみついて頑張るんだろうか。で、その結果力尽きて、ゾンビがうじゃうじゃいる地上に墜落する。とても映画的な死に様だ。といっても、いまこうしてボルダリングをしていることは彼にとって普通なのであり、パニックに備えて奔走している人は少数派なのかもしれない。

「おまたせ、ありがと」

振り返ると、カズが紙袋を抱えて立っていた。どうやら買えたらしい。それじゃあさっさと逃げるか、と歩き始めると、二階のエスカレーターから人が叫びながら落ちてきて、その金属音めいた声の高さが俺の臓腑をひっと押し下げた。地面に落ちたのは若いママさんで、抱っこ紐をつけていた。激しく打ち付けたらしく、動かない。

と、エスカレーターからオバサンが一人ジャンプしてきて、ママさんの側に駆け寄った。助けるのかと思ったが、そうじゃなかった。肌は明らかに黒く、ゾンビ化している。オバサンは手に持っていた何か——よく見ると、ダイソンのハンディクリーナーだった——でママさんをバンバンと叩き始めた。あまりにも強く叩くので、ママさんの体はバインバインと跳ねたが、すぐに掃除機が壊れた。壊れた掃除機を叩きつけると、オバサンはママさんの上に馬乗りになった。ママさんは横向きの姿勢から、懸命にうずくまろうとしていた。たぶん、赤ん坊を抱っこしているのだ。

と、俺の背中がガリガリっと削れる感じがした。カズがバールを取り出したのだ。カズはそのまま走りだすと、バールでオバサンの頭をフルスイングで撃ちぬいた。ゴインという鈍い音がアクティブモールに響き渡る。オバサンは横に倒れたが、そのまま動かなくなった。俺が駆け寄ると、カズはバールを固く握りしめたまま、肩を上下させていた。奥二重の目を見開いて、懸命に気を落ち着かせようとしていた。

「カズ、グッジョブだ」

俺はそう言うと、彼女の肩を掴んだ。ガタガタと震えていた。オバサンは死んだだろうか? 俺は横倒れになったオバサンを観察した。呼吸している気配はない。頭から血も出ていない。あの「とりはま」の板前が死ななかったところを見ると、一時的に行動不能になっているだけなのかもしれない。いずれにせよ、長居は無用だ。俺はカズの手からバールを毟り取ると、それを背中にしまい、カズの手を握った。

「おい、待て」

俺を呼び止めたのは、なにやら屈強そうな男だった。髪が短くて、ヤンキーっぽい黒ジャージを着ている。からまれたら面倒そうだなと様子を伺っていると、男の顔色が変わって「なんだあれ」と呟いた。なにやら、俺の背後を指差している。

振り向くと、さっき墜落してボコられていたママさんが立ち上がり、オバサンにのしかかっていた。姿勢的に人工呼吸でもしているのかと思ったが、そうではなく、オバサンを齧っていた。齧られている最中、オバサンはうーんうーんといううなされたような声を上げていた。ママさんの肌は黒く変色しつつあった。さっきどんな色だったのか、俺には思い出せなかった。

「ねえ、もう行こうよ。無理。怖い」

カズはそう呟いた。俺はカズの手をぎゅっと握りしめ、走りだした。幸い、さっきのママさんの活躍によって俺達の殺人現場を目撃した人たちは誰一人追ってこなかった。

2016年6月17日公開

作品集『はつこいオブ・ザ・デッド』最新話 (全7話)

© 2016 高橋文樹

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