Chapter Three……方舟
一‐二 五曜会
日も落ちて暗くなった頃、宗光は神戸の椿屋の門をくぐった。女将が「松永さん」と丁重に出迎える。かすかに開いた戸から談笑する声が聞こえてきた。
「もう誰そ来ちょるんか?」
小見が尋ねると、女将は「まだお一人です」答えた。
「そいなら、あれは別の団体さんかいな。いらしちょるのはどちらさんじゃろ?」
「種村さんという方がいらしてはります」
「種村? 聞いた事も無い」
宗光が怪訝な顔をすると、小見が「郵船の方ですよ。兄まが呼んだんじゃないですか」と笑う。
「おお、そうかそうか、今夜の主役じゃ」
座敷へ繋がる襖を開くと、白い詰襟の船員服でマドロスパイプを燻らせている男がいた。宗光と小見を認めると、小さくだが、ゆっくりと確かに頭を下げた。慇懃でいながら自負の垣間見える挙動。紳士然としたカイゼル髭を生やした顔はあくまで端正だった。
「これはどうも、お初にお目にかかります。儂は松屋汽船の松永と申します」
麦藁帽を脱いで女将に渡しながら、宗光は丁重に挨拶をした。
「はじめまして、種村興一と申します。日本郵船の一等航海士をしています」
外国人風に手を差し出して握手を求める様は、いかにも外洋航路に携わる人間に相応しい振る舞いである。宗光はその手を握り返しながら尋ねた。
「失礼ですが、どちらの航路についてらっしゃるので?」
「欧州航路です」
「というと、諏訪丸ですか? あれは一〇〇〇〇屯ぐらいあったでしょうか」
「一一〇〇〇屯です」
へえ、と小見が喚声を上げた。小見も航海士であるが、松屋汽船に一〇〇〇〇総屯を超える船は無い。
「そんなでかい船に乗ってらしたとなるとゆくゆくは大船長ですな」
宗光の追従に種村はカイゼル髭を上げて応じた。ここだと決めた宗光は、「さあさ、揃うまで一杯やっちょりましょう」と女将を促した。
五曜会の面子が揃うまで、宗光と種村はかなりの会話をした。種村の方はどうかわからないが、宗光は「種村氏ィ」と呼ぶぐらいには打ち解けた。
この日の五曜会の面々はあと六人いた。はじめに来たのが長谷浦友蔵、神戸の老舗料亭「蓬莱」の料理人である。次が大阪大学の文学部助教授で民俗学を研究している井狩豊三と、その学友で内科医の田畑信吉。神戸新報の記者、諸岡大悠。神戸銀行の中村久十。神戸に本拠を置く太平洋移民株式会社の陣内康安。神戸の洋食屋「貴欧軒」のコック萩俊介。そして、遅れて来たのが幼馴染の郷中金之助、柳井市の旅館「星山荘」の次男坊である。
総勢十人が自己紹介もそこそこに酒を酌み交わした。そして、食事が一通り出揃うと、酌婦を追い出して人払いをする。
「皆さん静粛に、静粛に」
少し頬の赤くなった小見が、子供のような坊主頭を左右に振って一人一人に語りかける。
「これから、松屋汽船の松永宗光より、皆様方にご挨拶があります」
立ち上がった宗光を全員が注視する。宗光も一度咳払いをして、声を出そうとしたが、思わず照れて相貌を崩した。
「なんや、宗光さん、柄にも無い」
記者の諸岡が茶化すと、どっと笑いが起きた。こうなることを見越しての照れ笑いである。
「いや、どうもこういうのはいかん。ちょっと砕けて行きますけえの、ごめんなすって」
宗光は輪になった宴席の中央にあぐらをかいた。猪口の中の酒が揺れる。
「種村氏ィは裏南洋航路を知っちょりますか」
急に水を向けられた種村は、パイプを置き、戸惑うような表情を見せてから「ええ」と答えた。
「我が社が三年ほど前に開設した航路ですよ。政府命令航路です」
記者の諸岡が急に賢しい顔つきになって、「まさかそこに乗り込むんですか?」と、尋ねる。宗光はそれに答えず、含み笑いで返した。諸岡は「先の大戦で、南洋群島が日本領になりましたな」と、食い下がった。
「正確には委任統治領ですよ。国連の許可を受けて統治しているんです。軍事施設の建造は禁止されていますがね」と、種村。
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