二〇一四年から二〇二〇年にかけて、私は千葉県千葉市で母と同居していた。私と妻のあいだに双子が生まれ、育児があまりにも大変だったので実家に転がり込んでいたのである。その後、二人の子供が産まれ、子供四人と大人三人(さらに猫二匹と犬一匹)の大所帯で生活していた。母は老体に鞭打って、夕食の準備や子供達の風呂上がりを手伝ってくれていた。もうカウンセラーの仕事は辞めていて――といっても子育てを手伝うために自発的に時間を空けてくれたのだが――、育児のサポートをしていないときは読書や昼寝、書き物などをしていた。書き物をするときは一年中出しっぱなしのこたつに座り、MacBookに向き合っていることが多かった。そのMacBookは私が選んだもので、使い方を教えるときに私が楽だからという理由で一般的なWindowsではなかったのだ。かたわらにはA4のコピー用紙の束があって、鉛筆の走り書きがしてあった。本を読み、構想をメモして、文章を書こうとしていたのだろう。母は若い頃にライターをしていて、本を四冊ほど出版したことがあり、そのときの習い性を老いてからも続けていた。藤原道長についての評伝を出したいらしかった。もう十年ぐらいマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読破するという目標を掲げていたが、読むたびに寝てしまうので、読了まではいたらなかった。
私が母の異変に気づいたのは、二〇一九年の春ぐらいだった。あまり風呂に入らなくなったのである。母はもともと風呂が好きではなかったので、冬は毎日風呂に入らず、洗面台で頭を洗うだけで済ませることも多かった。ヒートショックによる突然死をとにかく恐れていた。しかし、だいぶ気温も上がった時期だというのに、一週間ぐらい入らないことも多く、かなりせきたててようやく入る、という具合だった。疲労を訴えることも増えていて、物忘れが多くなった。一階の和室が母の書斎で、二階に寝室があったのだが、寝室まで上がらずに和室でこたつに潜り込んで眠る日が増えた。私は、なんだかよくわからないが医者に見せた方がいいのでは、程度の疑念を持つようになった。
医者の予約を入れるか入れないかの時期に、私はtwitterでダイレクトメールを受け取った。なんでも、私の母の知人であるらしい。母は家族診断士の資格をとってカウンセラーをやっていたから、仕事仲間かクライアントといったところだろう。彼女は私の母と喫茶店で会って話したそうだ。その会話の中で、着替えの最中につんのめって転倒することがある、というエピソードに注目し、それが彼女の母が患ったパーキンソン病の症状に酷似している、と私に忠告してくれたのだ。あとから考えてみると、この忠告はとても正しかったし、そして、その忠告を受けることができたのはラッキーだった。私はほとんどのSNSを実名でやっており、誰でもアクセスできるようにしているので、知り合いの知り合いぐらいから連絡を受けることがたまにある。実名ゆえに困ることもたまにあるのだが、このようなメリットもまた存在するのだ。
二〇一九年六月、私と母は市内にある神経症内科Iクリニックの待合室にいた。母はかなりプリプリしていた。「あんた、私がボケてると思ってるでしょ!」という具合だ。まだ七十一歳だったから、そう怒るのも無理はないのだが、私は「もうそういうお年頃だから」「念のため検査しておいた方がいいでしょ」などと曖昧になだめすかした。診察室に呼ばれて入ると、白衣に明るいスラックスをあわせたダンディな院長が診察してくれた。手をつかんで何度か上下させ、歩行の様子を見た。そしてこともなげに「パーキンソン症状があるね」と告げた。その後、認知症のテストを受けた。そちらの方は問題がなく、見当識(時間・場所・人間関係を把握する能力)を計る三十点満点だかのテストで二十八点だった。最近の物忘れの様子から考えてとても「問題なし」とは思えなかったのだが、院長によると歳相応とのことだった。パーキンソン病かどうかを確定させるために国立病院での検査を受けることになった。DATスキャンという検査でドーパミンの分泌が正常かどうかを調べるらしい。診察があまりにもあっという間に済んでしまったので、私は呆気に取られた。パーキンソン病はたしか不治の病である。母はその診断に対し、どこか人ごとのようであった。帰りの車の中でこれからの闘病生活について告げると、「えー、大変ね!」と驚いていた。それよりも認知症テストで合格点だったことの方が嬉しかったらしく、自分を指さして「天才!」と満面の笑みを浮かべた。
国立病院での検査が始まる前に、私はパーキンソン病についての本を何冊か読んだ。その結果、以下のようなことを理解した。
- パーキンソン病はドーパミンを分泌する神経細胞が減少し、運動能力に支障をきたす。
- 症状は振戦(手足が震える)、筋固縮(筋肉のこわばり)、無動状態、姿勢反射障害(バランスを崩す)など、運動機能の低下。
- ドーパミンの分泌を助ける薬での対症療法が主で、根治はしない。不治の病である。初期(五年程度)は治療が奏功しやすいが、徐々に効きが悪くなっていくので、十年近くをかけて悪くなっていく。
- 重症度は五段階にわけられ、四段階ぐらいから介護が必要になる。最終的には車椅子・寝たきりとなり、全面介護(食事・入浴・排泄での介護)が必要となる。
- 高齢者に特に多い病気で、六十五歳以上では一〇〇人に一人程度が発症する。
- 国の指定難病である。
- 致死的な病気ではなく、寿命にそれほど影響を与えない。つまり、介護をしていれば死ぬことはない。
- レビー小体型認知症というアルツハイマー病とは異なるタイプの認知症を併発することがある。
おそらくだが、私が母と同居していた段階ですでにパーキンソン症状は現れていたのだろう。いまになって思うことだが、風呂に入るのを億劫がったのも、面倒だからというより、運動能力の低下による不便が原因だったのかもしれない。そうすると、この発見の時点ですでにホーエン・ヤールの重症度分類五段階中の二ぐらいまでは進行していたのではあるまいか。もう少し治療が早ければ違った結果になったかもしれない、というのはいまでも少し後悔している。
情報収集を経て国立病院での検査を受けたわけだが、Iクリニックに検査結果を届けてのちに判明した結果は医師の見立て通りパーキンソン病だった。治療薬として三種類の薬をもらい、月に一度通院することになった。薬を飲めばひとまず症状は緩和されるので、状況を見ながら薬の量を調節するらしい。治療のメドが立ったことで、不治の病になった衝撃は和らいだ。
さて、この頃に私は実家を出て近くのアパートに移り住む計画を立てていた。このアパートは母の所有するアパートで、実家から歩いて十五分ぐらいの距離にある。それなりに広い敷地があったが、築五〇年以上と古く、不動産屋も募集をかけていないために空き部屋だらけだ。私はこのアパートを二世帯住宅として建て替えようと考えていた。上の双子が二〇二〇年の春には小学校入学を予定していたが、母の実家にそのまま住んだ場合に通うことになる中学校は学級数も少なく、自治体の発表する消滅予定校リストに入っていた。その一方で、アパートの学区にある中学校は千葉市のモデル校である。子どもたちの将来設計を考えても、アパートの建て替えを一つ頑張ってみるべきだと私は強く決めていた。すぐに建て替えできなかったのは、私が会社経営者で住宅ローンの審査が壊滅的だったためである。アパートをリフォームして三年ほど暮らし、住宅ローンの審査が通るようになったら建て替えをする計画だった。
母がパーキンソン病になったといっても、特にこの建て替え計画を変えるつもりはなかった。母も育児の手伝いから解放されることを喜んでいた。毎晩夕食を用意するのが相当にこたえていたのだろう。この点はとても感謝している。私の子供たちは半分ぐらい私の母が育ててようなものだった。となると心残りは病状の悪化であった。少し時間が前後するのだが、はじめてIクリニックでの診察を受ける直前に地域包括支援センター(行政による介護保険の相談窓口)に相談して面接までこぎつけていたのだが、同居家族がいることや猫を飼っていること、本人が大丈夫と主張したために市の相談員はさっさと帰ってしまい、なんの支援も受けられなかった。少し調べると、同居家族があると支援が受けられないらしい。将来必要とするだろう介護制度を利用するためにも、引越しをして別居状態の方が都合がよいだろうという目算があった。
二〇二〇年に入り、コロナ禍が本格し始めた春に私と家族は引越し、母は独居状態となった。私は愛犬パッキンの散歩を毎日朝晩二回行っていたので、実家を休まず訪問した。滞在時間を往復時間を含めると、一日二時間程度である。のちに知ったのだが、介護離職の危険シグナルは一日に二時間を介護に費やすことだそうだ。私はこのとき、すでに介護離職の危険信号にさしかかっていたのだが、初期はそれほど大変ではなかった。私は作家を名乗っていて、実際のアイデンティティもそうなのだが、生活の糧はウェブ(特にWordPressというソフトウェア)に関する技術で生活費を稼いでおり、株式会社破滅派という出版社を経営しながら、IT事業に関してはほぼ身売りするような型で別会社に勤めていた。細かな実態については色々遷移するのだが、この頃はCTO(最高技術責任者)として、タロスカイ株式会社に勤務していた。二〇一九年当時は秋葉原にほど近い岩本町にオフィスを構えていたが、コロナ禍が本格化した頃からオフィスを引き払い、フルリモートに移行したばかりだったのである。そのため、私は朝晩の浮いた通勤時間を母の介護に充てることができていた。実家の徒歩圏内に住んでいたのも恵まれていたのだろう。とりあえずパーキンソン病の治療状況を見ながら、通院や買い物に付き合ったり、掃除をしたり、そんなところだ。実際、はじめて診療を受けた二〇一九年の春から一年ほどが経過していたが、病状も認知症の進行も特に問題はなかった。このあとに地獄が待っていようとは、そのときの私には知る由もなかったのである。
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