Chapter Three……方舟
一‐一 五曜会
来し方を振り返れば、瀬戸内の穏やかな水面が鱗光を爆ぜている。大小の船が絶え間なく行き交い、貨物を、人を――そして、それにまつわる夢や希望を運んでいる。生い茂る松の枝間に覗く阿月の春は一篇の詩と言っても良かった。
大星山の麓にある本家へと向かう山道を登りながら、松永宗光は何度も瀬戸内海を振り返った。一望すれば遥かな海も、海図の上では細長く、その先には無限の海原が続いている。放っておくのは惜しい。いますぐにでも船を駆って、未知が手ぐすね引いて待つ世界へ飛び出したかった。
「兄ま、急ぎましょう。社長が臍を曲げますよ」
付き人の小見に急かされると、宗光は瀬戸内に名残惜しげな一瞥をくれ、再び山道を歩き出した。これから、父を説得しなければならない。これまでは勝手気ままにやってきた宗光も、ついに社長の許可を貰わなければままならない事業を手がけようとしていた。
松並木のようになった山道の先には、屋敷の入り口があり、一人の下男がそわそわしている。彼は宗光を認めると、息せき切って坂を駆け下りてきた。
「二代目、大旦那がお待ちです」
「わかっちょるわ。そう急かんでも、待っちょるよ」
下男はそれでも納得が行かないのか、小見の持っていた革鞄を奪い取ると、小走りに屋敷へ向かった。下駄の蹴上げる白い砂が塊のまま落ちる。下駄の歯に抉られて剥き出しになった砂地は、瞬く間に乾いて白くなる。この土地はやはり湿っている。耕作に向かない。
玄関にはすでに義母のときや四人の弟をはじめ、家の者がほとんど揃っていた。ただ、父の伝衛門だけがいない。
「親父は?」
挨拶もそこそこに尋ねると、ときは「さっきまでお居でたけど」と首を傾げた。逃げよったな、という言葉を押し殺して、宗光は溜息をつく。
「なんじゃ、電報打ったろうが」
「そうですけど、探してもお居でないのですわ、ねえ」
ときはそう言って下女に相槌を求め、いかにも困ったような顔をした。眉根を寄せ、頬を少し膨らませる、いかにも子供っぽい顔だ。父の後妻であるときは宗光よりわずかに年下であったが、歳不相応に幼いところがあった。
「まあ、ええわ、誰か知らんか」
呼びかけに答えるものはいない。使用人達がいっせいに怯えたような表情になる。見かねた小見が「儂が探してきましょうか」と言った瞬間、にやにやと悪戯っぽい笑顔が目に入った。
「なんじゃ、晋作、おまえ知っちょるんか」
晋作はまだ六歳らしく身体をくねらせると、えへへと笑いながら、舐めていた飴玉を指で摘み出した。
「お父ちゃん、畑じゃ」
「どの畑じゃ」
晋作は構われるのが嬉しくて堪らないといった風に、舌を出して笑った。三男の馨も、兄の後ろではにかむようにして笑っている。
「大畠の畑じゃ。菜種見に行ったけえ」
我慢しきれなかったのか、馨が叫ぶように言った。
「おお、そうか。耐い難いの。ほれ、小見」
宗光の指示で、小見は鞄から紙袋を出した。
「みんなで分けえ。平等にな。不実したらいかん」
四人の弟は紙袋を覗き込んだ。中には神戸で買い込んできたキャンデーやビスキットがぎっしり詰まっている。嬌声を上げる弟達はやはりまだ子供だった。宗光はまだ赤ん坊の博文の頭を撫でて「尋常学校入ったら文具買うちゃるけえの」と囁いた。それを聞いたときは「あらあら良かったねえ」と、他人事のような声音で言った。
使用人に呼ばせた車が大畠の畑の側までくると、父伝衛門の姿は直ぐに見つかった。今更珍しくもないだろうに、小作人達の働く姿をじっと眺めている。
「親父、どうしてこそこそする」
宗光の問いかけに振り向いた伝衛門は、会釈する小見に顎で答えた後、その小躯を縮めるように腕を組んだ。
「何もこそこそしちょらん」
「じゃあ、なんで家におらんかった。取って食うわけでもなかろう」
伝衛門は応えず、再び小作人を見やった。家族六人で菜種の手入れをしている。家畜のように愚直な仕草を見ていると、宗光はいつも嫌な気分になった。彼等の愚鈍さがではない。このような光景を生む世が、である。
「親父、そんなこの畑が大事か」
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