隠された名前
突然高価なプレゼントをあげることを思い立ったのは、あるエッセイを読んだことがきっかけだった。誰かにプレゼントをあげるのなら、予算内で最高級品が買えるものにするといい――その考えは私を深く納得させた。
大学一年生の頃、私は年老いた猫のように人懐っこい恋人に三万円のボールペンを贈った。はじめてアルバイトで得た金を資金に当てた。恋人は「どうしたの?」と根拠を尋ねた。
「根拠がないってことが最高の根拠なんだよ」
私は恋人をひどく感動させることに成功し、涙さえ零させた。
それに味を占めた私は就職して一年目のボーナスで次の恋人にプレゼントを買うことに決めた。五万円ほど自由になりそうだった。その金ですぐさまHというブランドの手帳を買い(Hは私の知りうる最上級だった)、ただそれを渡すだけのために、彼女と会う約束をした。唐突な振る舞いをするという点に関しては自信があった。
約束の喫茶店で落ち合うと、彼女はまず驚きを口にした。平日の仕事終わりに会うことは稀だったから。でも、私にはそんなことはどうでもよかった。机の下で密かに握られたプレゼントを突き出すタイミングを狙うあまり、胸がはちきれそうになっていた。
「手帳持ってる?」
開口一番そう質問すると、彼女は不思議そうな顔でバッグから手帳を取り出した。黒地の布張りで、紫や赤の花が刺繍されたものだった。私はびっくりしてしまった。その手帳を見たことがあったはずなのに、彼女が手帳を持っているはずがないと思い込んでいた自分に。
「そうだよな、持ってるよな」と、私は取り繕うように言った。
「うん、持ってるよ。知らなかったっけ?」
「いや、知ってた」
「どうしたの、急に変なこと訊いて」
私はテーブルの下の荷物置きにある手のやり場に困り、もじもじした。彼女はそれを察し、テーブルの下にもぐって私の手元を覗き込んだ。
「何それ?」
「それが、偶然なんだけど、手帳なんだ」
「手帳? 何のための?」
「プレゼントしようと思って」
「私に? なんで?」
彼女はそう言ってテーブルの下から頭を抜こうとしたが、身体を起こす拍子に頭をぶつけ、「いてっ」と男の子みたいな声をあげた。自分が頭をぶつけた理由さえもわからない、といった顔をして頭をさすっている。
「理由はないよ。それが理由」
「じゃあ、なんで手帳なの? もう十月じゃん」
私はまごつきを通り越して、もう開き直っていた。
「なんでなんでってうるさいな。理由のないのがいいんじゃないか」
彼女は目を真ん丸くして、それからはじけるように笑い出した。そして、喫茶店内部の人々の注目を一通り集めてから、なんとか笑いを収めると、「読めないねえ」と呟いた。
「でも、そこがいいとこかな」
私は何か誇らしい気持ちになって、雄弁にまくし立てた――その手帳の寿命(というか、有用性)はあと数ヶ月しか残されていないけれど、これといった理由もなく贈り物にされたその手帳は、他のどんな贈り物よりも大事なものになるだろう……。
彼女はにこにこと笑いながら、私の話を聞いていたが、一段落すると、申し訳なさそうに、眉間に皺を寄せた。
「でも、手帳の中身って買えるんだよ。レフィルっていって。そうじゃなきゃ、こんなに高いもの売るの詐欺じゃん」
ということは、手帳はまだその有用性を失っていないことになる。私の展開した手帳に関する否定神学は、あっという間に馬脚をあらわした。とてつもない散財をしたような気分になる。と、彼女はそんな空気を見て取ったのか、わざとらしく手帳を抱きしめ、呟いた。
「でも、ありがとね。大事にする」
その言葉ですべてが救われたような気分になった。彼女もまた、そのような言葉――暖かい毛布のような言葉――を知っていた。
まあ、それも彼女の演技だったのかもしれない。彼女は高校の頃は演劇部員だったらしいから。
『本物の痕跡が永遠に失われてしまったことに、人はなんと無関心でいられるのか』――カフカはそう書いている。
私は唐突であることに関しては自信があったけれど、文脈を読むのは苦手だった。「空気」とか「流れ」と言ってもいいかもしれない。言い換えれば、文脈が読めなくて行き当たりばったりだったということだ。
元史を殺したすぐ後、彼女を実家に連れて行った。なぜあのタイミングでそんなことをしたんだろうか。しきたりには疎かったが、そろそろ正式に親に紹介するのがいいだろうと思っていたのだ。友人を殺したことはもうチャラになったように思っていた。同じ日にホームレスに襲われて失明しかけた――ただそれだけの理由で。
よく晴れた日だった。郊外にあるJRのT駅で降りた私達は、駅前のバスロータリーから伸びる長い大通りを歩いた。道の両脇にはずらりとマロニエの木が植えられていて、そのために「まろにえ通り」という名がつけられている。ヨーロッパの町並みをなんとか真似しようとしたけれどもうまくいかなかった――そんな悲しみが町を支配していた。私の生まれ育った町。
「綺麗な道じゃん」
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