耳を塞ぐ

月に鳴く(第6話)

合評会2020年11月応募作品

松尾模糊

小説

3,189文字

老後の趣味として油絵を始めたものの、妻には家に一日中いる邪魔者として嫌味を言われる。エドヴァルド・ムンクの《叫び》の模写をやりながら、遠い青春時代に親友だった神田に聞いた《叫び》のエピソードを思い出す。

エドヴァルド・ムンクの《叫び》。あの橋の上で叫ぶ海坊主のような人間なのか、妖怪なのか分からない、インパクトのある像を誰もが容易に連想できるほど有名な絵画だ。レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》に匹敵するほど日本では知られているのではないか。恥ずかしながら、わたしはあの橋の上の像が“ムンク”であの作品は“ムンクの叫び”と呼ばれていると勘違いしていた。あれがムンクによる《叫び》という作品だと知ったのは高校生の頃だった。そして、あの作品が同じ作者による同じ構図で五作もあると知ったのはつい最近のことだ。

 

「なに、《叫び》?」あ、ああ。ちょっと模写をしてみようと思って。これなら簡単かなと。
「暇なのね……洗濯物の一つでもしてくれりゃいいのにね。こっちはいくら時間があっても足りないってのに」

始まった妻の愚痴にわたしは耳を塞ぐようにキャンバスに向かい、油絵の具をパレットに注ぎ足した。昨年、退職して時間を持て余したわたしは居心地の悪い家から少しでも離れようと、近所のテニス教室に通うようになった。しかし、やっとラリーも続くようになり始めた矢先にコロナ禍でテニス教室は閉鎖され、外に出るのも憚れるような状況の中で藁にも縋る思いで初心者用の油絵セットをアマゾンで注文したのが先月。勢いで頼んだのはいいものの何をどうやるのか分からず、ひとまず教則本を読んでいるうちにひと月なにもせずに経ってしまった。そもそも、わたしに絵心なぞ微塵もなかった。学生時代の美術の評価は芳しくなかったし、それはムンクの事を知らなかったことからも自明だろうが。そんなわたしがキャンバスの前に座っているところを見たら、きっとあいつは腹を抱えて笑うだろうな。ふと古い友人の顔が頭に浮かんだ。

 

2020年11月16日公開

作品集『月に鳴く』第6話 (全16話)

月に鳴く

月に鳴くの全文は電子書籍でご覧頂けます。 続きはAmazonでご利用ください。

Amazonへ行く
© 2020 松尾模糊

これはの応募作品です。
他の作品ともどもレビューお願いします。

この作品のタグ

著者

この作者の人気作

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


2.8 (11件の評価)

破滅チャートとは

"耳を塞ぐ"へのコメント 12

  • 編集者 | 2020-11-18 18:51

    神田の絶望は主人公の視点のように察せらるが、主人公は何に絶望して死後の世界に行った(招かれた?)のか、色々考えさせられる。妻と会話している辺り、シックスセンス的な話でも無さそうだ。ノスタルジーが単に懐かしさや些細な哀愁に留まらないことが表されてるなと感じた。

  • 投稿者 | 2020-11-19 08:25

    コロナ禍なんかも使って、ちょうど時期的なものを書いてて、いいなあって思いました。コロナ禍の昨今では、精神に異常をきたす人も多いっていうニュースを見ましたし。ええ。あとアマゾンで安心しました。私もアマゾン派なんで。はい。

  • 投稿者 | 2020-11-19 22:51

    前段で『叫び』に対して「妻に耳を閉ざす私」と「世間に耳を閉ざす神田」と二重のメタファーを張っているのには唸らされました。それがあるからこそ後段の私=神田があっちの世界に連れていかれるという展開がすんなり入ってきます。

  • 投稿者 | 2020-11-20 23:38

    10代男子の親密なホモソーシャリティは松尾さんが得意とするテーマなので、今回もその手で来たかと読み進めていったら最後に驚かされた。主人公の絶望はよくわからなかったけれど、理不尽で得体のしれないものが突然出てくるところはすごくいい。

    主人公は退職してのんびりテニスや絵に興じるご身分だから高校時代は40数年前のことだろうと思ったが、回想シーンがものすごく90年代(あるいは古くて80年代後半?)っぽい感じ。1970年半ばごろの田舎だったら、まだコンビニもファミレスも目新しくて日常の風景の一部って感じじゃないかも。スクールカーストやFランも、回想されている時代よりも後に一般的になった用語ではないだろうか。早期退職か?

    • 編集者 | 2020-11-22 00:10

      Fujikiさん>ご指摘ありがとうございます! 時代設定を完全に誤っていました。後ほど修正いたします。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-21 16:07

    読み終えてから画像の「叫び」を見直すと本当に引き込まれそうでゾッとしました。神田さんの死の真相は何だったのか?なぜ主人公は連れていかれたのか?
    消化されないで終わりましたが、「叫び」の絵の恐ろしさゆえにあまり気になりません。うまい使い方です。 
    絵から昔の亡霊を呼び寄せてとり付かれてしまうお話、昔、テレビドラマにあってトラウマになるほど怖かったのですが、そんなことまで思い出しました。

  • ゲスト | 2020-11-21 18:19

    退会したユーザーのコメントは表示されません。
    ※管理者と投稿者には表示されます。

  • 投稿者 | 2020-11-21 19:50

    想像以上に「叫び」が溢れていて、それはずっと前から続いているんだろうと、そんな気がしました。
    ただ、「向こう側」は逆に静かそうなのが気になりました。

  • 投稿者 | 2020-11-21 22:18

    わたし=神田であってもそうでなくても成り立つ構造のように感じます。
    過去のノスタルジアに浸っていたわたしを、それが叫びとなって襲う展開に、一筋縄ではいかない今回のテーマの幅広さを感じさせられます。

  • 投稿者 | 2020-11-22 00:14

    「一緒に思いきり叫ばないか? スッキリするよ」という神田のセリフが青春ドラマで観るような快活な感じに聞こえて、それが逆に状況が分からずに困惑する「わたし」にとってはとても恐怖に感じることだろうなあと思いました。

  • 投稿者 | 2020-11-22 09:46

    「叫び」は特段怖いとも思っていなかったのですが、作品を読んでから見返すと、神田のいるあちらの世界に連れて行かれそうな不気味なものに思えました。
    神田の描かれ方が良いです。「神」が入っているのも雰囲気に合ってますね。神秘的というか。身近なのに妖しげというか。「異界の者」感が際立ちます。

  • 投稿者 | 2020-11-22 12:35

    松尾さん、すごく素敵な小説を書いてる、好きだなあと思って読んでいたら、最後にちゃんと破滅派してて思わず笑ってしまいました。たった一行でいっきに物語の方向性や雰囲気を変えていく力はいつもすごいと思います。良かったです。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る