逆光

松尾模糊

小説

2,322文字

BFC2落選作。幻想、奇想的な掌編です。

昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか――フリードリヒ・ニーチェ『ツゥトラストラはこう言った』氷上英廣訳、岩波文庫

 

もう、うんざりだよ。外回りでビル街の一角を歩いている時に突然その声は聞こえた。わたしは一瞬立ち止まったが心の声がふと漏れてしまったのかと思い、頭を横に振ってからアタッシュケースの持ち手を持ち直して、再び高層ビルの合間に陽光の差すアスファルトの上を歩き出した。うんざりだって言ったんだ。え? 今度ははっきりとした大きな声が背後で聞こえて、わたしは思わず声を上げて振り返った。まっくろな人影がのっぺりと立っていた。わたしはそれが初め、誰かが逆光で黒く見えているものと思ったが、太陽はわたしの背後にあったのでそれはあり得なかった。しかし、影が立ったりしゃべったりする方がもっとあり得なかった。全てが現実離れしていた。あんたの影でいるのは、もううんざりなんだ。わたしは足元を見た。確かに太陽は昇っているのに、そこにあるべきわたしの影は無かった。どうやら、本当にわたしの影らしい。わたしは疲労か熱中症か、それともストレスによる精神的なものなのか、とにかく身体に問題が起きていると考えた。辺りを見回し、歩道の合間に植えられたクスノキを丸く取り囲むベンチに腰掛けた。おい、聞いているのか? あんたの影を俺はやめる。幻聴が鳴りやまない。救急車を呼ぶか? いや、次のアポはこれまで通い詰めてやっと手にしたチャンスだ。それに今月の営業実績を考えると、こんなところで立ち止まっている暇はない。まだ仕事のことを考えているのか? あきれるな。あんた自身が会社の影のような人生だ。その影である俺の存在意義を考えてもみろよ、そりゃ辞めたくもなるだろう。分かるよな? 影はベンチに座り頭を抱えるわたしに詰め寄った。わかったよ、もうやめてくれ。きみの好きにすればいい。わたしはやぶれかぶれになって言った。いいんだな? あんた、影を無くすってことが何を意味するか分かってんのか? 会社の影である男の影に意味なんてないんだろ? わたしは影の強い口調に少し腹が立って皮肉を口走った。そうじゃないことを証明してやろうってんだ! 影はわたしの右手をその黒い両手らしきもので取って引っ張り上げた。な、なにをするんだ! いいから来い! わたしは引っ張り上げられた右手がいつの間にか影の中に入り込んで動かなくなっていることに気づいて、咄嗟に左手でクスノキの幹を掴んで右手を引っこ抜こうと両足を踏ん張った。悪あがきはよせよ、人間。クスノキの大きな影が幹を掴むわたしの左手の合間に入り込み、引きはがした。わたしの身体は支えを失い、一気にまっくろな影の中に放り込まれた。
真っ暗で何も見えない。気を失ったのだろうか? 両手をゆっくり動かして周りを弄ったが、まるで空を掴むように手応えはない。死んだ? いやいやいや。そんなにあっけないものではないはずだ。とりあえず、ここがどこかを知る必要がある。暗闇の中でも一定時間が経てば目が慣れて何となくどういう場所かは分かるはずだ。少し目を閉じる。闇がより濃くなった気がした。また気が遠くなった。眠り込んだのか? こんな状態で。目を開けてもやはり暗闇は明けなかった。身体を頭の上から足元へとべたべた触ってみる。感触はある。生きてはいるし、怪我もないようだ。頭をぶつけない様に右手を上げて慎重に起き上がる。人が立てるだけの高さはある空間のようだ。もっともどのくらい高いのか、それ以上は分かりようもないが。右手を前に出して、左手を後方に伸ばしてぶつかる物がないか、何者かが襲って来ないか、確かめつつ前(なのか後ろなのか分からないが)へと進む。五分か十分か歩く(時間の感覚も全くつかめない)と右手が硬い何かに当たった。上下左右に這わせると平らであることが分かった。左手も同様にして這わせる。身体より大きい壁のようなものらしい。行き止まり? ふと、左手が凹凸に当たった。その辺りを右手でも弄ってみる。角はなく、丸みのあるものだ。手でつかめるくらいの直径っぽい。ドアノブ? 右手でしっかりと掴み右側に回してみる。ガチャリと音が鳴り、凹凸に従って重みのあるものが動く感触があった。扉だ! 出口か! 光が差し込む。見慣れたオフィスの一室だった。同僚や上司が無言でデスクに座り、カタカタとキーボードを叩いている。おはようございます! 一瞬、皆が手を止めてこちらを見たが、目を合わせようともせずに再びデスクトップのモニターに視線を戻した。違和感を覚えながらも、わたしのデスクに向かうと、そこにはすでに“わたし”がいた。誰だ? 影か! わたしは“わたし”の両肩を掴んで激しく揺らした。“わたし”は冷ややかな目でわたしを見遣る。上司がデスクからわたしの名前を呼んだ。わたしは返事をしようと口を開きかけたが、その前に“わたし”が返事をして立ち上がり、上司のデスクに向かった。ドンと書類を抱えた同僚がわたしにぶつかり、わたしは床に倒れたが、同僚は目もくれずに立ち去ってコピー機へと向かった。わたしはすがるように椅子の背もたれに両手をかけてデスクに着き、マウスパッドを動かしてモニターを見た。モニターはまっくろでキーボードを操作しても電源ボタンを押してもうんともすんとも言わなかった。キーボードを狂ったように叩くわたしを背後で“わたし”が見下ろして笑っている顔がモニターに映りこんだ。わたしは叫んだが、わたしの口からは何の音も発せられなかった。
目覚めると頬を涙が濡らしていた。白い天井が目に入った。酸素マスクが口に当てられている。色彩のない病院は居心地がよかった。やがて復職したわたしの営業成績はすこぶる快調だ。

2020年10月26日公開

© 2020 松尾模糊

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"逆光"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2020-10-27 08:18

    この筆者は多分、映像関係等に造詣が深いのであろう。冒頭から飽きさせないように読者を引き込む。うん、読み手を引き込。
    だが然し、ラストの、お些末感などを鑑みると、テレビジョンでビアを呑みながら二時間サスペンスを観ていた方がマシだなあ、とも思った。無論、ハナシの展開は、秀逸。

    • 編集者 | 2020-10-27 22:22

      >山谷様
      お読みいただいた上にコメント、誠にありがとうございます。お噂はかねがね聞いております。貴重なお時間を無駄にしてしまい、申し訳ありません。ご指摘された点がきっと敗因だと思います。山谷様のお時間を無駄にしない作品を書けるように精進します。今後もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

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