月に鳴く

応募作品

松尾模糊

小説

3,904文字

『黒き猫』1910年、菱田春草:151.1×51.0 永青文庫(熊本県立美術館寄託)
9月合評会テーマ「ホロコースト」応募作。

――朝鮮人あまた殺されたり
その血百里の間に連らなれり
われ怒りて視る、何の惨虐ぞ 「近日所感」萩原朔太郎、一九二四年二月『現代』より

 

関東大震災のあった翌年に萩原朔太郎はこの詩を詠んだ。彼は震災の被害にあった親戚を見舞うために郷里の群馬・前橋から東京に向かったという。そのときの様子は、彼の随筆集『阿帯』(河出書房、一九四〇年)に収録の「人間と歩行」に記されている。大宮から東京まで約十里の距離を米などを背負って歩いた彼は、一里もしないうちにへばってしまった、と自虐的に語っているが、同時期に群馬で起こった、県知事が保護を命令した朝鮮人十七名を自警団が惨殺した「藤岡事件」などの影響もあるのかもしれない、この詩には怒りの感情が満ちている。百里というと、約三百キロメートル、群馬―東京間でも百キロ程度なので、彼の怒りの実感の大きさが見て取れる。「惨虐」というのは、その凄惨さを表した彼の造語である。
わたしは震災から百年を迎えることを受けて、都内で開催されるシンポジウムで発表するレポートを執筆していたタブレット端末の画面から、後ろの窓ガラスに目を遣った。朝から降り続いている雨の雫が無数、格子柄網の向こうで行き場なく窓ガラスの外面を滴り落ちていた。百年前にはここに窓ガラスなど存在せず、この雨粒もやはり存在していなかったアスファルトの上ではなく、まっすぐに土の上に降り注ぎ、草木の根を潤して葉脈へと流れ込み、命の営みの循環の中を流れる川となっていたはずだ。百年という月日にはそのくらいの違いがある。だが、もし今ふたたび震災が起きたら、わたしたちは違う行動を起こせるだろうか。わずか十三年前だって人々は放射能汚染について様々な憶測を流布して、現地の被災者をどれほど傷つけたか。彼らはもう被災前の価値観を取り戻すことはできないだろう。それは身体への暴力とどう違うだろうか。人生を破壊するということは、殺人とどう違うだろうか。妻の夕飯時を知らせる声が階下から聞こえる。わたしは陰鬱な気持ちを忘れようと頭を振って、椅子から立ち上がった。書斎の扉を開けて、彼女にいま行くと応えてから階段をくだる。階段が内側に向かって曲がる、台形状に少し広くなった段の上に飼い猫のクロが腹部をさらけ出して横たわっていた。クロはわたしを一瞥して長い尾をくねらせたのち、再び元の姿勢に戻って目を瞑った。五年前、まだ生まれたばかりのクロを拾って来たのは妻だった。彼女がスーパーで買い物をした帰り道に、雨に濡れたアスファルトの上でうずくまるクロを誤って踏みそうになったが、子猫の鳴き声が聞こえて寸前でそれがクロであると気づいて足を挫いたと、少し腫れた彼女の右足首に湿布を貼るわたしの頭頂部に向かって興奮気味に話していた彼女は、今でも脳裏に艶やかなイメージで残っている。そういえば、ドイツでは黒猫を新婚夫婦に贈ると新婦が幸せになるという言い伝えがあるそうだ。わたしたちは結婚して少し経ってはいたが、クロは妻にとって幸福を運んだ招き猫だったのかもしれない。それは腫れが治まらない彼女の右足首をわたしが過度に心配してのことだったが、念のために彼女を連れて病院に連れて行ったことがきっかけだった。妻は足首よりも以前から気にしていた右乳房のしこりのことを医師に相談し、後日それが初期の乳がんであることが分かった。彼女は右脇の下を少し切るだけの切除手術でがんを完治することができた。
わたしはクロの上に屈みこみ、彼の脇腹を右手で優しく撫でた。ゴロゴロと鼻から漏れる息遣いが聞こえた。百年の間で、そうした奇跡のような人間と黒猫の出会いがどのくらいあったのだろうか。クロは白いひげをヒクリと動かして片目を開けた。黄色い虹彩の下には人間にはない「タペタム」という器官があり、クロは人間の七分の一の光量で暗闇の中を視認できる。いまは階段の上の出窓から差し込む夕日で比較的明るいので、クロの瞳孔は小さくなっている。クロの目にわたしはどう映っているだろうか。鏡像としてのわたしは想像できるが、それを猫の脳がどう認識しているかは猫になってみないことには分かりようがない。にゃあと短い鳴き声を上げて、クロはわたしの脇をすり抜けて階段を軽やかにくだった。
一匹の黒猫が三つのワイン樽の前でグラスを片手に思案する三人のワイン商の足元をくぐりぬけて真ん中のワイン樽の上に飛び乗り、四肢を折り畳んで居座った。三人は顔を見合わせた。どこから入って来たんだ、今は大事な商談中だから構ってやれないよと一人が黒猫に声を掛けながら追い払おうと右手を頭に翳した途端、黒猫は毛を逆立ててシャアと威嚇した。なんだ、猫の扱い方も知らんのかともう一人が両手を差し出してトゥクトゥクと舌を鳴らしながら黒猫に近づいたが、彼も猫の激しい威嚇をなだめることはできなかった。おいおい、勘弁してくれよ猫一匹に何を手こずっているんだと最後の一人が歯を剥き出しにしてシャアアと猫の真似をしたところ、黒猫は爪を彼の鼻頭に突き立ててひっかいた。なにしやがる! この野郎! と男が振りかぶった右拳を慌てて二人が押さえつけた。まあ、待て。あれだけ試飲して決めかねていたこの三つのうちこの樽に乗って、この猫が必死になって我々を近づけないようにしている……ということは、この樽こそ最高のワインに違いない。三人はお互いを見合いながら頷いた。――息子にせがまれて、父から聞かされた村に伝わる寓話をトゥルンプは話の途中ですでに寝息を立てていた息子の頭を撫でながら語り終えると、息子の額の上に口づけてシェードランプの傘の下からのぞく紐に手を伸ばした。屈みこむような姿勢から立ち上がって、ベッドの脇にある息子の机の上を照らす月明かりが差し込む窓のブラインドを下ろそうとした時、机の上に置かれたプリントが目に入った。ナチスの党大会で演説するヒトラーが荒い印刷でもわかった。我が国が犯したあまりにも罪深い内容が無機質な文字列で並び、強制収容施設のガス室、遺体を焼くいくつもの焼却炉の写真が添えられている。トゥルンプは窓の外を見た。冷たく乾いた空気を思わせるように夜空には星が散らばり、満月が眩しく輝いて彼が醸造するワインの蔵を照らしていた。彼のワイン蔵は戦火を逃れて百年以上の歴史をその壁面に塗り重ねてきた。トゥルンプの父は黒猫の寓話と合わせて、彼の父(トゥルンプの祖父)がナチスがラインラントに進駐してきたときに軍からワインを奪われないように、質の良いワインはすべて蔵の壁を二重にして間に埋め込んだという話をよく聞かせていた。戦争が終わって、外側の壁は取り壊してワインは村民たちのささやかな祝賀会で振る舞われたそうだ。当時まだ幼かった父は、ジュースと誤ってワインを飲んだという。すぐに顔が真っ赤になってぶっ倒れたんだ、でもあの時の騒々しいあの雰囲気が今でも忘れられない、と笑いながら遠くをみるようにして話す父は愛おしそうに、その年に出来た黒猫のイラストがラベルに描かれているボトルを撫でていた。トゥルンプは今年も世界中に彼の、いや父の、祖父の、祖先が引き継いできたワインを送り出したワイン蔵をもう一度見てからブラインドを下ろした。

 

わたしがダイニングに入ると、ライトブラウンに染めた長い髪を頭頂に団子のように纏めた妻がキッチンに立っていた。テーブルには大皿に盛られたシーザーサラダと、切り分けられたバゲットの横に白ワインボトルが置かれている。ラベルには伸びをするような恰好の黒猫が油絵タッチで描かれていた。Zeller Schwarze Katz、ドイツのモーゼル地方のワインらしい。どうしたの、これ? とわたしが尋ねると、妻はスーパーで売り出してたから買ってみた。今年は出来が良いんだって。それにクロみたいでしょ、その猫。と鱈のムニエルをフライパンから平皿に移した。あ、クロに餌やってよ。と彼女が思い出したように言った。わたしはダイニングに続くリビングの床に尻尾を弄びながら横になるクロを見遣って、鱈をフォークで解してステンレスの皿に載せてからクロの鼻頭に差し出した。クロは少し顎を引いて仰け反ってから、クンクンと鼻を引くつかせて鱈の身をひと舐めした。わたしが皿を床に置くと尻尾を立ててチャクチャクと咀嚼音を部屋に響かせた。わたしはワインボトルを手に取り、オープナーをきりきりとコルクにねじ込んでデュポンと小気味いい音を鳴らした。妻があ、開けたの? あたしにも頂戴。とワイングラスを二つキッチンの食器棚から持って来た。ワイングラスを少し回すと芳醇なワインであることが分かった。口に入れると、ほんのり甘くすっきりとした味わいが喉を通り抜ける。おいしいじゃん、わたしは妻と目を合わせた。すっきりしてるね、と彼女は目尻に皺を寄せて笑窪を見せた。やはりクロは我が家の招き猫なんだ、とわたしは確信してクロに視線を向ける。クロはリビングの窓辺で紫色に変わり始めた空に白く浮かぶ月を見ている。クロの瞳孔が大きく開いてタペタムが光を集め出している。わたしには白く見えるが、クロにはすでに赤黄色く太陽の光を受けて輝く月面が視認されているかもしれない。ミャと鳴く声はあの月に届くだろうか。地球から月までの距離は約三十八万キロある。亀が歩く速度でだいたい百年かかる。百年かければ、亀でもあの月までたどり着く。百年経つと、あの月で黒猫と人が暮らしているかもしれない。そのとき、黒猫はまだ幸福を呼ぶ生き物として扱われているだろうか。ミャアォとクロが再び月に向かって鳴いた。

2021年9月17日公開

© 2021 松尾模糊

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"月に鳴く"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2021-09-18 10:29

    黒猫を通して、二つの世界、現代の日本と戦時中のドイツとの対比を幻想的な筆致で上手く表現されていると思いました。落ち着いた、いい文章ですね。気持ちが良かったです。他の作品も読んでみたいです。

  • 投稿者 | 2021-09-20 03:43

    つい先日、オール讀物の猫特集の回を読みましてその影響か、猫という生き物の存在が私みたいなもんにもするりと入ってきました。猫ちゃんは液体。黒猫可愛い。猫を飼ってない、飼ったことも無い。将来的に飼う事も無いだろう私にも、猫ちゃんの可愛さは液体の様に入ってきますね。でも黒猫は狙いすぎじゃないでしょうか?いくら幸福を呼ぶとはいえ。私はサビ猫がいいです。すいません勝手な事言いました。

  • 投稿者 | 2021-09-22 22:10

    はじめまして。
    黒猫によって結ばれる二つの情景を連関あるものにするのがワインですが、自分は少々深読みをしてこのワインは洋の東西で起こった虐殺で流された血を暗示しているのかと思ってしまいました。『巨匠とマルガリータ』の中に虐殺で血が流れたあとに豊饒な葡萄が実り、それでできたワインをヒロインが飲むという謎めいた印象的なシーンを覚えていた事も一因かもしれません。なぜそんな悲惨事が美味なワインとなるのか? しかし白ワインとのことで関係なかったでしょうか。

  • 投稿者 | 2021-09-22 22:57

    百年というスケールが繰り返しモチーフとして出てきて、上手くまとまっていると思いました。改行だけでいきなりドイツに飛んだときはちょっと戸惑いましたが、それさえもあまり気にならないくらい構成はしっかりしていると思います。
    ちなみに黒猫のワイン、大好きです。黒猫に限らず、ドイツのリースリングを見つけたら条件反射で買ってしまうくらい好きです。

  • 投稿者 | 2021-09-23 21:24

    盛り込まれたいろいろなネタと合わせておもしろく読みました。今ある生は大量虐殺を含む歴史の上に成り立っているということを考えさせられました。流れるような文章で描かれる現実の平穏な描写は、惨劇の記憶を癒やす効果として書かれたのではないか、というような印象を受けました。
    三年後の若干近未来である設定がわかる描写がもう少しあればもっとよかったのではないかと思いました。

  • 投稿者 | 2021-09-23 23:38

    ツェラー・シュワルツ・カッツ!
    甘口で飲みやすいワインですね。猫が背伸びをしているラベルならグリーンのボトルですね。ブルーボトルもあるし、猫型ボトルもあってそりゃもう楽しいんです。なんて、ワイン話に喜んでる場合じゃなかった。
    現代日本の階段に寝転ぶ猫、ワイン醸造の滋味深い話の猫。猫は平和と幸福の象徴です。そして月。百年千年の時を越えても変わらぬ月が、戦争虐殺の愚行を繰り返す人間の浅ましさをどう見つめているのだろうと思わされました。
    ホロコーストのお題の核心からはちょっと離れているかな、とは思ったものの、読後感がとても良かったです。

  • 投稿者 | 2021-09-25 16:31

    鈴木さんも書かれていましたが、アプリオリな同族嫌悪なる感情と如何に向き合って人生の中でどこまで是正していけられるものなのか考えさせられました。「タペタム」初めて知りました。だから猫の目は暗闇で光るんですね。

  • 投稿者 | 2021-09-26 00:34

    黒猫を媒介として日本のうんちくおじさんとモーゼル川流域の酒売りが接続される。日本は2023年、ドイツはすごくわかりにくいが、トゥルンプの祖父がナチスからワインを守った戦争体験者でトゥルンプの父が戦後蔵を開けた時点で幼かったので1940年代前半生まれ、ということはトゥルンプは70年代後半~80年代前半あたり生まれだろうだから、やはり作中の日本と同じ時代か? 大胆で見事なつなぎ方だが、ナチスから命がけで守り継いだワインがそんな背景などまったく知らない極東のミドル・クラスに消費されるというのも無残な光景だ。猫なんかにかまけていないで、ワイングラスを傾けながらさらなるうんちくを展開してほしかった。

  • 投稿者 | 2021-09-26 09:23

    あのワインにはそんな逸話があったんですね。子供の頃、猫の絵を見て意味なく欲しがっていました。
    現代日本からドイツに話が変わる時に自分の頭がおかしくなったのかと思いました。それくらいスムーズでした。最後のお食事のシーンで擬音が多めに使われていたのが印象的でした。平和な生活感がありました。

  • 投稿者 | 2021-09-26 09:45

    まだ他の作品を全部読んでいないけど、この作品が唯一の星5になると思う。大変よかったです。

  • 編集者 | 2021-09-27 19:53

    黒猫とワインが歴史を超えた物語の味わいを深めている。まだ、その黒猫のワインを飲んだことがないので飲んでみたい。ジュースと誤ってワインを飲んだと言うエピソードは俺もやらかしたことがあるので親近感が湧いた。

  • 投稿者 | 2021-09-27 20:03

    わたしも飲んだことあるワインでした。見事な筆致に感服いたしました。ラストにかけての文章が美しく、個人的にとても好きな小説です。

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