ブンゲイクルセイダーズ

松尾模糊

小説

2,247文字

イグBFC2参加作品。締切間際の攻防です。

「ちょっといいですか?」
嫌な予感がした。できるだけ表情に出ないように口角を意識して振り向く。なんでしょう? 校正のマスザカさんはニコリともせずに分厚いガラス瓶のような眼鏡の黒縁を上げた。
「この……主人公が密室トリックを指摘する場面、三十四頁の三行目なんですが、冒頭で悲鳴を聞いた主人公たちが一階の大広間から出て……西日に目が眩む場面がありますね、三頁の四行目」はい……すでに真っ赤に染まっていた原稿に脱力感を覚えつつ、マスザカさんが校正中の原稿を捲りつつ指摘するのを頷いて眺めた。
「これだと、窓は大広間から出た三面のうち西側、つまり大階段の向かいに位置しているということになります」……はい。
「その設計だと密室どころか、ここに部屋が存在していることすら、あり得ないことになります」なぜですか?
「大階段の向かいにある窓から西日が差し込むということは、そこは壁面であり部屋はその側面になければ、構造上西日が差し込む窓が存在し得ないからです。ところが、密室の鍵穴は翌、朝日に照らされて、その不自然な傷を主人公が指摘するところから彼の推理が始まっています」ああ。それはですね、この家は常に部屋が無限に増殖する設定なんで大丈夫です。わたしはマスザカさんの勝ち誇ったような顔に腹が立ち、でたらめを口走った。
「え? え? え? そんなSFみたいな話じゃないでしょう、これは」マスザカさんの黒縁を何度も押し上げて動揺する姿に、わたしはほくそ笑んだ。いや、これはSFです。「なるほど……。しかし、この中で人間が生存している限り、質量保存の法則は働いているということですよね。増殖するというのならば、消失する部屋がなければ成り立ちません、もはや部屋が密室である必要はなく、消失する部屋と共に死体が消えればいい、それは殺人やりたい放題でミステリーとして成り立ちませんよ」あくまで冷静沈着を装うマスザカさんに、わたしは負けまいと椅子から立ち上がった。いいか、密室は必要だ! なぜなら、死体はアンデッドで蘇ってしまう。死体が好き勝手に出入りすると、これはゾンビパニックものになってしまうのだ。わたし自身何を言っているのか分からなくなってきた。
「ゾンビパニック? エンタメなんですか、これは?」眼鏡を外し、こめかみに手を当てるマスザカさんは天を仰いだ。

 

これは世界文学です!

 

マスザカは目を疑った。眼鏡を掛けてよく見ると、巨大な人面がマスザカを見下ろしている。今まで校正していた原稿を片手に新進ミステリー作家、神田川競歩の混迷極まる言い逃れを聞いて頭を抱えていたはずだった。手元にはマスザカの赤鉛筆で余白がぎっしりと埋まった原稿が散らばっている。そして、マスザカの前に寝癖なのか、無造作ヘアなのか、判別し難い髪が乱れ気味の神田川競歩が大物気取りの和装姿で立っている。
「神田川先生、上を見てください……」マスザカは神田川に声を掛けたが、彼は微動だにせず、瞬きもしていない。神田川先生、起きてください! マスザカは彼の肩を揺すったが、反応はない。マスザカは再び上を見上げた。よくよく見ると巨人は神田川だった。これは……彼の大きすぎる虚栄心が具現化したのか。

 

聞いていますか? 無限に増殖する世界の中で死とは何か、有限の生とその輝きについて形而上学的に語られる世界文学系譜の一大叙事詩なんだ!

 

いや、過去も未来も語られていないし、密室トリックの話しか出てないじゃないですか。ミステリーですよ。もちろんミステリーにも偉大な作品は数多くありますが、これは……ちょっと無理がありますよ、正気に戻って下さい、先生。

 

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ

 

 

スーツ姿の男が部屋のドアを開けて入って来た。彼の背後で何か蠢いている。

 

 

「デッドライン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

スーツ姿の男の絶叫と共に、背後の昆虫のような宇宙人のような何とも形容し難き謎の生命体は、阿修羅のごとき表情で二人に向かって高速の拳を乱打した。

 

 

ボツボツボツボツ没ボツボツボツボツボツボツボツボツボツボツ没ボツボツボツボツボツボツボツボツボツボツ没ボツボツボツボツボツボツボツボツボツボツ没ボツボツボツボツボツボツ没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没

没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没

没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没

没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没没

 

 巨人は雪崩のようにくずれ落ち、粉塵と化してマスザカさんと神田川の身体と共に宙を舞った。そして、世界には散らばった校了前の原稿だけが残された……

 

「お前ら、なに遊んでんだよ、仕事しろ!」出伊尾編集長が神田川とマスザカさんの後頭部を叩いた。

2021年10月22日公開

© 2021 松尾模糊

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