渦巻考

松尾模糊

小説

5,787文字

第四回阿波しらさぎ文学賞一次選考通過作(50/516)。うんちくをとことん醸成させました。

――松は実に渦鳴りの昼遠くなりぬ――

 

徳島出身の俳人である今枝いまえだ蝶人ちょうじんが渦潮の音を山上で聞いている内に忘我の境地へと至ったことを歌った一句。鳴門海峡に架かる大鳴門橋の袂にある鳴門公園で、この句を記した石碑に目が留まった。蝶人に限らず、吉川英治や演歌歌手の伍代夏子などこの地に所縁ある著名人は多い。『NARUTO―ナルト―』の主人公うずまきナルトが世界中を席捲した事実を鑑みても、鳴門海峡が人々に影響を与えた歴史は実に多様だ。彼らの人生はこの地に引き寄せられた。渦巻く潮にあがなう術を持たないわたし達がただ、その中に飲み込まれていく様に。わたし達はぐるぐると回り続けるように生きている。どんなにその軌道から逃れようと外縁に向かって懸命に進んでも、けっきょく中心点に引き戻されてしまう。人間をミクロに構成する遺伝子だって螺旋状である。宗教的に考えてみてもいい。ブッダは輪廻という概念を唱えた。キリスト教は復活というサイクルで世界に広まった。ムスリムは聖地という中心に向かって祈りを捧げる大きな渦を成している。わたしたちは渦だ。渦自体であり、渦を成す流れの中に存在する。なめくじが嫌悪されるのは、蝸牛と違って彼らが渦を持たないように見えるからだ。しかし、人間が渦を持つように見えないのと同じで、彼らもどこかに渦を抱えている。わたしたちが頭頂に旋毛つむじを持つように。こどもの頃、旋毛の数を数える遊びが流行った。わたしには一つしかない。二個あれば何故かテンションは上がったし、三個なんて見つかった時には一躍「渦中の人」だ、文字通り。嫉妬を覚えたわたし達は、旋毛が多い人は将来禿げるんだと揶揄した。でも、一個でも禿げる人は禿げるし、三つあっても禿げない人は禿げない。それは遺伝という、ヒトの再生産のサイクル的要素の方が大きい。年老いたわたし達は朝起きて歯を磨く時に目にする鏡像を両親と見紛う驚きの中で気づく。あるいは、バスルームの鏡の前で、シャンプーで泡だった髪を逆立て遊ぶ我が子にデジャヴを感じる瞬間に。再び中心に戻っていく、その渦中にいることを感じるはずだ。その引力に歯向かうように飛び出したあの頃から、外縁にだけ目を向けて進んでいたつもりだったのに。人生は渦になって飲み込まれていく。

 

父の公務員という職業は、わたしにとって絵に描いたように凡庸な人生で、ひどく退屈そうに見えた。テレビや映画の向こうに外海を夢見た。そこに自分の人生がある、違う潮流に乗れば太平洋だって越えて大陸の海岸線にまで辿り着ける、そう思っていた。ジャズマスターを手に取り、マイクスタンドの前に立った。ニルヴァーナ、涅槃ねはんを夢見たロックスターは自ら頭をショットガンで撃ち抜いて輪廻に戻ったが、若い心を掴む危うい光を放っていた。彼が頭の中に神を見つけたと言うように、彼自身が渦の中心であり、大きな渦を象っていた。でも、彼の渦とわたしの渦は永遠に交わらなかった。わたしは渦の中心ではなく外側で流れに逆らおうとしていただけで、すぐに力尽きた。内海も海峡も抜け出せず。往生際の悪いわたしは、渦の中心には成れなくても、その外縁にしがみつこうとした。カメラを手に取り、ステージに向かってシャッターを切った。レンズ越しでも彼らは眩しかった。

しかし、大きな渦は小さな渦を飲み込むことを躊躇しない。たとえ目に見えないほど小さな中心も全てを飲み込むほど大きな渦を生み出す。気象学者のエドワード・ローレンツがカオス理論の予測困難性について、蝶の羽ばたきが海を越えて甚大な被害をもたらす竜巻に変貌すると寓意的に語ったように。ウイルスは瞬く間に世界を飲み込む大きな渦になった。ステージはオンラインの中に沈み、わたしも仕事を失った。今はスーパーでレジ打ちのバイトを始めている。コロナ禍とは言い得て妙だ。誰しもが自然と口にしていた。「咼」とは穴を意味する。「示」は甲骨文字で祭壇などを表し、人間が予測できない穴ということで禍となった。世界は渦だ。寓意的には。世界は回転している。これは真だ。かつてルネ・デカルトが天体の運動について、天体を囲む流体の物質、エーテルの渦に巻き込まれながら移動していると渦動説を唱えた。アイザック・ニュートンの万有引力によって否定されたが、それでも地球が自転していることは認められたし、惑星が公転していることだって判明した。我思う、故に我あり。存在について考えを深めたデカルトが、渦という運動に囚われていったのは感慨深い。渦回る、故に渦あり。ニュートン力学によれば、遠心力は慣性の法則により、回転座標系においてのみ作用する。つまり、渦の中にあるものにしか外側へと引っ張る力は働かない。わたし達が外縁に向かえるのはわたし達が渦の中にいるから。皮肉だ。わたし達が真っ直ぐに歩くことができるのは、わたし達が中心の力に囚われているからとは。我回る、故に我あり。ジル・ドゥルーズが、世界は互いに作用しあい、順応するイメージの循環であると語ったように。

スーパーのレジに立っていると、そうした世界を改めて実感できる。人々は工場のベルトコンベアの上でパッケージされた、いつもの決まった牛乳パックやハムや食パンを買い物かごに放り込んで、夕方近く混み合った列に疲れた顔で並ぶ。わたしは彼らの乱雑に放られた商品を清算済みかごへ丁寧に端から並べていく。それは再び彼らによって乱雑に買い物袋に詰め込まれる。わたしの意思とは関係なく。外縁に向かって進もうと抵抗したわたし達が、再び渦の中心に吸い込まれていくように。まあ、デカルトだって、ドゥルーズだってそんな話をした覚えはないだろうが。しかし、フリードリヒ・ニーチェは永劫回帰という概念を残しているし、ドゥルーズは差異が反復するとその論を展開した。こう考えるのが、わたし自身がこの小さな渦から抜け出せない理由かもしれない。鳴門海峡の渦巻く潮を見て、デカルトは何と言っただろうか。ドゥルーズは、ニーチェは。超人だけが永劫回帰へと至ると考えると、万人が飲み込まれる渦はやはり、輪廻に近いかもしれない。いや、超人も高みに至って雷に打たれ死ぬならば、渦巻く海の藻屑になることは同じではないか。超人がオプティミストなら、渦人かじんはペシミストだ。どちらも道を究めし者という意味で同義ということか。そうだ。今思いついたのだが、渦巻く人を渦人と呼ぶのはどうだろう。歌人、家人、渦人。割と気に入った。そう言えば、イマニュエル・カントは生涯独り身で、死ぬまで単調な生活を好んで送っていた。ぐるぐる巡る日常の重なる様は渦のようだ。結局すべては程度の差でしかない。なにかを極めるということは、それが何であれ偉大なことだ。三島由紀夫は精神を凌駕できるのは習慣という怪物だけだと言った。つまり、ハビチュードにこそ極意はある。それでは、わたしはスーパーでのバイト生活くらいしか究められないというのか。あ、この考え方はいけない。職業に貴賎なし。石田梅岩ばいがんは職業によって人格を決めつけてはならないと言った。現代の都市生活において、スーパーにこそ人々の生活がある。カントは散歩帰りにスーパーに寄ってレジに並ぶことを習慣づけただろうか。かごに丁寧に端からペットボトルや卵パックを並べるだろう、とわたしは勝手に想像する。ニーチェはかごなど使わないだろう。デカルトは健康に気を使い、オーガニックの高い野菜を買い揃える。すべて資本主義の循環の中にあるとすると、ジャン=ポール・サルトルがマルクス主義に傾倒していったのも頷ける。しかし、冷戦が終わり、ソビエト連邦が解体して、サルトルが批判したアルベルト・カミュの『ペスト』がコロナ禍で再び注目されることになった今、彼は何と言うだろうか。カミュは『コロナ』というタイトルで小説を書いただろうか。『スペイン風邪』や『結核』という小説が出ていないから、『コロナ』も出ないかもしれない。いや、誰かが書くだろう。今後それが売れる可能性もある。G.=ガルシア・マルケスは『コレラの時代の愛』を書いているし、トーマス・マンの『魔の山』はサナトリウムの話だし。マンは隔離ホテル滞在で『魔の山』を書けただろうか。きっと書いただろう。そうか、よし。わたしも何か書こう。コロナで職を失い、空いた時間にコンビニのイートイン・スペースで一杯百円の安いコーヒーを片手にスマホでテキストを打った駄作でしかないが。しかし、世界文学の最重要人物として崇められているJ.W.フォン・ゲーテが主宰した雑誌『プロピュレーエン』は当時、三百部しか売れなかったではないか。このテキストだって文学史に残らないとは言い切れないのではないか。自惚れという言葉で返されるだけだろう。わたしは一介のカメラマンであり、仕事を失った今は、ただのプーだ。職業に貴賎なし。またこの言葉に戻って来た。渦巻いているわたしの思考が。テキストが。言葉が。デジタルカメラが普及する前は、巻かれたフィルムを引き伸ばしながら写真は撮られていた。映画だってそのフィルムを回転させたものだし、レコードだって細やかな溝に針を当てながら回転させて再生する。古くから文字だって巻物に記されていた。こう考えれば、人類は長いあいだ回転という運動と共に文明を築いてきたと言っても過言ではない。ニーチェはピアノを弾けたらしいが、レコードがあったらピアノを弾いていなかったかもしれない。彼は狂死したが、ピアノを弾いていなかったら狂っていなかったかもしれない。これはわたしの個人的な思い込みだが、ピアノ演奏はあまり精神にいい影響を与えないのではないか。カミュのフランシーヌ夫人もピアニストだったが、精神病院に入っていた。デイヴィッド・ヘルフゴットもラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏して統合失調症を患う。彼らの場合、ただ一つの物事に執着し過ぎただけかもしれないが。気が触れるほど何かに執着するというのは何もかも中途半端だったわたしとしては羨ましくもある。当然、彼らなりの苦しみがあったのだろう。やっぱり気が触れるのはごめんだ。ニーチェは再生環境にこだわりそうだ。スピーカーの配置に始まり、反響する壁の素材から電圧に至り、レコード再生専用の部屋を作るだろう。そして、やはり気が狂うかもしれない。永劫回帰だ。そうするとピアノは関係ないことになる。ただのわたしの思い込みだ。本当に思い込みは良くない。まあ、でもカントは再生機材よりも椅子やその空間にこだわりそうだ。レコードに針を落としてフットレストに足を投げ出し、こだわりのブレンドが入った陶器のカップを片手に寛ぐカント……ああ、駄目だ。こんなことを書き連ねても。もっと、こう、生と死とか、存在とか時間とか、そういうことについて考えなければ。

 

マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』は上下巻で出版される予定が上巻しか出ていない。存在について考え続けて、出版前の原稿を燃やすような世界で、わたしなんかが何か考えたところでどうしようもないか。ハイデッガーはコーヒーを入れる前にカップの存在について疑うだろうし、レコードが回る間にそこに記録された演奏について、そのオーケストラの存在について疑うだろう。それを聴いている現存在についても疑い始める……彼はまともに寛げないのではないか。ニーチェは狂ったが、ハイデッガーが狂わなかったのはなぜだろう。ピアノを弾いてないから。ああ、こちらが狂いそうだ。ハイデッガーは家にテレビがなかったらしいし、山荘で様々な人と哲学談義をしていたのだから、彼にとってはそれが自然だったのだろう。自然体が一番だ。だめだ。やはり凡庸な結論にしか至れない。本テキストはデータなので、ハイデッガーのように燃やす必要はない。削除すれば簡単に消える。ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』の第四部を自費出版して、四十部のうち七冊が親戚や知り合いに配られた。百五十年後、東洋のスーパーのバイトでさえ永劫回帰という概念を知りえるのは、その七冊があったからだ。わたしの話はどうでもいいだろう。だが、ハイデッガーだって、ドゥルーズだってニーチェを研究している。ニーチェを中心にハイデッガーやドゥルーズが大きな渦に巻き込まれて、世界の哲学者がその潮流にいる。ハイデッガーは現存在が世界内において根源的に他者と共に存在する共同存在であると言った。

 

わたしは以前、母になぜ父と結婚したのか聞いたことがある。「公務員だったから」それが母の答えだった。父が正しかった。今はそう思う。父が公務員で母がそういう父と出会わなかったら、わたしは存在しなかったのだから。平凡に生き、平凡を愛した二人の間に生まれたわたしはまさに平々凡々である。鳴門海峡の渦は、太平洋側の紀伊水道と瀬戸内海の潮の満ち引きで流れ込む海流の速度の差異と、海面の高低差が生み出すものらしい。人生を渦としよう。未来に対する理想や夢を太平洋と仮定し、過去に対する後悔や願望を瀬戸内海、そして現存在を鳴門海峡とする。満潮時に淡路島にできる渦、干潮時に鳴門側にできる渦、その大きさでその共同存在、人生がどういう状態か見えてくるはずだ。新月と満月の月二回に満ち引きは最大となる。この周期を人生百年で置き換えよう。わたしはどうやら未来への希望を持っていないので、瀬戸内海が満潮、現存在は停滞気味で人生も半分は過ぎ去っている、半月期だ。そうすると、小さな渦が淡路島側にできている。

 

鳴門観光港のバス停でバスを降りる。うずしお観潮船のターミナルで乗船券を買い、桟橋でマスクをした係員に券を渡す。白地の上に渦を模した緑の楕円形の塗装が印象的な大型観潮船に乗り込む。大鳴門橋の特徴でもある一本の橋脚を小さな六本の橋脚が支える多柱基礎構造の橋脚を横目に、船が鉄筋の張り巡らされた下層部を抜ける。わたしはデッキに出て淡路島の方にレンズを向けファインダーを覗いた。橋の上から見えた小さな渦も、レンズを通すと激しく白い飛沫を上げる潮が躍動している。レンズに潮が飛び散ったのか、ピントがずれたのか、ぼやける渦にシャッターを押し続けた。

 

ウミホタル血潮の渦に光いで

2021年7月30日公開

© 2021 松尾模糊

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