睡魔

松尾模糊

小説

2,373文字

『怠け者の天国』( Luilekkerland、 The Land of Cockaigne)/ピーテル・ブリューゲル:1567年、油彩、板、51.5 cm × 78.3 cm:所蔵アルテ・ピナコテーク、ミュンヘン
子どもの時にアパート暮らしで猫を飼えないながら、ノラの子猫を夜な夜な餌付けした体験をベースに書いた掌編です。

眠れない日々が続いていた。僕は両親が眠る隣の寝室に細心の注意を払いながらつま先立ちで二階から一階に降りた。それでもギシリと鳴る階段の音に背中を伸ばして祈るように耳をそばだてては止まり、五分ほどの移動も永遠に続くように感じた。ようやく一階に辿り着くとドアの取っ手をゆっくりと握りしめてガシャリと鳴る開閉音に再び立ち止まって、意味もなくつま先立ちでその場に固まった。ドアを開けたまま、その隙間から身体を横に開いて滑り込むようにすり足でダイニングキッチンに入った。食器棚からグラスを取り出してテーブルの上に置き、ブーンと低い音を立て続けている冷蔵庫から牛乳パックを掴んでグラスに半分ほど注いだ。一気に牛乳を飲み干し、グラスを流し台に置こうとしたが、そこには洗われていない食器やカップ麺のカラが散乱していて僕はグラスをテーブルの上に戻した。ガタンと大きな音がして僕は振り返った。流し台の上にある出窓のスリ硝子から差し込む月明かりが少し陰った気がした。流し台の隣にあるガラス戸の勝手口に何かがぶつかる鈍い音がして僕は身体を強張らせた。僕は慌ててそちらに回って鍵が閉まっていることを確かめた。ぼんやりと僕の膝丈にも満たない小さな動物がそこにいる様子が見える。猫? 犬? 狸? ひとまず泥棒じゃないことを悟った僕は恐る恐る鍵を開けてドアを開いた。踏み台に置かれたサンダルの上に見たことのない何かがうずくまっていた。僕はゆっくりと右手のひらを小さく震える黒い生物の背中の上に置いた。「冷たっ」と思わず声が出るくらいにその体温は低かった。よく見ると背中に折り畳まれた両翼がある。鴉? 僕は下に裸足で降りて覗き込むようにその顔を見た。額から小さな矢印のような角が二本生えていて、上向いた鼻孔と閉じられた大きな口。折り曲げられた両手両足は細長くて、それぞれ五本の鉤爪が伸びている。僕はじっくり観察し終わると、もう一度右手をゆっくりと、今度は小さな頭の上に伸ばしてそっと撫でた。矢印のような角は思ったより柔らかくて、ぐにゃりと手の動きに合わせて折れ曲がってねじれた。ふと、閉じられていた瞼が右片目だけ開き、真っ赤な瞳の中の細く蒼い瞳孔が僕の方へジロリと動きすぐにまた瞼が閉じた。こいつを僕は知っている。悪魔だ。でも漫画や挿絵で見てきたものとは違ってこいつは子どもの悪魔だ。僕は両手を子悪魔の両脇の間に入れ込んでゆっくりと持ち上げた。とても軽くてスッと持ち上がったので僕は拍子抜けして踏み台に躓きよろめいた。両手の中で子悪魔がムズムズと動き、小さな両翼がバサリと開いた。「おっと、ごめんよ」僕は右手でその翼を抑えるように撫でてなだめた。僕はリビングにある三人掛けのソファの上に子悪魔を座らせて、食器棚から小皿を取ってそこへ牛乳を注いだ。はたして悪魔が人間の食べ物を食べるのか、よく分からなかったけど取り合えず子猫に接するような感覚だった。僕の心配をよそに、子悪魔は僕が差し出した小皿の上の牛乳を初めは用心深く匂いを嗅いでいたものの、すぐに勢いよく紫色の長い先の割れた舌を使って飲み干した。容態はずいぶん違うけど、本当に子猫のように僕は接した。「美味いか? ようし、おかわり持って来よう」僕は子悪魔の頭を撫でてすぐに牛乳パックから次の一杯を注いでやった。変わらない勢いで子悪魔は二杯目も飲み干した。僕は子悪魔の右翼の先に切れて固まった緑色の血が付いていることに気が付いた。三杯目の牛乳を注いでからテレビ台の下にある救急箱を取り出して、消毒液を垂らした綿棒の先を牛乳に夢中になっている子悪魔の患部にゆっくりと押し当てた。「シャア!」と子悪魔はまだ生え揃っていない犬歯を剥き出しにしながら両翼を広げてわずかに浮き上がった。「うわあ」と僕は少し叫んで慌てて口を押えた。両手を挙げて敵意がないことを精一杯示して、キョロキョロと辺りを見回す子悪魔を右人差し指を口の前に立てて元の場所に座らせた。僕は消毒を諦めて大きめの絆創膏を張り付けた。子悪魔は初め心地悪そうにモゾモゾ翼を動かしていたが、再び注がれた牛乳に夢中になり、満足したのか、仰向けで眠ってしまった。僕はその不格好さにフフッと笑みを浮かべた。そして子悪魔の隣でソファにもたれかかったまま眠ってしまった。

「おはよう」タオルケットを被ってソファに横になっていた僕の肩に母が優しく手を掛けて微笑んでいる。子悪魔は? 見つかったら大変だ。
「あなたの好きなホットケーキよ。何だか牛乳が少なかったから、全部使おうと思って」気づいてる? 僕の不安をよそに母は「顔を洗って来なさい」と寝癖の付いた頭を撫でた。「う、うん……」僕は立ち上がって洗面所で顔を洗って寝癖をブラシで撫でつけた。久しぶりにぐっすり眠れたからだろうか、やけにスッキリした顔立ちで何だか自分じゃないみたいだった。ダイニングテーブルには、すでにワイシャツを着てコーヒーカップを片手にタブレット端末に映るニュースをスクロールする父の姿があった。
「おう、今日も男前だな」父は画面から視線を上げて、縁なし眼鏡の奥の細い目をさらに細めて笑った。僕は朝はいつも不機嫌な父の豹変ぶりに少し驚き、引きつった笑いを浮かべて彼の隣に座った。ほど良い焼き色で湯気だったホットケーキをフライパンから母が大皿に載せて「あなたと私の子ですからね」と父の冗談に合わせておどけている。いつも会話の一つもなく、どんよりとした朝の食卓が嘘のように明るかった。僕はこれが夢だと思った。バターナイフでホットケーキの上にバターをのせて、その上にスプーンで掬った蜂蜜をかける。熱で溶けたバターの香ばしさと蜂蜜の甘さが溶け合って口内に広がる。夢なら覚めなくてもいい。そう思える驚きの美味さだ。ふと遠くで何かの鳴き声が聞こえた気がした。

2021年2月21日公開 (初出 六枚道場(第12回)

© 2021 松尾模糊

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