天空の城と桃の木

松尾模糊

小説

16,410文字

《桜図》菊池容斎、弘化4年 (1847)泉屋博古館分館蔵
岡山に伝わる温羅伝説と備中松山城のアイドル猫城主、それに古事記を組み合わせたファンタジーです。

神は必死で逃げていた。かつて愛した女が見るに堪えない醜き姿かたちとなった今、千年の恋も醒めてしまった。しかし、女の方はそうはいかない。どこまでも執念深く、かつて愛した男を殺してでも捕らえるために黄泉の国にのさばる鬼どもを集めて彼を追いかけさせた。土色の肌でぎょろりとした大きな目玉、その目玉と同じく大きく開いた鼻孔、そして頭の先から人の頭を丸々飲み込む巨大な口に無数に生える骨をも砕く太く黄ばんだ先の尖る歯……女のそれよりも醜くおどろおどろしい鬼たちが黒くて鈍く光る金棒を振り回して迫って来るのが見えた。神は右手で腰に下げた十拳とつかの剣を鞘から引き抜き、後ろ手に振り回しながら走った。目の前は緩やかな下り坂になっていた。このままでは追い付かれる、そう思った神の目にふと、坂の脇にある大きな木に無数の金色に光る桃がなっているのが見えた。一か八か、焦っていた神はその黄金の桃をもぎ取って鬼どもに向かって投げつけた。びちゃりと音を立てて桃は鬼の鼻頭に命中し、鬼は目を瞑って後ろにのけぞった。「うわっ! 何じゃ、こりゃあ」鬼は鼻が痒くて堪らず金棒を落として鼻頭を掻いた。すると、みるみるうちに鼻が赤く腫れあがり鬼の身体は全身が赤くなった。

「イタイ、痛いイタイいたい!」鬼は仰向けに倒れて手足をバタバタさせて転げ回った。鬼たちは立ち止まり、「どうした?」「大丈夫か?」と赤くなった鬼の周りでオロオロしている。これは好機と、神は十拳の剣を収めて両手で黄金の桃をもいでひょいひょいと鬼たちめがけて投げた。びちゃりびちゃりと音を立てて桃が鬼の土色の肌の上でひしゃげていく。鬼たちは桃の当たった箇所を痒がり、そこに触れると激痛が走ると共に肌の色が青、黄、緑、赤と変色した。次々とその場で転げ回る鬼たちを見て、後ろからやって来た鬼どもは一目散に引き返し始めた。

「おお! これはどうしたものか、いや実に助かった。ただの桃ではあるまい。そなたを大神実命おおかみむずみのみことと名付けようぞ。あの女のことだ、後々また危難をもたらすだろう。その時はお主が現世に下って儂の代わりに人々を助けてやってくれ」

神はそう言って黄金の桃の木に大神実命の御神名を賜った。桃と鬼の長きにわたる因縁はこの時に端を発する。神が坂を下りきったところに、女が恐ろしい形相の表情を振り乱す黒髪の下に覗かせて四つん這いで向かって来た。神は慄き、その場にあった大きな岩戸を全身で押して黄泉の国と現世の境界を塞いだ。

「もうおしまいにしよう」神はその場にへたり込んで岩戸の向こうでぎゃーぎゃー叫ぶ女に聞こえるように大声で言った。

「あんなに愛してくれたのに、こんな仕打ちはあんまりだわ。いいわよ、わたしはあなたの国の人を一日千人殺すから」

「……なんでそんなことになるかなぁ。じゃあ、こちらは千五百人分の産屋を毎日建てることにしよう」

こうして二人は永遠に袂を分かった。

 

吉備の国に鬼と呼ばれ恐れられる温羅うらという男がいた。温羅は類まれな剛力と商才で吉備を支配し圧政を布いた。温羅の圧政に耐えられなくなった吉備の人々は都の祟神すじん天皇に助けを求めた。祟神天皇は孝霊こうれい天皇の皇子である彦五十芹彦命ひこいさせりびこのみことに吉備の鬼退治の勅命を下した。芹彦命は忠実な半獣の家臣三人、芹彦命の為なら地獄の果てまで着いて行くと誓い、彼が幼少のころ階段から転げ落ちるのを身を挺して守った時にできた頬の傷が目立つ強面な犬飼武命いぬかいたけるのみこと(通称=犬)、顔を真っ赤にして怒る様をよく揶揄われるが、ヤマト政権随一と称される知将である楽々守彦命ささもりひこのみこと(通称=猿)、半獣半人の中では希少種であり、ゆいいつ空を飛べて諜報活動を専門に活躍する留玉臣命とめたまのみみこと(通称=雉)を連れて討伐に向かった。

「殿下、鬼の城まではまだ道半ばです。日も暮れてきましたし今宵はあそこに見える城にて休ませてもらいましょう」

偵察も兼ねて一行に先立ち飛び立っていた雉が、艶やかな翡翠色に輝く大きな羽を折り畳み人間の手に戻しながら、木野山の上から高梁川の向こう沈みゆく陽に赤く染まる雲海の上に佇む尖塔が象徴的な建物を指差して、まだ黄色く尖り気味な口を開けて提案した。

「なんじゃ、あれは? この国では見たこともない造りをしておるな。幻覚じゃないのか」芹彦命は眉間にしわを寄せて目を凝らした。

「いえ、あの上空あたりまで飛んでこの目で確認して参りました。少し濃い霧で判別はしにくかったですが確かに城でした。石造りの奇怪な城壁に囲まれてはいましたが」

「噂に聞いたことがあります。神出鬼没の天空の城があって、そこに神が住んでいると」猿は雉の言葉に頷いた。

「神? 天空の城?」犬は怪訝な表情を浮かべた。

「あくまで噂だが、丹後のある村の子供たちが一斉に神隠しにあった前日に、その村人が天空の城を見たという話が都まで及んで、役人が調査に向かったがその時は何も分からなかったそうだ」猿の話に「分かってねーのかよ」と犬は苦笑いした。

「面白い。鬼退治の前に神隠しの真偽を確かめられるとは」芹彦命は不敵な笑みを浮かべた。

一行は山道を下り、濃霧が覆う丘を登り城に辿り着いた。彼らが到着した頃にはすっかり日は落ちて霧も晴れ、黒に近い濃い藍色の夜空にくっきりとした満月が輝きその隣に一番星が煌めいていた。月の光に照らされて切り出された四角い石を積み上げた城壁に囲まれた、同じく石造りの尖塔の突き出る巨大な円柱の建物はヤマトでは見たことのない趣であった。犬が城壁の正面に埋め込まれた木製の大きな扉に取り付けられた猫の頭をあしらった鉄製のノッカーをがちゃりと持ち上げガシャンガシャンと扉に叩きつけて「誰かー!」と叫んだ。扉はギギギと音を立ててゆっくりと内側に開いた。犬は手を放し、少しのけぞった。

「怪しすぎる。ここはやめたほうがいいのでは?」犬は芹彦命の方を振り返って言った。「いや、用心に越したことはないが、どちらにしろ鬼の勢力範囲も近い。ここを出ても同じだろう」

先行する芹彦命に続いて三人は城門をくぐった。門を抜けるとそこはちょっとした広場になっており、目の前には人二人が通れるくらいの階段があって小さな門へと続いていた。その奥に外から見えた巨大な円柱の石造りの建物が見えた。主塔を大きな幹のようにして枝のように尖塔がくっついていて、外側に階段が螺旋状に続いていた。広場の右手に木製の小屋があった。簡素な造りで扉もなく中を覗くと、いくつかの枠に仕切られた中にヤマトでは見たことのない四肢も首も長く大きさも倍はあろうかという美しいたてがみを持った馬がいた。そのうちの黒い艶やかな毛並みをした馬がぶるると鼻息を鳴らして首を左右に振りながら一行の前に進み出て来た。

「貴様らが城主のおっしゃっていた一行か……犬に猿に雉にヒト、実にむさ苦しい並びだな」

「あ? 何だてめえ? 喧嘩売ってんのか?」犬が腰に下げた両刃の剣の柄に手をかけた。

「まあ、待て。勝手に入り申し訳ない」芹彦命が今にも飛び掛かりそうな犬を制した。

「ここに住む者か? 我らはヤマトより温羅の征伐の命を受けて参った。我は彦五十芹彦命と申す。今宵は日も暮れてしまったゆえ、できればここで休ませて頂きたく訪ねた。城主にその旨お伝えくださらぬか」

「ふん。まあいいだろう。城主からはすでに伝え聞いておる。わたしはアンドル。この城の番人だ。案内しよう」

そう言うと、馬は長く太い首をぶるると震わせ鬣を揺らした。みるみるうちに四肢が短くなり体毛が抜け落ち(頭と股間周りにはしっかりと毛が残った)、黒く艶やかな長髪をなびかせる容姿端麗で筋骨隆々、おまけに巨根を持つ長身の成人男性となった。

「何を偉そうに! こちらにおわすは孝霊天皇陛下のご子息であらせられる彦五十芹彦命さまだぞ! 口を慎め、馬野郎!」犬が再び柄に手をかけて飛び掛かろうとするのを猿と雉が慌てて抑え込んだ。

「ふん」と鼻で笑いながら、アンドルは首元の袖口に白いフリルの付いたシャツの上に黒い生地のダブレットを着て、白いストッキングの上に黒いブリーチーズを合わせて黒く尖った革靴を履いた。見慣れない服装を物珍しそうに芹彦命は眺めていたが、すぐにアンドルがスタスタと小屋を出て階段を上り始めたので一行は少し駆け足になって彼に続いた。アンドルはアーチ状の木製の扉を開けて小さな門の中に入り、振り返りもせずに先に進んだ。門をくぐり抜けると一行は息をのんだ。そこには満月と無数の星の下に照らされた、村一つ収まりそうな広大な石畳を敷き詰めた庭園が広がっていた。その中にいくつかの建物、屋根の上に金色の十字モニュメントの突き刺さったものや二つの建物が重なったような家屋、中央に円形の噴水があり澄んだ水が滝壺のように噴き出していた。そして、その奥にある城壁の外側からも見えた円柱の塔はさらにその圧迫感を強める異様な巨大さで、すさまじい存在感を放っていた。彼らの驚いた様子には目もくれず、アンドルは広場を同じような速度で横切り円柱の塔へと向かっていた。一行はキョロキョロとせわしなく辺りを見回しながらアンドルに着いて行った。

「こいつはどうやって建てられたんだ……」円柱の塔を眼前に見上げ、猿は感嘆の声を上げた。満月にも届きそうな高さで頂上が窺い知れない塔の前でアンドルは腕組みをして待っていた。

「さて、城主をこれ以上待たせるわけにはいかないのでここからは奴に乗って向かう」アンドルは二つに割れた顎をしゃくって一行の背後に目を遣った。一行が振り返ると、流れ星が空を駆けた……いや、それは星ではなかった。巨大な鳥のような蝙蝠のような羽を広げた何かが一行に向かって飛んで来ている。一行は後ずさりした。光沢を持った翡翠色の鱗が全身を覆ったオオトカゲが赤紫色の風切を広げて彼らの頭上を旋回し、ドスンと重量感甚だしい音を立てて降り立った。トカゲにしては長く突き出た口の先に付いたヒト一人収まってしまいそうな鼻孔、開けた口の奥から先までびっしりと生えた円錐の歯は少し黄ばんでいて、口の上の目は黄色く縦に黒いスジが入った眼球をギラつかせていてその上に二本の角が生えていた。全身を覆う翡翠色の肌はよく見るとごつごつとした岩のように凸凹で、しかし腹のあたりは白く滑らかな皮膚で覆われていた。太く発達した腿の下にある三尺はありそうな足には前三本、後ろに小指一本の四本の指があってその先に鋭い鉤爪が生えていて、前足は手と言ってもいいような小ささで同じように四本の指と小さな鉤爪が付いている。全長十尺は優に超えるその化け物は、長い尾をくねらせて身の毛もよだつ低く太い声で咆哮を上げた。

「何なんだ、このバケモノは!」犬はアンドルの方を振り返った。

「ヤマトにはいないのか? ドラゴンだよ」アンドルは一行の間をすり抜けてドラゴンの脇に出た。ドラゴンは目を瞬かせて頭をゆっくりとアンドルの方に下げた。アンドルはドラゴンの鼻頭を撫でながら、ひょいと角を掴んでドラゴンの頭の上から移動し背中へと乗った。

「何してるんだ? 早く乗れ、行くぞ」アンドルは茫然と立ち尽くしている一行に声をかけた。雉は両手を羽に変えてドラゴンの背中にバサバサと飛び乗った。「大丈夫のようです」雉の言葉を受けて三人はしぶしぶ雉に続いた。全員が背中に乗るとドラゴンは折り畳んだ翼を再び広げてばさりばさりとゆっくり羽ばたかせて浮き上がった。みるみるうちに石畳の庭園が遠くなり、円柱の塔と並行に上昇してゆく。

「お前……高いところが苦手なのか(笑)」両手で目を覆う犬を猿が揶揄った。「うるさい! ちょっと目に塵が入っただけだ」弁解する犬を見て雉と芹彦命は笑った。塔から突き出る尖塔を避けながらドラゴンはあっという間に塔の上空に到達した。地上からは全く見えなかった塔の頂上は、石造りの王冠を被せたような壁が円状に真っ平な石畳を取り囲んでいてその端に四角い穴が開いたようなかたちで出入り口があった。頂上に降り立ったドラゴンの背中からアンドルと一行は石畳の上に降りた。

「ご苦労」アンドルはブリーチーズのポケットから何の肉か分からない肉片を取り出してドラゴンの頭のあたりに向けてぽいと投げた。ドラゴンはその巨躯に似合わぬ素早い動きでバクっと肉片を口の中に入れて飛び去った。

「さて、城主がお待ちかねだ」アンドルはまたそそくさと歩いて階段を下りて行った。一行も彼に続いて頂上からの眺めを楽しむことなく階段を下った。階段は、塔の真ん中に下から伸びているシュコシュコとせわしなく動く鉄の筒や回る歯車が複雑に絡まった巨大な機械仕掛けの装置らしきものを取り囲むように螺旋状に続いていた。

「何なんだ、これは」猿は階段を下りながら、突き出る無数の筒が白い蒸気を吐き出す巨大装置を眺めた。それは底の見えない塔の真ん中で動き続ける巨大な心の臓のようだった。しばらく下ると、螺旋階段は途切れその先に鉄製の格子窓の付いた扉があった。まだ下まで続く巨大装置を背に扉の前に行くと、例のごとくアンドルが腕組みをして扉に寄りかかっていた。アンドルは最後列の雉が最後の階段から足を石畳の踊り場に下ろすのを見てから扉の方へと向き、扉をドンドンドンと三回叩いた。すると、格子窓に二つの円らな黒目が現れた。

「アンドルか。連れて来たのか?」少し高めの声が踊り場に響いた。

「ああ」アンドルは背後に並んでいた一行が見えるように格子窓から顔をずらした。

「ふーん。なんかパッとしないな」

「あん? 揃いもそろっててめえらは!」犬が吠えると同時に、がちゃりと扉が内側に開いた。

「さあ、城主がお待ちだ」くるくるとした赤茶色の巻き毛が印象的な面長で鼻頭から頬にかけてそばかすのある黒目がちで円らな目の男は白いシャツの上に黒いチョッキを着て黒いスラックスを履いたいで立ちで、身体を内側に開き彼らを中へと招いた。

「ありがとう、エリック」アンドルは彼の名前を呼んで頷き、一行もアンドルに続いて中へと入った。犬はエリックをガンつけて彼の前を通ったが、エリックは涼しい顔を崩さなかった。扉をガチャリと閉めて内側から錠を閉めて、エリックは扉の前に足を開いて立った。部屋の中は石造りでひんやりとして狭く、両端に松明が灯されていたが薄暗かった。長い廊下のようになっているようだ。

「ささ、足元に気を付けて」カンテラを持ってエリックが一行の前に立っていた。

「な!?」一行は驚いて後ろを振り返った。扉の前にはやはりエリックが足を開いて立っているままだ。

「これは……双子か?」芹彦命がアンドルに尋ねる。

「そんなに驚くことではあるまい。エリックは魔術師で分身しているんだよ。夜は彼の分身が見張りから執事まで城内部のすべての業務を担っている」

「左様です」エリックの分身が頷く。

「魔術師? 分身? お主らは黄泉の国からでも来たのか?」

「黄泉? どこですか、それは」エリックの分身はカンテラで足元を照らして前に進みながら芹彦命に聞き返した。

「人が死んだあとに訪れるところだ」アンドルと一行はエリックの分身に従い進んだ。

「ほう。天国とか地獄ということですな。我々は死んではいないし、あなたたちと同じような人間ですよ」

「ふむ。なるほど、そちも半獣なのか?」

「そうです。私は鹿の半人半獣です」

「おい! 口を慎め、鹿野郎! 殿下は貴様らとは違う。神の子であらせられるぞ。一緒にするな……ったく、馬といい、貴様といい、馬鹿野郎にロクな奴はいねえのか」犬がエリックに向かって吠えた。

「ほお。神に子どもがいると? 神は唯一であるからして、その説には賛同しかねるな」エリックの分身は振り返って犬に反論した。

「まあまあ。落ち着け。ここで獅子神様を唯一神とする我々が、数多の神を信じる彼らと言い争っても仕方ない」アンドルがエリックの分身の右肩に手を置いた。

「うむ。そうだな……城主のもとへ急がねば」エリックの分身に続き、一行は長い廊下を進んだ。しばらく進むと廊下の突き当り、両端にある松明が照らす木製の扉が見えた。エリックの分身がカンテラで照らしながら金属製の取っ手を回して扉を押し開いた。中は穴のように狭く、木造りの急な階段の上から光が差していた。階段を上ると眩しさに目が眩んだが、そこが真っ赤な絨毯が敷き詰められた大広間であることが分かった。天井は高く、雲や裸婦、羽の生えた金髪の男児や銀の髭を蓄えた老人など奇妙な絵画が描かれていて金の装飾が眩しいシャンデリアがいくつもぶら下がっていた。

「お待たせしました。ヤマト政権から派遣された彦五十芹彦命、以下三名お連れしました」

「にゃむ。待ちくたびれて先に一杯やっておったにゃ」アンドルとエリックの分身が跪いている先に赤いマントを羽織り、狭い額の上に金の王冠を被って(どちらかと言うと載せて)右手に金獅子の杖頭の付いた杖、左手に薄緑色の泡立つ液体の入った硝子のシャンパングラスを持った、右目が透き通るようなマリンブルーで左目が高貴なエメラルドグリーンという左右非対称の目が印象的で全身は虎柄で首元の長い毛が威厳を放つ猫が、右手を上げて手招いている猫を象った黄金の椅子に座っていた。猫城主がグラスを傾けて薄緑の液体を飲み干すと隣に立っていたエリック(もはやどのエリックが本物か不明になっていた。そこには二人のエリックが猫城主を挟むかたちで立っていた)が手に持つ銀の盆に乗ったワインクーラーに入った瓶の栓を抜き、空になったグラスに緑色の液体を注いだ。

「芹彦命殿、遠路はるばるよくぞ来なすったにゃ。歓迎するにゃ。腹も空いたろにゃ? 堅苦しいのは苦手にゃ、メシでも食いにゃがら話をしようにゃす。にゃーい! 客人をもてにゃせ、宴にゃー!」

猫城主は金獅子の杖を高く掲げて叫んだ。何人ものエリックが大広間に現れ、一行の目の前に長いテーブルを運び、ナイフとフォークとスプーンを置いて椅子を引き、ワイングラスと食器の上に載る鴨肉のソテーやサラダや冷製スープなどテーブルを埋め尽くす料理をコック姿のエリックが次々に準備した。

「城主は我々がここに来た目的を知っているのですか?」芹彦命はナイフやフォークの使い方に困り、とりあえずジャガイモの冷製スープを器ごと啜って尋ねた。

「当然にゃ。鬼退治、温羅の征伐にゃろ? あの男も不器用なだけにゃのだが……」

「温羅をご存知なのか?」

「にゃ。どうにゃろ? もふがそちらの和平を取り持つというのは」

「いや、わしは祟神天皇陛下の命を受け鬼退治に参ったまで。わしの判断ではどうしようも」

「そちも真面目な男にゃ。祟神天皇のことはもふに任せておけにゃ。エリックに手紙を持たせようにゃ。無駄に血を流すことはにゃい」

猫城主は両手をパンパンと叩いた。腰蓑を着けた羊たちが現れて、熊の叩くドラム、サイが弦をはじくウッドベース、狐のかき鳴らすギター、ゴリラの吹くサックスの演奏をバックに子気味よく踊り出した。

「にゃにゃ、今宵は無礼講にゃ! 踊にゃ」猫城主は芹彦命のグラスに緑色の発泡する液体を注いだ。酔いの回っている犬と雉が羊たちの手を取り踊っていた。猿もその様子を見ながらエリックと肩を組んで身体を揺らしていた。猫城主が羊たちの輪に入り飛び跳ねるのを眺めながら芹彦命は緑色の液体の入ったグラスを煽った。はじめ少し苦味が口の中に広がったが、すぐにそれはほのかな甘みに変わり、やがて頭蓋骨を直接持たれてぐらぐらと揺らされる様な感覚に陥り意識が飛んだ。

芹彦命が重い瞼を開けると、黒い布が被せられた天蓋付きの大きなベッドの上に横たわっていた。コツコツと部屋の外から音が聞こえたので、芹彦命は上半身を起こしてベッドから出ようとしたが頭の奥がズキズキと痛んで思うように身体が動かなかった。何とか這い出るようにベッドを抜けだしてふらふらよろめきながらベッドルームを出て大きなペルシャ絨毯の敷かれた大部屋の外から叩かれているドアの真鍮の取っ手を回して開けた。掃除夫の格好をしたエリックが立っていた。

「お目覚めですか? 朝食をお持ちしました……が、その様子では何も食べられそうにありませんね。お水を飲んで、落ち着いたらゆっくりお食べ下さい」

エリックはカートの上に載った硝子のコップに水を注いで芹彦命に手渡した。芹彦命は水を見た瞬間、思い出したように喉の渇きを覚えて一気にゴクゴクと飲み干した。エリックは芹彦命からコップを受け取って、彼を部屋の中にあるクッション付きの椅子に座らせてバスケットに入ったバケットや果物、銀の蓋が被せられたベーコンエッグなどが乗ったカートを部屋に入れ、もう一杯の水を手渡してから立ち去ろうとした。

「ちょっと待ってくれ。ほかの者たちは?」芹彦命は慌ててエリックの背中に声をかけた。

「ああ。それぞれお部屋で休んでいますよ。それを食べたらお迎えに上がります。城主が皆さんにお話があるみたいなので。その時にお会いになればよろしい」エリックは振り返って会釈をしてからドアを閉めた。芹彦命は手に持ったコップの水を飲んで、椅子から立ち上がりカートの上のバケットをしげしげと眺めて先端を引きちぎった。硬い薄茶色の外見と打って変わって中身は白いもちもちとしたもので、芹彦命は鼻を近づけてみた。香ばしい匂いが彼の食欲を呼び起こさせる。芹彦命はちぎったバケットを齧って水で流し込んでから果物ナイフを手に取り、桃の薄い皮をむいてかぶりついた。みずみずしさを伴った甘味が口の中にじんわりと広がり、部屋の窓から差し込んできた陽の光に照らされながら芹彦命は得も言われぬ幸福感に包まれると同時に腹の底から力が漲ってくるのを感じた。芹彦命は大きく伸びをして窓の外を覗いた。眩しい太陽の下に白い雲海が広がっている。城の下に大きな影が動いていた。昨夜見たドラゴンだろうか? いや、空を飛ぶドラゴンの影が城の下に見えるなんておかしい……芹彦命は視線を上げた。城が動いている。正確には城が空を飛んでいた。雲海に映った影は天を駆ける城のものだった。

「お迎えに参りました」コンコンと扉が叩かれ、エリックの声が聞こえた。

「少し待ってくれ、すぐに出る」芹彦命は着替えてから扉を開けた。

「参りましょう」エリックに従い、芹彦命は城主の待つ大広間へと向かった。

「この城は飛んでいるのか?」芹彦命は先を歩くエリックに尋ねる。

「窓の外をご覧になりましたか。ええ、そうです。今あるところへと向かっています。それも城主からお話があるでしょう。空飛ぶ城は初めてですか?」

「猿が噂を聞いたと話していた。ある村が神隠しにあったと」

「神隠し? 子どもたちが突然いなくなるというやつでしたかね? もしかしたらドラゴンが人の子を喰ったのかもしれないな……いや、ちゃんと餌はあげてるんですけどね。ちょうど成長期だった頃のことかもしれません」

「人を喰うのか、あれは」芹彦命は淡々と話すエリックに違和感を覚えながら訊いた。

「まあ、雑食ですからね」やはりエリックは平然と答えた。

芹彦命の気持ちが判然としないまま、二人は大きなアーチ状の扉の前に着いた。扉の前には鉄の甲冑を着て長い手槍と盾を持ったエリックが二人立っていた。二人のエリックがお互い見合うように横を向いて扉の前からどき、芹彦命を連れたエリックが扉を開けて中に入った。そこはあの大広間だった。昨夜は裏口のような場所から入ったようだ。玉座に座る猫城主の前にアンドルと首元と袖元にフリルの付いた白いシャツの上に黒いジャケットを羽織って丸眼鏡をかけたエリック、それに犬、猿、雉の三人も一緒に立っていた。

「お待たせしました」芹彦命を連れたエリックは会釈をして、ポンという音と共に白い煙になって消えた。

「よく眠れたかにゃ?」猫城主は芹彦命に声をかけた。

「ええ、昨夜の記憶が途中で消えているのですが……」

「大変でしたよ。いきなりぶっ倒れたんで、三人でお部屋に運びました」犬が芹彦命の疑問に答えた。

「大変だったのはお前だよ。『皇子に毒を盛ったのか!』と叫んで城主に飛び掛かろうとしてたのを俺と雉とアンドルとエリックみんなで抑え込んでたろうが」猿が犬に蔑む視線を送りながら付け加えた。

「そうだったか。すまんかった」

「いえ、滅相もない」犬は恐縮した。

「それで……猫城主、お話というのは?」芹彦命は集まっている者たちはすでに何か話を聞いていることを察し、単刀直入に聞いた。

「にゃむ。エリック、皇子にあれを見せてやってくれ」

「はっ」エリックは手に持った短冊状の木簡を広げて芹彦命の前に差し出した。祟神天皇からの書簡だった。温羅とヤマト政権の和平交渉を猫城主に一任する旨が書かれていた。

「本当に陛下とお知り合いなのか……」

「そう話しておったにゃろ。とにゃかく、これで文句はあるにゃい。いま、この城は温羅の鬼ノ城に向かっておるにゃ」

「飛んでいるのだろう? ドラゴンが運ぶにもこの城は大き過ぎるように見えたが」

「皇子も見たにゃろ、ここに来るときに塔の内部にある蒸気の機械仕掛け装置を。あれが動力源にゃ。絶えず気流をつくり出して浮遊しているにゃて」

そう言って猫城主は玉座から立ち上がり、金獅子の杖を突きながら大広間の西の窓の傍へと移動して外を眺めた。

「もうそろそろ着く頃にゃて」

 

「これっぽっちか? 最近少なすぎないか、どうも」温羅は筋骨たくましい右腕の先、大きな手の平を麻袋の中に突っ込み、もみ殻付きの米を掴んで震えて土下座している村人たちに勢いよく投げつけた。ビクッと身体を強張らせた村人たちの前に立ち、温羅はふくろはぎのヒラメ筋に力を入れて右足を村の若頭の後頭部の上に置き、ぐりぐりと踏みつけた。

「どういうことだ、ああ!?」こめかみに血管を浮かばせた鬼の形相で温羅は唾を飛ばした。

「まあまあ、兄さん。少し落ち着いて。彼らも一生懸命やってるんだから。今年は雨が少なかったからね、そうだろ?」筋骨隆々の兄に比べ、やせ型で知的な印象を与える切れ長な目が印象的な王丹おにがなだめるように後ろから声をかけた。

温羅の足がどけられると、若頭は「そ、その通りで……」と自ら額を地面にこすりつけた。

「そうか……で済むと思ってんのか、ああ!?」

「兄さん、じゃあこうしよう。生贄を捧げて雨乞いするんだ、来年はお互いに笑って過ごせるようにね」王丹は目を線のように細めて怪しく笑った。

「おお、その手があったか。前に茹で上がったのは村長の娘だったか? 今年はどの生娘にするかな」

「そ、そんな……」不安げな表情でお互いを見合う村人たちを鬼兄弟の後ろで黙って見ていた温羅の妻、阿曽媛あそひめは、かつての貧しくも心優しかった温羅との幸せだった生活が本当に夢だったように感じて寂しさを覚えた。

夫が変わったのは、吉備の国を治めるようになってすぐだった。阿曽の村で鉄製の鍬や窯で村を豊かにした彼が、村人の信頼を得てあっという間に昇りつめたその地位はあまりにも不安定に感じていたのかもしれない。吉備をさらに豊かにする為に厳しい奉納米を課すようになり、もともと臆病な彼は唯一の肉親である王丹以外の人間は信じないような猜疑心の塊となり、よからぬ噂を聞きつけると暴力で反乱分子を消し去るようになった。ヤマト政権から送られてくる征伐隊を返り討ちにする度に、彼は鬼と呼ばれるに相応しい残虐で凶悪な暴君となっていった。村人と共に阿曽媛がこさえた吉備の団子を畑仕事の合間に笑いながら食べていた夫の面影はもうどこにもなかった。

「温羅さま! なにやら不審なものが城に向かって来ます」鉄製の甲冑を纏った見張りの兵が外から薄暗い部屋に入って来た。

「あ?」温羅は怪訝な表情で兵の方を見やった。

吉備高原の南端、鬼城山の頂に石塁と土塁で固めた城壁に囲まれた東西南北、四つの城門の西門にある角楼から温羅と王丹は起伏のある山々の上に広がる青空に目を凝らした。空に浮かぶ白い雲の合間を漂う黒点が、やがて巨大な塔を携えた空飛ぶ城の影として彼らの目で確認されるまでそう時間はかからなかった。

「猫野郎か……」温羅は面倒くさそうに呟いた。

 

鬼ノ城の上空に留まるとそこからドラゴン二匹に乗って猫城主、アンドル、エリックと芹彦命一行は鬼ノ城を取り囲む城壁の前に降り立った。見張りの兵は巨大なドラゴン二匹を目の前にして腰の引けた構えで長槍を突き出しながら「なに奴!?」と裏返った声を上げた。丸太を重ねた扉がギギギと吊上げている縄の軋む音と共にゆっくりと上に向かって開いた。六尺はあろうかという巨躯で赤い巻き毛を持つ大男と、細身で容姿端麗、青い艶やかな直毛をなびかせた美しい男が並んで出て来た。

「よいよい、下がれ」ドラゴンを目の前にしても全く動じない赤毛の男は見張りの兵に命じた。

「久しぶりにゃの、温羅」ドラゴンの背中から赤いマントをたなびかせて跳ねるように飛び降りた猫城主は赤髪の男に声を掛けた。

「何の用だよ、猫野郎?」温羅は筋骨逞しい両腕を組んで仁王立ちしている。

「まあ、立ち話もにゃんにゃて中に入れてくれにゃ」温羅の両足にまとわりつく様な猫撫で声で猫城主は応えた。

「後ろの奴らは何者だ?」猫城主に呆れ顔を向けながら温羅は質問を続けた。

「彦五十芹彦命殿下にゃ。ヤマトは鬼退治に本腰を入れたようだにゃ。もふに免じてお互い繁栄の道を探ってはくれんにゃか?」

「ふん。ヤマトの腰抜け政権が何度来ても同じことだ」

「……まあまあ、兄さん、ここは彼らの話も聞こうじゃないか」王丹が引き返そうと振り返った温羅を引き留め、「ヤマトから不足してる米を引き出せるかもしれない」と耳元で囁いた。

温羅と王丹の後に続き、猫城主と芹彦命一行は鬼ノ城の埃っぽい中庭を抜け薄暗い城内に入った。長い回廊を通り奥の広間に通された。温羅は広間の奥、一段高くなった場所にどかりと腰を下ろした。王丹はその左前に悠然と立ったまま振り返った。

「で? 殿下自ら俺の首を取りに来たが、猫野郎にそそのかされて思いとどまったってところか?」

「まあそんなところにゃ」温羅の穿った目を真っすぐに見て猫城主は笑いかけた。

「お互い見知った仲ですし、ここは単刀直入にそちらの要件を聞きましょう」王丹の提案に芹彦命は頷いた。

「ヤマトはここの住人から陳情を受け取った。まず、吉備は我々が直接統治する。その上で温羅を吉備の将として改めて迎える」

「ずいぶん一方的だな。なめられたもんだ」芹彦命の条件を温羅は鼻で笑った。

「こちらとしては、まず交渉開始条件として米三百俵を早急に手配していただきたい。その上で和平交渉のテーブルに着くことを提案する」王丹が予め用意していた原稿を読み上げるように、よく通る声を広間に響かせた。

「三百とは、ちと多すぎぬか……せめて五十、いや百俵で手を打とう。今季は不作にヤマトの民もあえいでおるのだ」芹彦命は王丹の無茶な注文に眉をひそめた。

「ならば、こちらの窮状もお判りいただけよう」王丹は引かなかった。

「皇子、時間の無駄です。戻りましょう」犬が芹彦命に耳打ちした。

「分かったにゃ。三百俵はもふが準備しにゃう」猫城主が険悪な雰囲気を打ち破る。

「……な! それはいけません。そこまでやって頂く道理は」芹彦命が猫城主の提案に慌てふためいた。

「我々としてはヤマトだろうが、猫王国だろうが、三百俵が手に入れば構いません」王丹は青い髪をかき上げて冷たく笑った。

「三百俵、用意してから出直せ」温羅が吐き捨てた。

犬が髪の毛を逆立てて飛び掛かろうとするのを猿と雉が両肩を抑えて止めた。

「見ぃつけた」青ざめた表情で泡を吹きながらバサバサの黒髪を振り乱し、四つん這いの阿曽媛がとつぜん大広間に現れた。

「いかんにゃ。芹彦命殿、逃げるにゃ!」猫城主は赤マントを翻して芹彦命の前に立ち、金獅子の杖を構えた。その前に両刃の大剣を引き抜いたアンドルと古文書を開いてぶつぶつと呪文を唱え始めたエリックが猫城主を守るように並んで立った。犬の両肩に置いた手を離し、猿と雉は獣化して芹彦命の前に立つ三人に並んだ。犬も獣化して鋭い犬歯をむき出しにしてアンドルとエリックのさらに前に躍り出た。

「阿曽媛? どうしたというのだ?」温羅は立ち上がって狂った彼女に声を掛けたが、阿曽媛は応えずに首を百八十度反転させ、ゴキブリのような素早さで芹彦命一行に向かって直進した。その首元めがけて飛び掛かった犬の鼻先を一本の矢がかすめた。王丹が放ったものだった。すぐに温羅が一行と阿曽媛の間に割って入った。

「一体どうなってる?」温羅は力いっぱい阿曽媛を背中から身体ごと床に抑え込んだ。

「アギャギャギャギャ……」白目をむいた阿曽媛はもがき暴れている。

「地獄の伊邪那(いざな)美(み)の呪いにゃ。皇族を目の敵にしておるにゃ」猫城主は暴れる阿曽媛を憐れむように見て言った。

「痛っ!」阿曽媛は首をあらぬ方向に折り曲げ、温羅の手首を噛んだ。彼女を抑え込む手が緩み、阿曽媛はサッと天井にまで駆け上り大広間を出た。

「大丈夫か、兄上?」王丹がうずくまる温羅の背中にそっと手を遣ろうと屈むと、温羅はその手を払いのけて呻き声を上げた。

「みにゃ、ここを出るにゃ!」猫城主が全身の血管を浮かび上がらせて転げ回る温羅を見て血相を変えた。温羅の大きな身体はさらに三倍ほどに膨れ上がり全身が真っ赤に染まっていた。

「何なんだこれは?」犬が吠えた。

「鬼にゃ。強い憎悪が人を化け物に変える毒になっとるにゃ」

巨大な赤鬼となった温羅は白目を向いて、芹彦命に向かってドスンドスンと足音を立てて迫った。雉は翼を広げて温羅の胸元に向かって飛び、猿は雉を援護する矢を射て、犬が白い毛を逆立てて雉の背中を足場に温羅の首元めがけて飛び掛かった。巨大化して一層たくましくなった右腕が犬の脇腹を払ってふき飛ばした。合間を置かず、アンドルが馬の蹄で地面を蹴り上げて飛び、振り上げた両刃の剣を温羅の胸元に突き立てた。厚い胸板にめり込む切っ先を胸筋を動かし一息で温羅は撥ね退けた。弾かれた鉄の剣を介してエリックの古文書から放たれた稲妻のような光が温羅を打った。凄まじい音が鳴り響き、温羅は膝を折った。

「ヴぁああああ!」温羅は聞いたことのない低く腹の芯を揺さぶるような咆哮を上げて立ち上がった。

「皆、城の外に出るにゃ!」猫城主が金獅子の杖頭を天に掲げた。大広間が揺れて、温羅の頭上に黒く渦巻く穴のようなものが現れた。

「まずい、走れ!」アンドルが壁際で立ち上がり再び温羅に駆け寄ろうとした犬の首根っこを掴み、分身したエリックが猿、雉、芹彦命の元に駆け寄り外に向かって手を引き走り出した。

「おとなしく、もと来た場所に戻るにゃ」金獅子のサファイアの両目が輝き、さらに大きくなった穴は凄まじい勢いで大広間の壁や床材などと一緒に温羅の巨躯を吸い上げた。穴は少しずつ縮まり、静寂が戻った。その時、筆から一点垂れた墨のように小さくなった黒点にササっと天井を這う蜘蛛のように阿曽媛が駆け寄り、その中に手を突っ込んで穴を押し広げた。穴は再びぐんぐんと広がり、その中から温羅が飛び降りるとさらに青、黄、緑、様々な肌色をした大小、無数の鬼たちが一斉に穴から吐き出されるように出て来た。

「にゃ!」猫城主は赤マントを翻して杖を口に咥え、追って来る大勢の鬼から城の外へと逃げだした。

「城主、早く!」ドラゴンの背に乗ったアンドルたちが猫城主の元に城壁を突き破って降り立った。大勢の鬼たちが猫城主を乗せて飛び立とうとするドラゴンの足に爪を掻けたり噛みついたりしてぶら下がった。温羅がへし折れた床材をやり投げのようにしてドラゴンの顔面に向けて投じた。折れて尖った床材の先端がドラゴンの右目に突き刺さり、ドラゴンは痛ましい声を上げてドスンと地面に体を横たえた。わらわらとドラゴンの体を登って来る鬼たちを一行は懸命に蹴散らしたが、倒しても倒しても登って来る無数の鬼たちに一行も疲労の色を隠せなかった。温羅が投げる崩れた城壁の岩が芹彦命に向かって飛んで来て、芹彦命は咄嗟に身をかがめたが体勢を崩してドラゴンの背から転げ落ちた。その際に彼が首から下げた勾玉が千切れ、空中に放り出された瞬間、柳色に輝く光が芹彦命を包み込んだ。柳色の光は少しずつ膨らみ、天へと真っすぐに伸びる柱のように強い輝きを放った。すると、天から金色の桃の実をつけた木が光柱の中をゆっくりと降りて来た。

「これは……?」温かな光に包まれた芹彦命は桃から香る甘い匂いに誘われて思わず傍らにあった黄金の桃の実をもぎ取って一口齧った。瑞々しく柔らかな甘みが口の中に広がって、もう一口、二口と丸々一個すぐに食べ切ってしまった。不思議と先程までの疲労感は消え去り全身に力が漲る心地がした。光に包まれた芹彦命に向かって阿曽媛が飛び掛かったが、その光に触れた途端にどさりと気を失って倒れた。倒れた阿曽媛を見て狂ったように温羅が小さな鬼もろとも踏みつけながら走り寄って芹彦命に襲い掛かった。芹彦命は傍らにあった桃の実をもぎって温羅に投げつけた。それは温羅の右目を直撃し、その目を溶かした。温羅は右目を両手で抑えて手足をばたつかせた。芹彦命は腰に下げた剣を抜き、温羅の首を一太刀ではねた。黄金の桃の実を一行が鬼の群れに投げ始めると鬼は悲鳴を上げながら蜘蛛の巣を散らすように退散した。陰で兄のあっけない死を見た王丹は勝機はないと悟り、地獄に繋がる穴に入り憎悪の深い闇に身を落とした。

「終わったにゃ……」散り散りになった色とりどりの鬼たちの背中を眺めながら猫城主はくちひげをふうっと揺らした。

「大変お世話になりました」

「うにゃ。こちらこそ、まさか桃の木に助けられるとは思いもよらなんだ」

「あの木は何だったのでしょうか?」

「大神実命と伊邪那岐いざなぎが名付けた桃の木にゃろう」

「大神実命……」

「そにゃ。ドラゴンの治療もあるにゃて、もふらはこれで」

猫城主とアンドル、エリックは片手を上げて三匹のドラゴンにそれぞれ乗り、その片足に吊り下げた大きな布に負傷したドラゴンを乗せて飛び立った。小さくなる天空の城を芹彦命一行は半壊した鬼ノ城の前から見送った。

 

温羅に代わり吉備の国を治めることになり、芹彦命は吉備津彦命きびつひこのみことと名乗るようになった。彼はあの不思議な光に包まれて以来、人が変わったようだった。まず初めに彼が命じたことは、ヤマトにたてついた見せしめとして温羅の首を彼らが新たに建てた吉備津宮近くの河原に晒すことだった。しかし、死後数日経っても、その目はまるで吉備の国がまだ彼の支配下であることを主張するかのように見開かれたまま、口は歪んで今にも噛みつきそうに大きく開かれており不気味なものだった。

「皇子、温羅の首がいまだに呻いて気味が悪いと住民が騒いでいます」吉備津彦命のもとに猿が現れた。

「犬に喰わせろ」吉備津彦命はそう命じ、犬は河原に晒した温羅の首の肉と皮を剥ぎ取り串刺しにして塩胡椒をまぶして弱火でじっくりと焼き、燻製にして食べた。

「なかなかイケるな」犬は独り言ちてあっという間に平らげた。頭蓋骨となった温羅の頭は、それでも夜な夜な唸り声を上げた。そこで吉備津宮にある釜殿の竈の下、地中深くに骨を埋めたがそれでもその声は止まなかった。

「おい、起きろ」

吉備津彦命の枕元に鬼になる前の温羅が立っていた。

「うわっ! 化けて出たのか……」

「そうだ。お前がなにも分かっちゃいねぇからな。犬なんぞに俺を喰わせやがって」

「す、すまない」

「まあいいよ。もう死んでんだしな。だが、阿曽媛、俺の妻を覚えているか?」

「あ、あの伊邪那美の呪いで四つん這いになってた?」

「そうだ。あいつはまだ生きてるし、あいつの今後だけが心配だ。どうかあいつに神饌みひを炊かせてやってくれ。そうすれば俺が神の代わりに人々の吉凶を占おう」

吉備津彦命は目を覚ました。「ゆ……めか」吉備津彦命はその夢が忘れられず、阿曽媛を雉に探し出させ、吉備津宮に呼び寄せて神饌となる供え物をこしらえるよう命じた。

村長の息子と神主の娘の婚儀を前に二人の婚約を占うことが彼女の最初の仕事になった。境内で不安気に見つめ合う若い二人に阿曽媛は亡き夫と自分の姿を重ねた。阿曽媛は亡き夫との思い出深い、吉備の団子をこしらえる為に竈に火をかけてもち米を炊いた。火に竹筒から息を吹きかけると竈から唸るような低い音が聞こえてきた。まるで阿曽媛の呼びかけに応じる温羅の優しい声のようだった。

「吉です」阿曽媛はその音を慈しむように聞いて神主に告げた。神主の背中越しに安堵の表情を浮かべてはにかんで笑う二人の姿を見て、阿曽媛は温かみの残る竈にそっと手を置いた。

〈了〉

 

2020年12月27日公開

© 2020 松尾模糊

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