寂しい横顔

松尾模糊

小説

3,505文字

大津絵/『女虚無僧』
ニュースタンダードがスタンダードになったら書けないお話を書きました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。

 

上半身の地肌が見えない程に鬼やら龍やらの入れ墨の入った、長い金髪をオールバックにした男がバスドラを踏み鳴らし、タムをドラムスティックで叩いて変拍子のリズムを刻む。その前で上半身裸のふんどしだけで足袋を履いた大柄なスキンヘッドで顔を白塗りにした男が片足を上げて四股を踏むようにして体を揺らしながら黒いエレキベースの四弦を指で弾く。腹に響く重低音が地を這う。そして法衣を纏いサングラスをかけた短髪の男が赤く塗装されたエレキギターの六弦の上に黒いギターピッグを振り下ろした。ステージの中ほど、右寄りに置かれた黒い長方形のギターアンプから発された鋭い硬質を帯びた音が人々の頭上で暴れる。ステージ前に集まった老若男女は狂ったように白眼を剥き、両手を挙げてお互いの体をぶつけ合いながら歓声を上げている。その中の痩せた長身の男が前に居た小太りの男の肩に両手を置き、自身を持ち上げるようにして群集の頭上に体を預けた。男は群集の無数の手を渡り、ステージに飛び乗る。それから法衣を着たサングラスの男の前に置かれたスタンドマイクに向かって奇声を上げてから再び群集の元へと飛び込んだ。
「ソーシャルディスタンス? アーリアの支配するこのキャピタリズムな世界なぞ糞喰らえ! 三密ええじゃないか!」
サングラス法衣男がズレたサングラスをくいと上げて叫ぶ。ええじゃないか! ええじゃないか! 男の号令に合わせて群集が手を叩いて声を上げる。
わたしは遠目にその様子を見て眉をしかめた。
「あんなに密集して本当に大丈夫なのか?」
「さあ……な。もちろん違法的な集会だからサツが来たらアウトだが」カトウは吸いかけのアメスピを咥えてゆっくりと煙を吐いた。その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。ああ、まずいね。と呟き、カトウは吸い殻を地面に落として黒い革靴の先で踏みつけた。赤く光る≪RockUndead≫の電気看板の上で『三密集会~身密、口密、意密の実践でウィルスを駆逐せよ~SHAMON BOYS Live』と墨字で書かれた張り紙の端、テープが剥がれた箇所が側溝から吹き上げる生暖かい風に揺れていた。入り口前に停められた三台のパトカーから降りた、制服姿の警官と黒いスーツ姿の男たちが警察だー! 全員動くなー! と叫びながら階下のメインルームへと下って行くのを後目にわたしはカトウとレッド、ピンク、イエロー、ブルー……煌々と雑居ビルを照らすネオンが眩しい夜の街へと出た。
「オニイサンタチ、マッサージイカガ?」けばけばしいボディコンの女性たちがカトウとわたしの肩に手を触れながら上目遣いで声を掛けて来たのを触んな! と一喝してカトウは大股で歩く。わたしは苦笑いしながら、両手をあげて驚く女性たちをなだめるようにしてカトウを小走りで追った。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」わたしは肩で風を切るカトウに声を掛けた。カトウは何も答えず、白いコンクリート壁がのっぺりと存在感を放つ看板も何もない円柱型の建物に入った。わたしは黙って彼の後に続いた。渦巻くように切り取られた白い壁の内側をぐるりと回ると、白熱電球の明かりが灯る黒枠のガラス扉の入り口があった。中は薄暗く、ジャズだろうか、くぐもったサクソフォンの音が奥から聞こえてきた。
「いらっしゃい」白いカラーシャツの上に黒いチョッキを着た、豊かな白髪をオールバックにしてきれいに切り揃えた白い口髭を蓄えた老紳士が、木製のカウンター席の向こうでガラスのウイスキーグラスを拭きながらカトウとわたしを出迎えた。
「今日は一人じゃないんですね」老紳士はわたしの顔を見ながらカトウに声を掛けた。
「ああ。ちょっと大事な話があってね……いつもの。お前は何飲む?」カトウは老紳士にそう応えて、わたしの方を振り返った。
「彼と同じものを」わたしは“大事な話”と言うカトウの言葉を気にしながらも、視線を老紳士の方に向けて答えた。承知しました、と老紳士は一礼してウィスキーグラスを二つカウンターに並べてから球体の氷を落としてウィスキーボトルの蓋を静かに開け、トクトクと注いだ。
「よく来るのか?」わたしは白熱電球の間接照明がぽつぽつと、夜の川辺を蛍が照らすように微かに狭い店内に灯る空間を見渡しながらカウンター席に座った。
「ああ。たまに一人になりたい時にな」カトウはまっすぐ遠くを見る様な横顔をしていた。白い小皿に乗ったピスタチオとウイスキーグラス二つを老紳士が音もたてずに静かにわたしたちの前に置いた。わたしは老紳士に一礼して氷を浸すウイスキーの入ったグラスを右手に持って掲げた。カトウはわたしのグラスに自分のグラスを軽くぶつけて一気にウイスキーを飲み干してグラスをテーブルの上に置いた。まだ溶け切らない氷がカランと鳴った。わたしは一口だけ口をつけてグラスを置いた。喉の奥を焼く様な熱さがじんわりと身体全体をしびれさせた。
「大事な話って?」わたしはただならぬ気配をまとうカトウに耐えられず、単刀直入に聞いた。
「……陽性かもしれない」
「え?」
わたしは思わず間抜けな声を上げた。それからグラスを傾けて一気にウイスキーを喉の奥に流し込んだ。横目にその様子を見届けてカトウは老紳士に同じもの二つ、と声を掛けた。
「結果は明日出る。お前とチャッピーだけだ、濃厚接触者は。チャッピーは昨日、動物病院で検査してもらった。陰性だとさっきメールが届いてた。お前にも検査を受けて欲しい」
「無症状患者ってこと? なんで検査を受けたのさ?」わたしは動揺しながらも冷静に受け止めようとピスタチオを一つ手に取ったが、殻を剥く気になれず小皿に戻した。
「自覚症状はあった。味覚障害ってやつだ。酒も煙草も不味くてずっとイライラしてる」カトウはピスタチオの殻を親指と人差し指で挟んでパキリと器用に割ってから口の中に放り投げた。
「あんな所に連れて行って、僕を安心させようとでもしたわけ?」わたしは飼い犬より後回しにされたことを思い返して少し苛立った。ゴメン、小さく呟いてカトウは僕の左手の上に大きくて分厚い右手を重ねた。「触るなよ!」わたしは反射的に彼の手を払いのけた。ゴメン、カトウは奥二重の目を悲しげに伏せた。おかわりの二杯を老紳士が静かにわたしたちの前に置いた。カランと氷の回る音を聞き、わたしは我に返った。
「いや、その……こちらこそ気づかずにごめんなさい」
「いいんだ、悪いのは俺だから。チャッピーの面倒はうちの親に頼んどいたからさ」
「カトウはどうすんだよ?」
「陽性なら、隔離用のホテルで陰性になるまで過ごす。しばしのお別れだ」武骨な手をグラスに被せて虚ろな表情で空を見つめる彼の横顔がわたしが見た最後の彼の姿だった。

「チャッピー!」両手を広げたわたしの元に茶色の毛をたなびかせて尻尾を振るチャッピーが駆け寄ってきた。白い腹を見せてアスファルトの上に体を横たえるチャッピーをわしゃわしゃとして抱きかかえた。
「とてもいい子でしたよ」紺色のポロシャツにチノパンを履いた老人と淡い黄色のワンピースを着た上品な老婦人がわたしとチャッピーに優しい視線を向けている。カトウの両親とは彼と同棲を始める前に会った以来だ。カミングアウトしてから絶縁状態のわたしの両親とは対極と言っていいほど初めからわたしたちの関係に理解を示してくれた。チャッピーを連れてわたしは家路についた。でも、そのまま帰る気になれずにふらふらとチャッピーを連れて彷徨った。

 

繰り返される諸行は無常。俺とお前は性的関係。デストロイ・ファッキン・ソーシャルディスタンス!

 

SHAMON BOYSのフロントマンがシャッターの下りた真夜中の商店街の舗道の上に座り、アコースティックギターをつま弾きながら歌っていた。夜だというのに彼はやはり丸いサングラスを掛けていた。わたしはチャッピーと共にその前を通り過ぎようとしたが、立ち止まり、ポケットに入った小銭を彼の前で開かれたギターケースの中に投げ入れた。男は一礼し、演奏を続けた。わたしは無症状患者だった。わたしが隔離生活に入ったその日に、カトウの病状が急変して二日も持たずに彼は旅立った。どちらが先に感染していたのか今も分からない。くるりと巻いた尻尾を振りながら歩くリードの先のチャッピーの姿が滲んだ。立ち止まる主人の方を振り返り、駆け寄ったチャッピーが足元から見上げる視線も気にせずにわたしはわんわんと泣いた。わたしはあの日、最後に見たカトウの寂しげな横顔をこの先も忘れることはないだろう。

2020年12月20日公開

© 2020 松尾模糊

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