逆転

松尾模糊

小説

2,333文字

『睡蓮』クロード・モネ、1914-1917年:キャンバスに油彩130×150 cm、マルモッタン美術館、パリ
BFC2幻の二回戦応募作。来年は本戦で二回戦作を書くという妄想のもと書きました。SFとファンタジーを織り交ぜたような掌編です。

何本もの細く光沢のある糸が空に向かって伸びている。その先を見上げると、糸は厚い入道雲の中に潜り込んで見えなくなっていた。視線を地上に戻すと、白い布を纏った老若男女がそれぞれ竹でできた竿を手に持って空を見上げていた。胸元にまで伸びた長いあごひげを蓄えた老人の持った竹竿の先端がぴくりと動いて、老人が素早く竹竿を手元に引いた。入道雲の間からマンボウのように丸く、虹色に輝く鱗をもった魚が身体をバタつかせて飛び跳ねながら出てきた。虹色の鱗が雲間からの陽光を反射して光り、その様子は宗教画のように神々しい光景となった。老人は魚を引き寄せ、抱えるようにして開けられた口の右頬辺りに突き刺さった釣り針を慣れた手つきで取り外した。魚は白いコンクリートの上で金魚のように二つに割れた尾鰭おびれを振って跳ねた。堤防の先には白い灯台が見える。釣り人たちは穏やかに凪ぐ青い海ではなく、入道雲が広がる青空に向かって釣り糸を垂らして……いや飛ばしているのだろうか? そんな疑問を考える間もなく、老人は釣った魚を空に向かって放り投げた。魚は胸鰭をパタパタとまるで羽のように動かしながら、二つに割れた赤い尾鰭を揺らしてゆっくりと空を飛んで入道雲の中へと戻った。老人は満足気にその様子を見届け、釣り針に紅い肉団子のような餌を突き刺してから糸を雲に向けると、自然と釣り糸は宙に浮かんだ。老人の後ろで麦わら帽子を被った小さな男の子が口先の尖ったきすのように細長い魚を釣り上げて、父親らしき男が彼の後ろから両手を回して一緒に竿を引き上げていた。白くて大きなつば広帽子を被った母親らしい女性は口元に笑みを浮かべて見守っている。親子の元に向かって空を漂う鱚のような魚を、水飛沫を上げて海面から飛び出した鳶のような鳥が黄色い嘴でつかみ取って一瞬で海へと潜った。驚いた男の子が手放した竿を父親がパッと掴んで堤防の上に置き、声を上げて泣き出した男の子の麦わら帽子を取って汗に濡れた黒髪をわしゃわしゃと撫でている。空飛ぶ魚に海中の鳥、逆さになった世界でも人の営みはかくも変わらぬものなのか。汽笛の音が聞こえて、雲の上を滑るように巨大な汽船が逆さに浮かんで釣り人たちの頭上を通り過ぎる。もう男の子は泣き止んで汽船に向かって大きく手を振っている。男の子に応えるようにもう二度、汽笛が鳴った。どこからともなく灰色の分厚い雲が現れて先程までの長閑な風景が露と消え、ピカゴロと雷鳴が轟いた。大粒の雨が地面を濡らし、釣り人たちは散り散りになっていなくなった。竜巻が幾つも海面へと延び、白波が海面を覆う。汽船がブオーンと低く大きな音を立ててゆっくりと落ちていく。船首が波に触れ、大きな津波が起こり雀や鴉やかもめから鸚哥インコまで色とりどりの鳥類が海から飛び立った。世界の終わりというには余りにも美しい光景だった。

 

楽しめたかな? 老紳士の声でわたしは我に返った。老紳士の下顎の切り揃えられた白い口髭と、天井から吊り下がった剥き出しの白熱電球の明かりが見えた。立ち上がろうと頭を前に突き出した時に後頭部に接続された管がガシャリと鳴り、わたしは老紳士に大金を渡して「終末の夢」を設計してもらったことを思い出した。ああ。あまりに幻想的だったが、美しかったよ。わたしは右手を後ろに回して、ジャックに刺さった接続部のロックを解除してからゆっくりと夢信号の転送管を抜き取った。「それは良かった」青いビニールカバーの掛かった簡易ベッドから上半身を起こすわたしの背中を支えながら老紳士は微笑んだ。この夢の中にわたしのルーツのヒントがあると?「遠い昔にある学者が夢は潜在意識下にある欲望の発露だと言っておったな」ジークムント・フロイトだな。確か彼の定説は科学的根拠に乏しかったから今ではほぼ支持されていないだろう。人間の記憶能力の限界を超えた情動を抑制するために、それらを意味不明のものに変形して消去する働きによって睡眠中に夢を見て忘れることを繰り返すという、記憶処理仮説が有力なんじゃないのか。それも仮説でしかないが。「さあな。ワシは小難しい話は苦手じゃ。だからこそ夢を創るのに向いとるんだろうが。もう、夢を見たいなんていう奇特者はいないよ。その話通りなら、人類が記憶能力をアウトプットできるようになったからなのかもしれんな。すっかり世界は変わったよ」そうだろうな。わたしは施術室と彫られた銅製のプレートが打ちつけられたその部屋の内開き扉の隣に置いてある上着掛けから紺のウールコートを持ち上げて、真鍮のドアノブに手をかけた。「頭上に気を付けて」老紳士が警告した。わたしは振り返り、老紳士の顔を見た。彼の白くなった眉毛の下の細長い目の奥が怪しく光った。わたしはかぶりを振り、ドアを開けて一歩外に出た。踏みしめるはずの大地はそこに無く身体ごと宙に投げ出される、わたしは咄嗟に施術室のドアの下桟を右手で掴んだ。脇の下には青い大地……いや、そこに鳩が飛んでいる姿が見えてそれが空であることが分かった。夢の続き? 「夢じゃないよ」老紳士がわたしをドアの奥で見下ろしていた。一体どういうことだ? 「人々は夢を見なくなり、世界は平坦になった。世界を元に戻すにはまず逆さにすることが必要だ。反動こそが世界の意思なのだ」老紳士は右手に握ったドラゴンを象った銀の杖頭の付いた黒いステッキでわたしの右手を幾度も殴った。わたしの右手は下桟から離れ、重力から解放された身体は成層圏を抜け、外部に施された特殊加工のゴムは焼き焦げ、鉄製の骨格がむき出しになったまま宇宙に投げ出されて鉄屑の宇宙ゴミと化した。逆さの世界の外側を、わたしは世界が反動で元に戻るのを見守るように延々と回り続けている。

2020年11月15日公開

© 2020 松尾模糊

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