男は両手を器用に使い、あずき色の化学繊維の糸で漁網を編み込んでいる。コンクリートの上で大きな網を編む男の傍では、堤防に打ちつける波の音と揚がる魚のおこぼれを狙う鳶の鳴き声だけが響く。防波堤の先に見える灯台の向こうに傾きかける日の陽射しが長閑な光景に色を添えていた。風はなく、男の狭い額には汗が光っていた。芋虫のように太くむっくりとした指は長年の作業の年輪を刻むように厚く硬い皮膚に覆われている。その武骨な指の見た目とは裏腹に滑らかな動きで規則正しい網目が次々と生み出されていく。飛び回る蠅がときどき男の短く刈られた白髪頭の上にとまっていたが男が気にする様子はなく、ひたすら男は編み続けた。眩しい陽射しがやがて茜色に染まり白い月に色がつく頃、男は手を止めて立ち上がる。腰に両手をやって背中を仰け反らせて息を吐き、地平線の向こうに沈む夕日を眺める。そうして男の一日は暮れていく。
女は幼い男の子のちいさな左手を引いて立っている。黄色いワンピースの下に伸びる彼女の長くて白い手足とは対照的に男の子の肌は褐色で健康的に見える。男の子はそのことを自覚しているのか、少し背伸びをするようにして女王を守る近衛兵よろしく行進のように力強く手足を振っている。防波堤の向こうから白波を立てて大漁旗をはためかせる漁船の群れが母子のもとに向かっている。男の子は母の手を離し、父の乗る船団に向かって大きく手を振る。
わたしは泣いている。白黒に縁取られた両親の若かりし頃の写真の下で真冬の冷たい海に体温を奪われ、青白くくすみ硬くなった蝋人形のような二人が狭い箱の中に横たわっている状況を呑み込めずに。荒れ狂う波と強風が揺らす雨戸の音がわたしのざわつく心を煽った。畳の上で「ご愁傷様です」と薄くなった頭を下げる男たちの手はごつごつとして肥え太った芋虫にそっくりで、そこにだけ命の宿る光が差していた。
あなたは今も待っている。全てを奪い去った憎き深淵のすぐ隣で。それでも地平線の下から朝日が昇るように、いつかその波間から愛する人がなにごとも無かったような笑顔で手を振って現れる奇跡のような瞬間を。あなたの小さく柔らかかった手は、強い陽射しと潮風と時々負う小さな傷によってむくむくと太った芋虫が空に飛び立つ前に強固な鎧を纏った蛹のように様変わりしている。
満月の光が照らす海の上を一匹の蝶が舞う。ざぷざぷと揺れる波の上でゆらゆらと優雅に彷徨うさまは、まるで天から舞い降りて来た天使のようだ。蝶は夜空に咲いた向日葵にも似た満月の甘い蜜に誘われるようにひらひらと、月明かりで七色に輝く翅を羽ばたかせてどこまでも穏やかに凪ぐ海の上を飛んで、夜の闇と黒い海が入り混じる地平線の向こうへと消えた。
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