退化夜行

松尾模糊

小説

2,115文字

自分なりのインスマスの影、海馬、シェイプ・オブ・ウォーターです。第3回六枚道場応募作。

満月の夜に海に近づいちゃならん。チンジュ婆は口酸っぱくカザミに言い聞かせた。海底人が人の子をさらうからの。なんで? と尋ねるカザミにチンジュ婆が答えるのはそれだけで、海底人が何者で何の為にそんなことをするのか教えてくれなかった。きっと幼いカザミを怖がらせる虚言だったのだろう、長い黒髪とともに外見麗しく成長したカザミはそう考えている。

「本当に鯨がいたの?」

「なに、疑ってるわけ? タスクのくせに生意気」

カザミは十五を迎えた最初の満月の夜に幼馴染のタスクをそそのかして、自転車の荷台に横座りしている。二人は月の光に照らされて翡翠色に輝く波が寄せる砂浜に向かった。

「カザミ、太った?」

「あ? レディに向かって何言ってんだ!」カザミは右手で思いっきりタスクの寝癖がついた旋毛をはたいた。

「痛っ!」タスクが両肩をすくめ自転車がふらふら蛇行した。

「ちゃんと前見て運転しろ」カザミはもう一度頭をはたいた。少し冷たい夜風になびいて額にかかる前髪を掻き上げ満月の下で凪ぐ海を眺める。カザミには、ふとそれが星が煌めく夜空に比べ黒く深く遠くおちこむ果てのない洞穴が広がる様に見えた。海岸を覆うコンクリート壁の脇に自転車を停めて階段を下り、消波ブロックの合間を抜けて木片に混じり散乱する発泡スチロールやペットボトルやビニール袋を避けてようやく浜の砂を踏みしめられた。カザミは赤いスニーカーと白い靴下を脱ぎ「持ってて」とタスクの胸元に押し付け、ジーンズの裾を捲り上げ裸足で砂浜を駆けた。波がざさんと砂を濡らす。右足の親指をちょんと濡らしカザミは「冷た」と一人で笑い、両足を海に浸けてざぶざぶと駆けた。

「風邪ひくよ」右手にスニーカー、左手に靴下をつまみ持ったタスクが波の音にかき消されそうな声をかけた。

「タスクも入りなよ!」カザミは叫ぶように返す。

「いいよ、僕は。それより、鯨はどこにいるのさ?」

「あー、えーとどこ行ったんだろ? あの月の下あたりで見たんだけどな」

「カザミ! 後ろ!」カザミが沖を指差すのと同時にタスクが叫ぶ。

大きな黒い影がカザミの眼前に立っていた。月明かりに照らされたそれはヒトのような体格はしているが、肌は濃い緑の鱗で覆われ、水掻きのある大きな手、前に突き出た口から覗く口内に細かく鋭い歯が無数に生え、顔の半分を占める目は真っ黒で時折白い膜のようなものが瞬いて目全体を覆った。

青空がひび割れている。タスクはそれが丸眼鏡のひび割れと気づき、上半身を起こし辺りを見回した。空と認識したのはガラスの天井から見える海だった。細長い巨大な魚がくねくねと天井の外を横切った。彼の下半身は白い掛け布団の下に潜っている。布団? どうやら鉄パイプの簡素な造りのベッドの上で眠っていたようだ。ベッド以外には何もない、真っ白な壁に覆われたホールでガラスの天井は高く吹き抜けのようになっていた。夢? タスクは記憶を辿った。スニーカーと靴下を放り投げ波飛沫を立て、へたり込むカザミの元に駆け寄り彼女のパーカーのフードを掴んで引っ張り化物との間に立った。眼鏡の上から化物は右手先の鋭い鉤爪をタスクの後頭部につっかけて掴み海へ引きずり込んだ。ぬめりとした感触を思い出して身震いし、頭を振った。

「お目覚めですか?」

白衣を着た医者のような白髪頭の老人がタスクの足元に立っていた。

「ここは?」

「カイビエンサです。海底都市と言えば分かりますかね? わたしはポル」

「あの化物は?」

「あなたをここへ案内した? 彼はショーです。あれは海中を移動する際に我々が変身した姿で。変身というと聞こえはいいですが、まあ元々の姿と言った方が良いですかね。海上と同じ環境を創り出して進化したのです。ですから、我々にとっては退化する感じですが」

案内って、連れ去られたのに。心で突っ込みながらタスクは自分がまだ生きていることに安堵した。ポルの背後で白い壁が割れるように開き、セミロングの銀髪をオールバックにしたスーツ姿の大柄な男が現れた。

「ああ、ショー。精通もしてるようだし、問題ないみたいだ。だが、雄は初めてだな」

「雌と一緒にいたんだ。突然入れ替わってて気づかなかった」

「今回は特例だ。ソルト様が知ったら切り身にされていたぞ。儂が好奇心旺盛な研究者で良かったな」

「分かってる。恩に着る、ポル」

ショーは両手をスラックスのポケットに突っ込んでタスクの足元に立ち、上半身を折り曲げて顔面に顔を近づけた。頭髪と同じ銀色の眉毛の下にある落ち窪んだ瞳は青く、高い鼻梁に薄い唇の整った顔立ちからは、とてもあの化物の姿は想像できない。

「どっちの遺伝子が濃く受け継がれるかね」

ショーの生臭い息が鼻にかかり、タスクの背中に悪寒が走った。

目の前で泣きじゃくる孫娘の姿を見て、チンジュ婆は重い腰を上げた。ホットミルクの入ったマグカップを持たせ母サヘルと父アクトがカザミの背中を撫でるのを視界の端で捉えながらカーテンを開けた。満月が沈んでいないことを確かめてチンジュ婆は外に出た。

「何年振りかの、潜るのは」チンジュ婆の銀髪が抜け落ち、両手足が膨らんで、頬の肉がぱっくりと開き空気が漏れ出る。赤い鱗が全身を覆い月明かりに照らされ怪しく光った。

2020年3月8日公開 (初出 六枚道場

© 2020 松尾模糊

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