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神様まであと一歩

犬江目彦

痛みについて書きました。今も痛みについて考えています。

小説

2,091文字

陣痛を説明する時、男には分からない痛みと言う。それ以上の説明を聞いたことがない。なぜ少しでも分かるように伝えようとしないのか。きっと嘘だからと彼は思う。陣痛は大した痛みではない。男が確かめられないのをいいことに、女たちが仕立て上げた嘘に違いない。

彼は小学校の性教育の授業を想像する。

厳格なシスターといった雰囲気の中年の女教師が黒板の前に立っている。大事な話があります。シスターが左から右へ首を動かして女子たちを見る。秋の陽ざしが顔に深い影をつくっている。女子たちが緊張した面持ちでシスターを見る。

子供を産んで母親になる時、皆さんは陣痛を経験します。どんな痛みか知っていますか。女子が首を横に振る。そうですね。経験していない皆さんには分かりません。では想像したことはありますか。シスターは女子一人一人の顔を順に見る。女子たちは未知の痛みに体を強張らせる。

怖がらなくても大丈夫です。シスターが笑みを浮かべる。陣痛は大した痛みではありません。虫歯を軽く削る時に歯が少し染みますね。あの程度です。

しかし、と言ってシスターが言葉を止める。女子が唾を飲み込む音が教室に響く。

それは女だけの秘密です。あなたたちの母親もその母も、皆がこの秘密と共に生きてきました。男に知られないようにしてきた大事な秘密です。何故か分かりますか。女性はずっと差別され虐げられ、当然の権利を持つことが出来ませんでした。その苦しみや悲しみは今も続いています。陣痛は差別と闘い権利を勝ち取るための女の隠された武器です。闘いはこれからも続きます。この秘密と共に生きてください。男たちの犠牲になった女性たちのため、これから生きていくあなたたち自身のために。出産の時はあらん限りの声で絶叫し、おろおろする男を罵りましょう。それは罪ではなく私たちの権利です。過去と未来のために、今あるべき権利のために精いっぱい叫ぶのです。

シスターの声は大きくなり頬は少し赤らんでいる。疑わし気だった女子たちの表情は変わり誰もが真剣だ。人類の半数を騙す壮大な嘘に加担する。その後ろめたさと期待で唇は赤く湿り、顔の産毛は硬く逆立っている。

最初は女たちも本気じゃなかっただろうと彼は考える。男を懲らしめるための些細な意地悪程度だった。しかし繰り返され時間を経ることで嘘は強靭になっていく。裏切る女は断罪され、疑う男は罠にはめられ地位を失う。時代が進んで男女格差が縮まっても女たちの恨みは消えない。女たちはいつまでも嘘をつき続ける。そこにあるのは復讐への強い意志と底知れない悪意だ。

しかしどんな企みもいつかは明らかになる。それでも続いているのは何故か。神の仕業じゃないかと彼は考える。

女たちは壮大な嘘をつくことで満足し、男たちは疑問を感じても考えることが面倒になる。人類を存続させるために神が絶妙のバランスでそれを仕組んだ。歴史上の賢者たちは分かっていたかもしれない。しかし敢えて気付かない振りをした。人類に必要なのは真実ではなく嘘だ。嘘が人類に平和と安定をもたらす。

壮大な人類の謎に考えを巡らせ、彼は今晩も眠れなくなる。開けっ放しの窓の外から雨の音が聞こえる。雨ではなく三〇二号室の住人が窓から放つ小便だ。しかし雨と思い込むことにする。

三〇二号室の姿を見たことはない。部屋から物音は聞こえず毎晩窓から放たれる小便でのみ存在を感じる。小便はアパートの裏庭に水たまりを作る。裏庭には日が当たらず常に湿気に満ちて水たまりは干上がらない。夏には虫が湧いて周囲に悪臭が漂う。住人から苦情が出るが三〇二号室は小便をやめない。時には本当の雨が水たまりを押し流す。雨の後に三〇二号室はいつもより長い小便をする。小便は裏庭でぶくぶくと泡立って新たな命を生み出す。

何故窓から小便をするのかわからない。だから放っておけばいい。理解不能なことを分かり易い原因に結びつけてはいけない。分かったと思った途端にそれは別のものになり、真実と嘘の均衡が崩れる。窓からの放尿を止めてはいけない。匂いとか虫とか衛生とか、そんな目先のことで騒ぎ立てるのはやめにしよう。だってそれは神の意志に反しているかもしれないんだぜ。

彼の頭の隅に神の視点が生まれかけている。世の中の不満や理不尽や残酷な出来事は神には些細なことだ。神は独善的で怒りっぽくて残忍で、思いつきで世界を壊したり作り変えたりする。神は人間の尺度では理解出来ない。そう思っている彼は人間の一つ上のステージに足をかけている。

小便はまだ続いている。いつもより長くて何かが起きる予感がする。予感。とてもいい言葉だ。もっと予感をしたい。泡立つ小便が予感を生み出す。期待するうちに眠くなってきた。だんだんと彼の意識は薄れていく。

翌朝目覚めた時、彼から神の視点は消え去っている。眠りにつく前に大事なことを考えた気がする。しかし思い出せない。雨は止んで外は明るい。秋の陽ざしが差し込む教室の光景が夢に出てきた気がする。クールでいかした感じのシスターっぽい教師が話している。高揚したシスターの頬が少し赤らんでいた。それはちょっとエロかったと彼は思う。

© 2026 犬江目彦 ( 2026年6月6日公開

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