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幾千の夏と一日

八雲鬱邦

どろどろになつては全てが一つになる。たった一つは尊く、夏は知らぬ顔をする。蟻一匹に過ぎない。

タグ: #奇妙 #掌編小説

小説

1,695文字

 

飲めば飲むほど、炭酸は弾け飛び、喉を開かせた。胃に全てが入り込むものだから、アリはペットボトルを空にした。死因は溺死だった。胃が破裂して、喉元まで全ての液体が詰まったまま口を開かず亡くなっていたのだ。

夏の帰省中だった。電車の座席に運良く座れたアリは、人々の肩が並ぶ汗と香水の空気の中、鼻が腐り落ちないかと、見えぬ将来を心に抱きながらその景色をぼうっと眺めていた。人々が次々と降りていき、その穴が埋まっては降りていく。その繰り返しの中とうとう座席にまばらに座るアリ達を車掌が見られる頃には、臭いは曖昧になって夏の雨の香りへと変わっていたのだった。車掌なんて現れなかったが。

全てが当たり前だった。アリにとっては先程までが異物で、不愉快そのもの。

窓から陽射しがのびる車内で、横線状になってしまった景色をただ瞳に映しながら、あぁ不愉快だとまた心の中で嘆いた。何が不愉快かは脳内で文字にも心で明確にもされる事は無かったが、また鼻に香水の香りがやってきたものだったから、それを不愉快と思う事にアリはしたのだった。

彼は眉間に皺を寄せ辺りを見回したが、香水の女は何処にも見当たらない。気付けばその香りはアリの周りをふわふわと囲い、身体に染みつかせながらまた夏の雨へ姿を変えている。纏わり、沈殿していったその香りはアリの鼻をひん曲げるのに丁度良かった。しかし、そのまま時が経ってもアリの不愉快は消えることがない。アリはそのまま液状の緑を見つめていた。

溶けていた。心の中でそう思った。線は糸を引いて巨大な塊になってどろどろに溶けきっていた。コマ送りの様に変わるものだから、アリは首を傾げ、揺れる車内でその何かに近付いた。ひんやりと冷たい。硝子に阻まれている。

「窓だ」アリは顔が赤くなった。硝子越しにアリを笑う誰かが映っていた。振り向けば、アリの席は埋まっていた。香水の女がその席に座り、既にアリのことなぞ見ていなかった。

「不愉快不愉快」アリは窓が開いた瞬間口ずさみながら駅に降りた。遠くで女が言った。「ドアだよ」アリは今度は夏の蝉の音の中に降り立ったものだから、聞こえないふりをした。蝉と君ならば蝉の方が雑音だったからだ。

アリはふと空を見た。胴体からちぎれ、手足を失ったものたちが糸を引き、散らばっている。「蜘蛛?雲?」アリは眉間に皺を寄せた。くも、くも、クモ。幼子のように口の中で転がしながら、さっさと駅を出た。

電柱がぽつぽつと立つアスファルトの道を、スニーカーでひたすら歩いていく。履き潰したせいで、踵部分が酷く変形して刺さる。歩く度に擦れてしまうのだが、抉られてしまったら痛くなくなるものだと疑わない。もっともそれは大間違いで更に寄り添われて激痛に襲われる結果に帰する。が、アリの脳味噌には不可能だ。アイスの様になったそれに属する機能はとうに溶け落ちたようだった。妙に頭が重かった。こんな話は飽き飽きだ。香水の匂いよりも不愉快だった。

首を傾げた。横断するのは蟻の軍勢だ。奴らは胡麻の様だ。アリは感心する。誰一人として踏み潰されはしない。でもきっと、摘んで白米の上に散らせばいとも容易く誰かに食べられてしまう。なんてひ弱なのかと。なんて悪意無き世界で生きてるのだろうと。不愉快なんて似合わない世界なのだろうと。

アパートの目の前にやってきた。トタンが古めかしい錆びた建物だ。おかえり。自分は笑った。

アリの部屋はその一階だ。ドアの前に置かれたビニール袋を持って、部屋に入る。

不愉快だ。アリは眉を顰めた。ビニール袋から声がした。
「この前貰ったやつだよ」その声は言う「ほら、試供品の。」

不愉快だったからアリは開いた口をそのままに、バンと思い切りビニール袋を床に置いた。非常に重かったその袋からは、母体を裂くようにして中身がどさどさと溢れ出す。何本ものペットボトル飲料だった。そしてそれ以来その声は居なくなった。小さい斑点が畳にシミになっていたくらいだ。

アリは、ペットボトルを手に取った。

ドアを開けた覚えも、畳の上に座った記憶もいつしか溶けてしまった。夏のせいだ。大層不愉快だった。蝉の声が、響いていた。

© 2026 八雲鬱邦 ( 2026年8月16日公開

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