焔と怪物

月に鳴く(第2話)

松尾模糊

小説

4,248文字

二〇一九年四月一五日、ノートルダム大聖堂は大規模な火災に見舞われた。同じころ、日本では政府による氷河期世代支援策を行うことが発表され、彼らはその世代を新たに「人生再設計第一世代」と名付けていた。政権の経済政策で貧富の格差は広がり暴動が起こり始めたフランスとは対照的に、日本ではただただ閉塞感だけが社会を覆っていた。

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたもう

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん

 

「いつくしみ深き」讃美歌 三一二番

 

天高く聳える尖塔が紅い焔に包まれて焼け落ちていく。初期ゴシック建築の大きな神の御宿の屋根は焔の海の中に沈んだ。白い噴煙を上げるノートルダム大聖堂を見守るパリ市民が肩を組みながら讃美歌を口ずさんでいる映像が流れた後に、バブル崩壊後のいわゆる就職氷河期世代を「人生再設計第一世代」と名付け、二〇一九年夏から約三年間、集中的な支援を行うためのプログラム案を作成すると政府が発表したというニュースをA首相の写真とともに女性キャスターが読み上げていた。
「人生再設計第一世代……」Kはノートルダムの屋上を焼き尽くした紅い焔のように、頭の中にメラメラと湧き上がる怒りを消火できずに手元にあった白い陶器のコーヒーカップをフローリングの床に叩きつけた。パリンというよりはグシャッという鈍い音を立ててカップは大きく二つに割れて、その破片を飛び散らせた。「国会を焼かねばならぬ……」漠然と、いや、確信を込めてKは心の中でそう呟いた。Kは割れたカップをビニール袋に入れて、ガムテープで床に散らばった欠片を集めて掃除機をかけた。チクッと足の裏を刺激した陶器の破片を赤い血の滲む白い靴下の裏から摘まんで取り除き、Kの怒りは後悔と自己憐憫へと変化した。テレビではコカイン使用の罪で逮捕されたテクノグループのPへのコメントを求められるメンバーTが「おちんちん!」と叫んでおり、Kは全てがどうでもよくなった。クリーニングに出しておいた春夏スーツに着替えて、親指に絆創膏を貼り靴下を履き替える。くたびれた合皮ブーツを履いてアパートの外に出ると春の陽気がKを迎え、彼は少し機嫌が良くなった。しかし、それもつかの間、最寄り駅の改札を抜けて階段を降りた先のホームに反対側の車両側の列まで溢れる人々の列が目に入った瞬間にKは陰惨な気分へと押し戻された。スマホの画面を何気なしに見ている彼らの虚ろな目の先にはKが今朝観たニュースがPVの多さでランク付けされて羅列したテレビの内容をなぞるウェブ記事があるのだろう。「……おちんちん」Kは心の中でそう呟いた。

 

2019年4月20日公開

作品集『月に鳴く』第2話 (全16話)

月に鳴く

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© 2019 松尾模糊

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