焔と怪物

松尾模糊

小説

4,260文字

ノートルダム大聖堂の火災と人生再設計第一世代の報道に色んなことを思いながら書きました。パリは昨年十月に訪れたのですが、まだ黄色いベスト運動の直前でした。パリよりも少し離れたカルカッソンヌがメインでしたのでノートルダムを訪れる余裕がなく、今となっては行けばよかったなと、後悔先に立たずです。写真はオルセー美術館からセーヌ川を撮影したものです。

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を

 

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたもう

 

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん

 

「いつくしみ深き」讃美歌 三一二番

 

天高く聳える尖塔が紅い焔に包まれて焼け落ちていく。初期ゴシック建築の大きな神の御宿の屋根は焔の海の中に沈んだ。白い噴煙を上げるノートルダム大聖堂を見守るパリ市民が肩を組みながら讃美歌を口ずさんでいる映像が流れた後に、バブル崩壊後のいわゆる就職氷河期世代を「人生再設計第一世代」と名付け、二〇一九年夏から約三年間、集中的な支援を行うためのプログラム案を作成すると政府が発表したというニュースをA首相の写真とともに女性キャスターが読み上げていた。
「人生再設計第一世代……」Kはノートルダムの屋上を焼き尽くした紅い焔のように、頭の中にメラメラと湧き上がる怒りを消火できずに手元にあった白い陶器のコーヒーカップをフローリングの床に叩きつけた。パリンというよりはグシャッという鈍い音を立ててカップは大きく二つに割れて、その破片を飛び散らせた。「国会を焼かねばならぬ……」漠然と、いや、確信を込めてKは心の中でそう呟いた。Kは割れたカップをビニール袋に入れて、ガムテープで床に散らばった欠片を集めて掃除機をかけた。チクッと足の裏を刺激した陶器の破片を赤い血の滲む白い靴下の裏から摘まんで取り除き、Kの怒りは後悔と自己憐憫へと変化した。テレビではコカイン使用の罪で逮捕されたテクノグループのPへのコメントを求められるメンバーTが「おちんちん!」と叫んでおり、Kは全てがどうでもよくなった。クリーニングに出しておいた春夏スーツに着替えて、親指に絆創膏を貼り靴下を履き替える。くたびれた合皮ブーツを履いてアパートの外に出ると春の陽気がKを迎え、彼は少し機嫌が良くなった。しかし、それもつかの間、最寄り駅の改札を抜けて階段を降りた先のホームに反対側の車両側の列まで溢れる人々の列が目に入った瞬間にKは陰惨な気分へと押し戻された。スマホの画面を何気なしに見ている彼らの虚ろな目の先にはKが今朝観たニュースがPVの多さでランク付けされて羅列したテレビの内容をなぞるウェブ記事があるのだろう。「……おちんちん」Kは心の中でそう呟いた。

 

 

「あれって、おちんちんみたいじゃないか?」ピエールは燃え墜ちる巨大な尖塔を指差しながら、フローラの小さな耳元で卑猥に囁いた。「え? なに言ってんのよ? ウフフ……」フローラは長いブラウンの前髪をかき上げた。ほのかなリンスの香りにピエールは興奮し、燃え上がる尖塔を彼女の赤く分厚い唇の間に押し込んだ。フローラの粘っこい唾液は燃え上がる焔を鎮火させるどころか、火に油を注ぐようにその血潮をたぎらせていく。「……アウあ……」とピエールはノートルダムの中で焔に包まれる金色のイエスとともに昇天し、彼の尖塔の先から白濁した液体をフローラの口の中に散りばめた。「鎮火完了」窓の外で燃え墜ちる尖塔にピエールは自身の縮こまった尖塔を重ねて、舌なめずりするフローラの頭を撫でた。「今度は私を燃え上がらせて」フローラの哀願するような意地悪な瞳は、ノートルダムからパリの街を見下ろすガーゴイルのように怪しく魅惑的に光っていた。

乱れたシーツカバーの上でフローラの豊かな乳房を弄びながら、テレビを観ているとM大統領は「五年以内に建て直す」と宣言していた。「ケッ! 詐欺師が」と毒づくピエールの手を乳房の上から優しく抑え、フローラは「あら? 黄色いベストをあなたが着てるとこ見たことないわよ」と皮肉った。

 

 

ぎゅうぎゅうに押し込められた電車内で目を閉じていたKは「黄色いベスト運動……」と心の中で呟いたつもりが、自分でも聞こえるくらいにはっきりと独り言を発していた。怪訝な表情でKの前のワンレンボブのリクルートスーツを着た若い女性が振り返った。Kは咳払いで誤魔化そうとしたが、かえって注目されることになり黙って俯いた。次の駅のホームに着き、たくさんの人間が電車から吐き出され、またそれと同じくらいの人間が乗り込んで来た。同じことが二回繰り返され、Kはオフィスの最寄駅に辿り着いた。この時点で完全に春の陽気がKにもたらしたエネルギーは消費つくされた。Kはうなだれながらオフィスの入った雑居ビルのエレベーターに乗った。「おはようございます!」昨年Kの働く会社に転職してきた、ゆとり世代のNが頭に響くような大声で挨拶してきた。「おはよう……今日も朝から元気だね」「Kさんも相変わらず朝から元気ないっすね(笑)」Nは正社員で、立場上Kの上司にあたるが、契約社員として四年目を迎えるKにはずっと後輩のような態度で接している。大学時代に世界をバックパッカーとして旅し、帰国してからPR会社で営業として働いていたNは持ち前のコミュ力と、どこか憎めない晩年後輩キャラで実にマイペースに人生を謳歌しているように見えた。「そりゃそうだよ。俺ら人生再設計第一世代だよ」「ああ、それ、ニュースでやってましたね。僕らはゆとり世代から何世代になるんですかね?」「そうか……人生謳歌第一世代でいいんじゃないかな」「……え? そんなに謳歌してるように見えます? 僕らだって勝手に文科省に週休二日にされたと思ったら、甘やかされてるから何やってもダメな世代と勝手にレッテル貼られてるんすよ」「……まあ、人それぞれだよな」エレベーターの扉が開き、開ボタンを押したままNが「どうぞ」とKを先に出した。

 

 

M大統領がノートルダムの修復のために募った寄付は、フランス国内の富豪から多く出資され、翌日に早くも日本円にして九〇〇億円を超えた。高所得者への減税などM大統領の経済政策への不満に端を発した黄色いベスト運動は、この動きに更なる反動を強めた。黄色いベストを着た集団は凱旋門から行進し、セーヌ川を臨むコンコルド広場の前で暴徒化しパリの街に再び焔が上がった。フローラに冷やかされたピエールも黒い目指し帽を被り一行に参加していた。「金あるやつらから税金は獲れよ!」「M大統領は金持ちの奴隷!」政府や富裕層を罵倒する言葉が溢れ、路肩の高級車がひっくり返される。治安部隊からゴム弾が撃ち込まれ、血を流して倒れる同志を見てピエールは最前線から走って後退した。

「いや、治安部隊も俺の火炎瓶にビビッて逃げてたよ。大したことないね、最近の若い奴も」セーヌ川を臨むカフェでピエールは得意げにフローラに武勇伝を語って聞かせた。「……そう」気のないフローラの返事にピエールは顔をしかめた。「どうしたんだよ? 何かあったのか?」「別に……」フローラはテラス席から穏やかに流れるセーヌ川が反射する春の夕陽の煌めきをグッチのサングラスの奥から眺めていた。

 

 

沈む夕陽が多摩川の河面を橙色に染め上げる。帰りの電車からその様子を眺めるKはこの日の出来事を反復する。「お前ら社会のせいにしてるけど、ただ努力してないだけじゃねーか!」デスクでふんぞり返るT課長は資格試験に落ちたKを罵る。試験前日にKに自分の仕事を押し付けたT課長の顔面を頭の中で血だらけになる程殴り続けて怒りを収めた。
……力ガ欲シイカ?……

女性シンガーソングライターのJ-POPが流れていたAirPodsを付けたKの耳元でデジタル加工された様な声が囁かれて、Kは「へ?」と声を上げた。同期していたスマホの画面を見ると、紅い焔に人面が浮かぶRPGの敵キャラのような得体のしれない何かが口を動かす映像と共に「力ガ欲シイノカ?」と再びイヤホンからさっきより大きな音量の声が聞こえてきた。「我ハカグツチ……イザナギノカミニ切リ裂カレタコノ身ヲ再ビ蘇ラセル為ニ汝ガ怒リノ炎ヲ燃ヤス時、汝ノ願イヲ叶エテシンゼヨウ」「カ……グツチ? カグツチってイザナミノカミを出産時に殺したっていう古事記の?」「左様。燃ヤセ、汝ノ憎悪ヲ炎デ浄化セヨ」「……何だろう? ハッキングかな?」Kはスマホの電源を切って再起動させようとしたが、うんともすんともいわなかった。「燃ヤセ、汝ノ憎悪ノ炎ヲ……」紅い焔のアイコンはそのまま消えて、再びJ-POPが流れ始めた。四十代はこんな幻覚も見るようになるのか、疲れすぎだなとKは自分に言いきかせて多摩川の河川敷で野球に興じる少年たちを眩しく眺めた。

 

 

「ピエール、私、妊娠したの」フローラはグッチのサングラスを額の上に上げて、碧い瞳でピエールの茶色の瞳を真っ直ぐに見つめながらそう言った。ピエールは生唾をごくりと飲み込んだ。「……それは、素晴らしいじゃないか」ピエールは笑顔でフローラの下腹部を眺めた。この中に新たな命が宿っている。ピエールの目に赤黄色に広がる命の温もりが映った。「本気で言ってる?」フローラは下から覗き込むようにピエールの目を再び見た。「も、もちろんだよ。結婚しよう」ピエールはフローラの前に跪いて手の甲に優しく口づけた。「まず、ちゃんと就職して。話はそれからよ」跪くピエールを見下ろしながらガーゴイルが彼の喉元に鋭い爪を立てていた。

 

 

Kは深夜になってもカグツチに言われた言葉とその燃える姿が頭から離れなかった。気づくと国会議事堂の前に居た。深夜のはずなのに太陽は高く昇り、その建物を荘厳に照らしていた。横断歩道の前で日の丸国旗を背負い、拡声器を持った老人が「自民党はこの国を再び戦火に沈めようとしている売国奴……」ともぎょもぎょと話している。Kの手には火炎瓶が握られていた。Kは蓋の部分に詰められた灯油で湿った布に火を付ける。ジジジと音を立てながら布を焼いているその瓶を老人に向かって投げた。バリンと音が響き瓶が割れ「あッアッチちちちちちいイイイぃ」と老人は勢いよく燃え上がった日の丸国旗を捨てさったが、Tシャツにも引火しており、生きたままその身体に炎を宿してカグツチのような姿で幻想的にKの目に映った。やがて国会議事堂の前に灰の山ができ、それはとてもアーティスティックな光景となってKの心に焼き付いた。

2019年4月20日公開

© 2019 松尾模糊

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