天秤

応募作品

Blur Matsuo

小説

3,842文字

5月合評会「善悪と金」応募作。映画『フォックスキャッチャー』とロシアドーピング問題を下地に書きました。

――あくまでも「量り」は自分の中にある。量りを使いながら、自分の限界をちょっと超えていく。そうするといつの日にかこんな自分になっているんだ。少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけない――2019年3月21日イチロー(鈴木一朗)引退会見より

 

アレクサンドル・カリメロはその名前を呼ばれると、ウラジミール・ソウロウチンコーチから手渡された白と青と赤、三色の横縞模様で表された祖国の旗の両端を持って頭上高く掲げ、東洋の島国の首都に設けられた会場内に響く歓声に応えながら、ジャージの上からもわかる分厚い大胸筋に覆われた胸を張って三段になった表彰台の頂点に立った。“TOKYO 2020”という記号と五つの輪が重なるシンボルが彫り込まれた金色に輝くメダルを繋ぐ蒼いリボンを頭の禿げあがった日本の老人が、五厘に剃り上げた頭を垂れたカリメロの僧帽筋と肩甲拳筋けんこうきょきんの発達した太い首に掛けた。金メダルの端を右手の人差し指と親指で挟んで顎の辺りに掲げると何十ものカメラのフラッシュが焚かれ、カリメロは少し顔をしかめてしまったが、カメラマンからの「笑って!」という掛け声に再び目尻に皺を寄せた。

祖国では熱烈な歓迎がカリメロを待っていた。空港のロビーに出ると、これまで聞いたことのない黄色い歓声がカリメロの鼓膜を震わせた。ボストンバッグを右手で持ち上げ、左手を――警備員に抑えられた向こうに溢れる若い女性やその子供たち、少し後ろでスマホを掲げて動画を撮影している背の高い若い男などの野次馬ら、祖国が誇る東京五輪レスリング男子グレコローマン97㎏級金メダリストを一目見ようと集った群衆に向かって――控えめに振った。カリメロより一つ上の階級で見かける本物の熊のような警備員の男たちに誘導されつつ、サインをねだる毬栗いがぐり頭の少年や、クマのぬいぐるみを持った少女にサインを書いたり、美しい金髪をなびかせるモデルのようなルックスのティーネイジャーとのツーショット写真に応じたりして空港からリムジンに乗り込み、大統領の待つ赤の広場に面するクレムリン宮殿へと向かった。アルハンゲリスキー大聖堂の金色に輝くクーポルが象徴的なその場所で、カリメロはジャージ姿にもかかわらず入念な身体検査を受けて大統領に謁見した。大統領は冷たく光る碧い瞳をカリメロに向けて口元に柔和な笑みを浮かべていた。カリメロのごつごつとした皮膚の分厚い手もその冷たさを感じる右手を彼は両手で握って笑顔を向けた。大統領はカリメロが手渡した金メダルをまじまじと眺めてから「おめでとう。よくやった。これからの活躍にも期待する」とロイター通信の記事そのままの台詞でカリメロの快挙を称えた。カリメロが執務室を出る時、大統領はソウロウチンコーチを呼び止めた。「例の件、任せたぞ」大統領の言葉にソウロウチンコーチは一瞬固まったが、何かを噛み締めるような表情で深く頷いた。

黄色いサークルとそれを取り囲む赤い沿線が、それぞれ三つペイントされたマットレスを敷き詰めた練習場でカリメロが一人黙々とサークル周りをぐるぐると回りながらイメージトレーニングをおこなっているところに、白いTシャツの上から競技用のスパッツを身に付けたソウロウチンコーチがやって来た。「久しぶりに組もう」というコーチの言葉にカリメロは頷いてサークル内に移動した。ウォーミングアップで、お互いの上半身を引っ張り合いながら徐々に組み手へと移行する。ソウロウチンコーチは禿げ上がった前頭をカリメロの右胸あたりに押し付け、握り合った右手を離し、カリメロの左脇の下に手を回してバックを取ろうと試みるが、それをカリメロが嫌い身体を引いて下がる。カリメロは勢いよく押し返して二人の手が離れた瞬間に右手からソウロウチンコーチの後ろへと回り込み、がっしりとアームロックをかける。それを逃れようとソウロウチンコーチはマット上に上半身を押し付けるように倒れた。カリメロの膨れ上がった上腕二頭筋と血管の浮き出た腕橈骨筋わんとうこつきんで膨れ上がった腕がギシギシとソウロウチンコーチの胴体を締め上げる。「いい動きだ……」右頬をマットに潰され歪んだ表情でソウロウチンコーチが背後のカリメロを褒めた。

練習を終え、カリメロがシャワーで汗を流してから更衣室に戻るとソウロウチンコーチがロッカーの前の青いベンチにうなだれる様に腰掛けていた。カリメロが出てきたことに気づくと、顔を上げて少し引きつったような笑顔を浮かべた。カリメロは嫌な予感を覚えながらも「お疲れ様です」と平静を装う為にソウロウチンコーチに声を掛けた。「ああ。お疲れ……」と気のない返事をしてから、ソウロウチンコーチはベンチの上に置いていた蓋つきの透明なプラスティック製の一リットル容器に半分ほど入った白濁した液体を持ち上げてカリメロに飲むように促した。「特別に配合したプロテインドリンクだ」というソウロウチンコーチの言葉と彼の嘆願するような眼差しに贖えず、カリメロは渡された容器を45度に傾けて一気に飲み干した。喉仏を震わせてゴクリと飲み干された後の空っぽの容器を受け取り、ソウロウチンコーチは満足そうに頷きながらカリメロの肩をポンポンと叩き更衣室を後にした。

 

――世界反ドーピング機関(WADA)は、ロシア反ドーピング機関(RUSADA)の検体データから2020年東京オリンピック、レスリング男子グレコローマン97㎏級、金メダリストのアレクサンドル・カリメロ選手にドーピングの疑いがあるとして同選手の2024年パリ大会への出場資格を停止し、再検査によっては金メダルの剥奪もあり得ると会見しまし……――プツンという音と共に液晶画面に映っていた、艶やかな黒髪をオールバックで纏めて後ろで束ね、赤いベロアのジャケットを着た女性キャスターの上半身が真っ黒なブラックホールに吸い込まれるように立ち消えた。大統領は机上の電話機を取った。「私だ。出どころは突き止めたのか?」「……そうか、残念だな。彼は正義感が強すぎたようだ。然るべき処置を頼む。それから……」

ソウロウチンは、国家絡みのドーピングがおこなわれていることを告白したフランスの民放とコネのあるフリー記者に「今後のドキュメンタリー番組の打ち合わせがある」と呼び出されて、サン・ジェルマン大通りに面するカフェ・ド・フロールに向かった。約束の時間の五分前に到着し、白いシェードの下のテラス席に腰掛けてまだ姿を見せていない記者を待つことにした。緑にペイントされた木製チェアに座った途端、隣の席でロシア語のドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた黒い山高帽を被った男が本を閉じて、ソウロウチンに「いい天気ですね」と話しかけてきた。「え? あ、そうですね……」灰色の雲が立ち込める空を見上げてソウロウチンは怪訝な表情で男を見た。男はいつの間にか、ソウロウチンのテーブルの椅子に腰かけていた。「大統領から伝言です。善き人とは悪が何かを知らない人のこと、だそうです」ソウロウチンはチクッとした痛みを右の太腿に感じ、視線を落とした。男の黒い皮手袋をはめた左手に握られた小さな注射器が突き刺さり、ピストンがゆっくりと中に入った液体をソウロウチンの大腿動脈へと流し込んでいた。ソウロウチンの網膜が捕らえた映像は徐々に狭まり永遠の闇が彼の視界を覆った。

 

控え室の椅子に座り、祖国の名が刺繍されたタオルを頭から被ったまま、カリメロは意識を集中させていた。「カリ! 出番だ。これを飲め」ウラジミール・ナマチン新コーチが静かに瞼を開いたカリメロの眼前に二粒のカプセル錠剤を手のひらの上に乗せて差し出した。「祖国に金メダルを持ち帰るぞ」ナマチンコーチの言葉にカリメロは、四年前に手にした、あの丸いメダルの金色の輝きを思い返した。「正しいドーピング……」とぼそりと呟きナマチンコーチの手のひらの上から錠剤を掴み取り、ポイっと口の中に放り投げて手渡されたコップに入った水で一気に飲み干した。

ナマチンコーチに僧帽筋で覆われた両肩を揉まれながら仄暗い通路を抜け、カリメロは四面を埋め尽くした観客たちの大きな歓声に迎えられた。VIP席からその様子を見下ろした大統領は、後ろで待機する山高帽の男のほうを振り向き「あの男の中の天秤は正しく機能しているようだな」と片目をつぶってみせた。男は「ワルワーラ夫人は――自分を犠牲にする以上の幸せはない――とダーシャに言っていましたね」と対戦相手と黄色いサークル内で両手を組むカリメロを眺める。「『悪霊』か……。これからはフランスとも仲良くしていかなきゃいけないんだ。ロシア文学もいいが、ロマン主義を読め。そうだな、デュマなんかいいぞ。『黒いチューリップ』は傑作だ」大統領は相手を床にバックドロップで相手を投げて、そのまま寝技を決めたカリメロに気のない拍手を送り「人間は正義を貫けるほど強くはないよ、君も私もね」と席を立った。山高帽の男は「もう私の出番がないことを祈ります」と、黄色いサークルの中央で両手を上げて声援に応える世界一の男を見下ろした。

 

<了>

 

参照文献

「イチロー節全開84分深夜の引退会見/全文一気読み」日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201903220000431.html

『悪霊』F.ドストエフスキー、江川卓訳、新潮文庫

2019年5月12日公開

© 2019 Blur Matsuo

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