猫ちょうちん

応募作品

松尾模糊

小説

4,094文字

7月度合評会、お題「猫」応募作。宮沢賢治の『注文の多い料理店』がやっぱり僕の原体験として残っているんだろうなと思います。そんな小品となりました。猫飼いたい願望が沸々と湧いております。

黒猫と言うと、一般的に不吉なイメージがある。これは主に欧米の迷信を発端にしたものだろう。エドガー・アラン・ポーの『黒猫』では主人公が縄で絞殺した黒猫の幻影に惑わされ続け、自身が破滅するさまがおどろおどろしく描かれている。日本では黒猫が自分の前を横切ると不幸が起こるという迷信が良く知られているが、こういうイメージが定着したのも近代以降のことで、それ以前はむしろ幸福をもたらすものとして重宝されていたそうだ。「夜でも目が見える」ということで、黒猫は魔除け、商売繁盛、幸運を招く「福猫」として大変有難がられたという。わたしがその「黒猫」に関して、不思議な体験をしたのはちょうど梅雨が明けたばかりの暑い夜のことだった。

わたしは、とあるウェブ情報媒体への企画書を通し、その打ち合わせで渋谷区にある媒体の事務所へと赴いた帰り道、その手応えにこれまでにない高揚感を覚えており、一杯引っかけようと真っ直ぐに帰らずに一駅手前の繁華街で地下鉄を降りた。木曜日ではあったが、月末の皆が浮かれた雰囲気で二〇一〇年代とは思えないようなネオンの安っぽい光に彩られたノスタルジー溢れる光景の中、わたしはスキップをするように軽やかな足取りで飲食店の建ち並ぶ通りを歩いた。そのガヤガヤとした喧騒から少し離れた路地裏にふと目をやるとほのかな明かりを灯した赤ちょうちんが見えた。わたしは赤ちょうちんの柔らかな光につられるように路地裏へと入り、瓦屋根の塀に囲まれた趣きのある居酒屋らしき建物の前に立った。赤ちょうちんには招き猫を模した絵柄が中の火に照らされ、黒い身体に後光が差しているように神々しく見えた。瓦屋根の数寄屋門についた格子の引戸を開けて中に入ると御影石の敷石が馬踏み状に並べられた石畳が三畳間ほど先の家屋の玄関に続いており、その間には白玉砂利が敷き詰められていた。玄関の引戸の上に「くろねこ」と平仮名の墨字で書かれた白い暖簾のれんが下がっていた。格子の合間から漏れ出る明かりと中から微かに聞こえる物音がわたしを否応なくその奥へと惹きつけ、気づくと暖簾を右手で払いながら引戸を開けて右足を踏み出していた。
「いらっしゃいにゃせ」
にゃせ? わたしはそういうコンセプトかと合点して顔を上げて「一匹にゃんだけど……」と照れ笑いを浮かべながら、茶色と黒と白の三毛猫柄の前掛けをした艶やかな黒髪のおかっぱ頭の店員らしき小柄な女性に伝えた。
「は?」
「え? あ、あ、あの一人です」わたしは中学生と言っても分からないほどの彼女の童顔に浮かべられた怪訝な表情を見て、食い気味に右手の人差し指をピンと伸ばして彼女と視線が合わないようにしながら「予約してないんですけど大丈夫ですか?」と続けざまに質問し気まずさを解消しようと試みた。すると、女性はイタズラな笑顔を浮かべて「一匹様、ご案にゃーい!」と振り返りながら叫んだ。「いらっしゃいにゃせー!!」奥から威勢のいい声が聞こえ、わたしは店内を見回した。黒い作務衣に白い前掛けをしたモデルのような長身で細身の茶色のロングヘアーをポニーテールで纏めた女性と、同じく黒い作務衣に寅柄の前掛けをした柔道家のような逞しい体躯の丸坊主の若い男性がそれぞれ木製のおぼんに中瓶や小鉢を載せながらほぼ満席の店の中を忙しそうに駆けずり回っていた。ぶ厚い天板のテーブルが六つ並び、木製のスツール椅子にスーツ姿のサラリーマンやOL、カジュアルな服装の年配客が座って談笑したり、右手を丸めて頬を猫のように掻くようにしてふざけ合ったりしていた。わたしは「猫だまし……」と心の中で呟きながらおかっぱ頭の女性の後に続き、テーブル席の奥に位置しているカウンター席に座った。目の前の厨房にいた法被型の調理白衣を着て和帽子を被った初老のこの店の料理人らしき人物が「いらっしゃいにゃせ」と低い声で言いながら、わたしの前にお手拭きを置いた。わたしがお手拭きで両手を拭いていると、おかっぱ頭の店員が白い小鉢に入った、切り干し大根のお浸しのお通しと定番メニューと本日のおすすめと書かれたお品書きをわたしの前に置き「お飲み物はいかがしますにゃ?」とタブレット端末を片手に聞いた。その辺は最新技術を導入しているんだ、とわたしは感心しながら「瓶ビールを」と彼女に頼んだ。
「うちはバケネコですけど、大丈夫ですかにゃ?」
化け猫? ああ、ビールの銘柄のことかな? そんな名前聞いたことないが、なんか地ビール的なやつだろう。こだわってるんだな、と一人納得し「大丈夫にゃん」と彼女に笑いかけた。彼女は半開きのまなこの死んだような表情で「ほかは?」とわたしの顔を見下ろした。この娘は本当に猫のような気まぐれな女性なのだろう。わたしは右手で頭を掻きながら「枝豆を」と頼んだ。すぐにこげ茶色の瓶に黒地のラベルに四つ足で長い尻尾をS字に立てて歩くようなシルエットと“BAKENEKO”というアルファベットが金色でプリントされたバケネコビールが、透明のガラスのコップと栓抜きと小皿に盛られた枝豆と共に運ばれて来た。
「焼き鳥のおまかせと、鰺のたたきを一つ下さい……にゃ」さらに、わたしはおかっぱ頭の店員の表情を窺いながら注文した。
「にゃん、喜んにゃー!」彼女は両手で拳をつくり、右手を高く上げ左手を顎の辺りに掲げ右足を上げてテンション高く応えた。なんという気まぐれ、わたしは突然の彼女の変貌ぶりに上半身を後ろに逸らして若干引いてしまった。しかし、そんなわたしの反応など全く意に介さず彼女は、小さな臀部をフリフリご機嫌な様子で厨房へと戻った。わたしはそのお尻、否、臀部の中央に何やら突起物のようなものが突き出ているように見えて目を瞬かせたが、すぐに錯覚だと思い直し猫の顔が牙をむいているような造形の栓抜きでバケネコビールの栓を開けてコップを傾けながらなみなみとビールを注いだ。金色の液体がシュワシュワとクリーミーな泡を伴いながら空のコップを満たした。わたしは少し泡が立ち過ぎてしまったそれを掲げながら、たまたま目の合った初老の料理人に照れ隠しのように笑いかけて乾杯の仕草を見せてからクイっと一気に飲み干した。
「う、美味い!」きめ細やかな泡で全くつっかえることなく喉の奥を流れるものの、しっかりとしたのどごしを残しながら、ほのかな甘みがクセになる……こんな美味いビールが存在するなんて。わたしは今度は泡が立ち過ぎないように慎重にビールを注ぎ、瓶を裏返しながらラベルを改めてよく見た。原材料は特に変わったものは……マタタビ!? 正気か? わたしはコップに鼻を近づけて匂いを嗅いだ。この甘い微香はマタタビのものなのだろうか? わたしはためらいがちにコップに口を付けた。やはり美味い。気づくとグビグビと喉を鳴らしていた。早くも思考をぼかすような酔いが回って来ているようだ。わたしは見事な藍色に鮮やかな赤と黄色で描かれた椿の花の絵が映える小皿に盛られた枝豆を手に取り、口元で鞘の中に入った実をプリと押し出して口の中に放り込んだ。
「焼き鳥おまかせ、お待せにゃ」料理人がカウンター越しに右手で黒い長皿の上に並べられた五本の串に刺さった、皮、つくね、豚バラ、ハツ、レバーをわたしの目の前に置いた。「ありがとうございますにゃ」とわたしが顔を上げると、彼の口元に赤い血痕のようなものが付着しているように見えて、わたしは「大丈夫ですか?」と口元を指差しながら彼に尋ねた。彼は「シャー!」と突然わたしを威嚇したので、わたしは「ヒイっ!」と目を閉じた。その瞬間、料理人は尋常じゃなく伸びた舌で口元の血を拭った。わたしが恐る恐る目を開くと彼は穏やかな微笑を浮かべ、唐草模様の浮き出た四角い中皿に盛られた鰺のたたきを焼き鳥の皿の隣に置いた。その口元には血糊は付いておらず、わたしはやはり錯覚か、いかん酔ってるなと思い直し「ありがとう……にゃんごろ」と彼に笑いかけた。料理人は細い目をさらに細めて頷いた。わたしは細長く串に巻き付くように刺さったつくねを手に取り、噛り付いた。そとに塗られた生卵の黄身のまろやかさと濃いめのタレの味付けが絶妙に合わさり口の中に芳醇な旨味が広がった。「うまにゃあ」わたしは自然に猫語的感嘆が口から出たことに驚いた。しかし、わたしがバケネコビールの中瓶を空にして鰺のたたきをつまみに猫吟醸の冷酒を真っ白な徳利の半分ほど飲んだ頃にはすっかり酔いが回り、何も気にせずウトウトさえしていた。猫吟醸を飲んだら帰ろうと思い、徳利を傾けてぐい呑みになみなみと注いだその酒をクイっと一息で飲んで、もう一杯注ごうと徳利に手を伸ばそうとすると、突然その徳利が二つ、いや三つ、八つにぐるぐると回るように霞んでわたしはカウンターに頭を突っ伏した。

 

「やっと効いたニャ」
「思ったより時間がかかったニャ」
「さあ、夜はこれからだニャ。しっかり各々仕事に掛かるニャ」
「ラニャー!」

 

「クサっ!」鼻を衝くすえた匂いでわたしは目を覚ました。目の前に鰺の頭の付いた骨や卵の殻や枝豆の殻、生肉の血のしみ込んだ発泡スチロールの容器やらが散乱していた。「な?」わたしは身体を起こそうと手を付くと、柔らかな手触りでビニール袋の山の中に手がめり込み、後方にでんぐり返しをするようなかたちで倒れた。そこは大量の黒いビニール袋が積み上げられたゴミ捨て場のような場所だった。
「ニャー」
ふと目を上げると、長い尻尾をS字に曲げた黒猫が、ネオンに代わり眩しく光る朝日の光が照らす通りを繁華街の方へと尻尾をふりふり悠然と歩いていた。

 

それ以来、何度か同じ場所を訪れたがあの居酒屋を見たことはない。どこからが夢だったのかも判然としないが、わたしの仕事は大成功を収め、その後、郊外に建てた一軒家に役場が処分しようとする猫を引き取り飼い続けている。黒猫はもちろん、白猫、三毛猫、トラ猫、ぶち猫、ペルシャ猫、シャム、ブリティッシュショートヘア、ロシアンブルー、エキゾチックショートヘア……彼らに毎朝話しかけることが日課になっている。

(了)

2019年7月12日公開

© 2019 松尾模糊

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"猫ちょうちん"へのコメント 10

  • 投稿者 | 2019-07-26 19:08

    猫をど真ん中ど直球で捉えた、まさしく猫オブ猫な猫小説。ビールとつまみの猫写が実に素晴らしい。すっかり喉が乾いてしまったにゃ。

  • 投稿者 | 2019-07-27 01:17

    いらっしゃいにゃせ、がありそうでなかったかわいさ。猫尽くしの作品で好感が持てました。こういうのを書くのは簡単なようで簡単でないと思います。

  • 投稿者 | 2019-07-27 14:02

    バケネコビール飲みたい。猫吟醸も旨そう。数寄屋門をくぐって玉砂利が敷いてあるところを見るとかなりの高級飲み屋ですが中は素敵な居酒屋だ。
    「夜はこれからにゃ」と言って猫たちが何をしたのかが謎なのだがまあいいか。
    辛い境遇の猫が助けられた場所を通ると、幸せな夢を見せてくれる猫童話として楽しみました。

  • 投稿者 | 2019-07-27 14:05

    昔先輩と一緒にメイド居酒屋なるものに行った時のことを思い出しました。先輩はメイド居酒屋とキャバクラの区別がついていないようで、私が必死に止めるもメイドさんに隣の席に座るようしつこく誘って店の奥から怖い人が出てきて怒られたにゃ。

  • 投稿者 | 2019-07-27 14:06

    なんだろ、とても懐かしい気持ちになりました。気まぐれな反応がかわいいし情景が匂い立って怪しいとわかっていても好奇心の方が勝っちゃって怪しさに酔っていく感じがとても共感できます。

  • 投稿者 | 2019-07-28 04:00

    かわいい躍動感を感じました!

  • 投稿者 | 2019-07-28 18:34

    猫たちは主人公に最後、一体なにをしでかしたのか、
    なぜ彼が仕事がうまくようになったのか、
    それがわからなかった。

  • 投稿者 | 2019-07-28 20:25

    岩手出身の私も猫といえば注文の多い、でした。まさにそれを踏襲、いや真逆な方面からアプローチをしているような感じがしました。
    彼の仕事がうまく行ったのは猫の恩返しかな?いろいろなところから影響を受けているのかなと思いました。

  • 編集者 | 2019-07-29 00:39

    猫が優しいようでふてぶてしくしかし憎めない、性質を良くついた作品だった。最後、主人公もバケてしまったのだろうか。それにしてもバケネコビール、確かに飲んでみたい。酒税が掛かってなさそうだし。

  • 投稿者 | 2019-07-29 19:36

    『注文の多い~』への言及がリードにあったため、どんな恐ろしいことが起こるかと思っていたら、大したことが起こらないのでちょっと肩透かしを食らった感じ。バケネコビールの描写がものすごく冴え渡っているため、そのぶん実はそれはおぞましい成分でできていたというようなオチが欲しかった。

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