おあいこ

松尾模糊

小説

3,804文字

春らしい作品を書こうとしたんですけど……

見るからに高級な光沢のあるスーツの上から、百均で買った黄色いプラスティック製のカバーに覆われたカッターナイフの刃を突き立てると自分が超えられないと思ってきた境界線を突き破る、そんな達成感に満ち溢れた煌々とした温もりを覚えて射精した。ユニクロで二枚一組九八〇円で購入したボクサーパンツの内側にヌルヌルとした感触が広がる。すぐに脱ぎ捨てて下半身を露出したい衝動に駆られながら、突き立てた刃を寝せて右側に向かってゆっくりと動かす。細やかに、実に丁寧に縫い込まれた生地の糸がブチブチと千切れていく音が脳内に響き、再び隆起するペニスの先端が無駄に死に絶えて白濁した死体と化した精子に触れる。「あっ、う……」とマスクの下から声が漏れたが、その声を掻き消すように「まもなく渋谷、渋谷に到着します」というアナウンスが電車内に響いたので、誰も不審な声には気付かなかったようだ。網棚から鞄やリュックを掴み取る人々の動作に合わせて、静かに黒いプラスティックのスライダーに親指を乗せて手前に引きながら刃を収める。「渋谷、渋谷でございます。田園都市線、JR線、地下鉄線、井の頭線はお乗り換えです」というアナウンスと共に自動ドアが一斉に両側に開く。左側に居たベージュのトレンチコートを羽織った黒髪ロングの二〇代前半に見える女性の後ろについて、流れるように動き出す乗客の波に飲み込まれながら電車を出た。まだ治まらないペニスを気にしながら、前傾姿勢でトイレへと急ぐ。黄色い視覚障害者用の点字ブロックを踏みながら気持ちを静める。萎えたペニスとは対照的に自然と背筋が伸びて胸を張るようなかたちで、足並みを揃えて同じ方向に進む集団の中をゆったりとしたテンポで逆進する。長いエレベーターを昇った左手にある構内のトイレの前には列が出来ている。ポケットの中のカッターナイフに触りながら目を静かに瞑ると、先程の感触が蘇って下半身に熱がこもるのが分かった。目を開けて、カッターナイフから手を離す。目の前に並んでいる男のスーツは量販店のリクルートスーツの様だ。足元に目をやると黒い合皮靴のゴム底がすり減っているのが見えた。右側に比べると、左側の方が余計にすり減っている……歩く姿勢の問題だろう。改めて全体像を見ると左手にスマホを持っているために、その男の背筋は曲がり、左肩が余計に下がっている。右ポケットに入れていたスマホが振動した。メールか何かだと思って無視しようとしたが、長い継続的な振動がそれが電話であることを知らせる。「チッ」と口から舌打ちが漏れたが、被さるマスクの内側を湿らせただけで周りは気づいていない。右ポケットからスマホを取り出して黒い合皮のカバーを開くと画面に「母」の文字が掲示されていた。スマホの画面をスワイプして、右耳に当てる。もしもし? 今日は夕飯食べるの? ちょっとお母さん、夜にお友達のところに呼ばれたから、もしいるなら作り置きしとくけど外で食べて来る? ……あら、そう。じゃあそうして、悪いわね。スマホを耳から離し、ホームボタンを押して電話を切った。アンモニアのすえた匂いが漂うトイレに三つ並んだTOTOの小便器の一つの前に立ち、ジーンズのジッパーを降ろして精液で湿ったボクサーパンツの中から萎んで外皮を被ったペニスをひっこ出す。皮をむいて、赤黒い亀頭を出し白い陶器の上にチロチロと小便を垂らした。便器の上に付いた銀色のセンサーが作動し黄色い液体を勢いよく押し流す。ペニスの先を指先でつまみ、ぴろぴろ振って残尿を便器に散りばめてからパンツの中に収めた。端に小さなひびが入っている鏡の前に立って、センサーで水が出る蛇口に手をかざす。一度では水が出ず、もう一度手の甲を上げ下げして吹き出した水で手を洗う。隣にある石鹸の吹出し口は水道と違い、一発で適量の石鹸を吐き出す。まるで同じ受付で出来る人間と出来損ないが並んでいるようだ。薄い緑色の液体せっけんを泡立てて白い泡で手の甲と掌を念入りに殺菌していく。もう一度蛇口に手をかざす。反応しない。右へ左へと素早く切るように移動する。反応しない。上下に移動する。ぶしゃーと音を立てて水が噴き出す。手を覆った泡が排水口へと落ちていく。少し顔を上げると目の下にくまができて、両頬のこけた天パの、よく言えば『野獣死すべし』の松田優作のような……いや、どう見ても職質は待逃れそうにない死神のような男が立っている。水を両手のひら一杯に溜めてばしゃばしゃと顔にかけた。顔から水を滴らす男は混みいった構内をすいすいと歩く。誰もが薄気味悪い男は避けるものだ。しかし、警察は別だ。怪しい人間を容赦なくピックアップして市民の安全を守るのが職務なのだから。きみ、ちょっといいかな? 身分を証明できるものは持ってる? 免許証とか保険証とか。見せてもらってもいいかな? ポケットに手を入れてカッターナイフの刃を静かに出す。こんなに細い刃で人間のどの部位まで到達できるのだろうか。皮膚の下には血管がある。うまく動脈を裂けばあるいは致命傷を負わせることができるかもしれない……。持ってないの、身分証? 住所は分かる? 家族はいるよね? ポケット内のカッターを弄びながら警官の制服の下の肉体に想いを巡らせている間に、もう一人の警官が無線で連絡を取り始めた。刃を収めて、ズボンの後ろポケットから皮財布を取り出してカード入れからマイナンバーカードを警官の眼前に差し出した。持ってるじゃない。さっさと出しなよ。日本語分かってる? 警帽の下から蔑むような目がマイナンバーカードと顔を行き来する。顔分かんないじゃん、マスク取って。右耳からマスクのひもを取り、無精ひげの生えた口周りを晒した。吉田信二、二八歳? こんな時間から何してんの? 仕事は? ……え? 聞こえない。はっきり喋りなよ。……プーって、無職ってことね。やっぱりね。住所は世田谷区……いい所住んでんじゃない。実家暮らし? 二八にもなって親から何か言われないの? ポケットの中でカッターナイフを弄んでると手が滑ってカランと外に飛び出した。おいおいおい。君ヤバい奴なんじゃないの? 銃刀法違反で逮捕しちゃうよ。ちょっと、これは預かって、君の家に電話するから、ちょっとそこの交番に来てもらっていいかな? 警官の手にあったマイナンバーカードをばっと取り返してその脇を走り抜ける。な! ちょっ! 待ちなさい! もう一人が背後から追ってくる。下顎の内側がネバネバとしていて息が詰まる。絡まった淡をペッと吐き出すと、黄色い点字ブロックの上にべとりと着地して少し罪悪感を覚えたが立ち止まる余裕はない。こんなに全速力で走るのは何年ぶりだろうか……そうだ。中学生の時、一馬が死んだと聞いてあの高架下の通学路を逃げるように走って帰った時以来だ。

――一馬、ちょっとスキップしてみろよ。うわっ! 何それ? キモいんだけど! 誰が止めていいって言った? 続けろよ! おい! うわっ、泣いてるよ……オカマ野郎! 俺が悪者になるだろうが! 長い前髪で隠れた一馬の目元はよく見えなかったが、頬に流れた雫が光っていた。――今日は中村くんのことについてみんなで話し合いたいと思います。「はい! 先生、中村君をいじめているのは吉田君です」は? お前らも一緒になって変なスキップしてる一馬のこと笑ってたじゃねーか? 「吉田、後で職員室に来い」担任の竹田は放課後、俺だけを呼び出した。先生、俺だけじゃないです。クラスの男子みんな一馬を馬鹿にして笑ってます。「……知ってるよ」竹田は平然と黒い革のカバーで挟まれた日誌をパラパラと捲りながら興味なさげに答えた。……え?「まあ、お前らもあと一年で卒業なんだから大人しくしといてくれよ」――今日は悲しいお知らせがあります。中村君が亡くなりました。竹田が事務的に発した言葉で、頭が真っ白になった。――環状線の渋滞で動かない車を横目にスーツ姿の会社帰りのおじさんや自転車の前後ろに小さな子供を乗せて夕ご飯を作る為に家路を急ぐおばさんたちで溢れる歩道を縫うように走った。黄色い点字ブロックにつまづいて派手に転んだ。鞄に入った筆箱と大学ノートが飛び出した。急いで拾い上げて、じんじん痛む膝を気にしながらまた走った。数日後、一馬の父親がうちにやって来た。一馬が何で死ななきゃならなかったのか、教えて欲しいんです、竹田先生は吉田君が首謀者だと言っていました。学校としても何度も注意したと。俺は二階の部屋まで響く玄関先での母親とのやり取りに聞き耳を立てていた。「うちの子はそんなことしませんよ! 証拠があるんですか?」証拠も何も、じゃあ、一馬が死んだ次の日から登校拒否になってるのは何でなんですか?――

改札を飛び越えて、階段を駆け上がる。駅のホームには制服を着た女子高生や、リュックを背負った俺と変わらないくらい怪しい男や、仲睦まじげな老夫婦や家族連れの観光客や数えきれないほどの眩しい人生があった。「電車が着ます。黄色い線の内側でお待ちください」アナウンスに導かれるように黄色い点字ブロックを飛び越えた。鈍く銀色に光る二本のレールに挟まれる朽ちた枕木が眼前に見えた。ドンっという衝撃が右肩から全身に広がり生暖かい感覚が全てを忘れさせた。一馬、ごめん、ごめんなさい。ずっと、そう言いたかった。――もういいよ。信二もつらかったんだろ。これでおあいこだね。

2019年4月17日公開

© 2019 松尾模糊

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