祈りの一矢

松尾模糊

小説

5,604文字

平家物語絵巻、巻第十一上「那須与一」江戸前期 縦35.3cm 全長3300cm
那須与一が射たと言われる「扇の的」と現代の女子高生弓道部の青春をリンクさせた物語です。阿波しらさぎ文学賞落選作を改稿し、改題しました。

阿波、讃岐に、平家をそむき、源氏を待ちける者ども、かしこの洞、ここの谷より馳せ来って加はる。源氏の勢ほどもなく三百余騎にぞなりにける。「今日は日暮れぬ。勝負は決せじ、明日のいくさ」とさだめて、源氏引きしりぞかんとするところに、沖の方より尋常にかざりたる小舟一艘、なぎさに寄す。
「いかに」と見るところに、赤き袴に柳の五衣着たる女の、まこと優なりけるが、船中より出でてみな紅の扇の日出したるを、船ばたにはさみ立て、陸へ向かひてぞ招きける。――平家物語(百二十句本)「扇の的」より

 

父である和夫の運転するファミリーワゴンの助手席から外を見た。車窓を激しい雨が打ちつけてまるですり硝子を通したような灰色の空と黒いコンクリートがぼんやりと映るだけだった。

「義経がこの道を通った時もこんな嵐だったんだろうな」和夫が雨音に負けまいと大きな声で話した。賜子たまこはめんどくさと思いながら「義経? 鎌倉の?」と返した。源義経が屋島の戦いで阿波勝浦から讃岐の屋島に攻め上がったと言われる道は「義経街道」と呼ばれる。なかでも、賜子たちは高校総体の県予選に出場するためにちょうど国道二一七号線、数多くの史跡が残る通称“義経ドリームロード”を那賀川町から会場である鳴門の総合運動公園に向かう途中で走っていた。

「義経と言ったら、源氏しかいないだろう。いい国(一一九二)つくろう鎌倉幕府って小学校で習ったろ」

「その説、もう古いから。今は一一八五年が有力」

「そうなのか。じゃあ、いい箱作ろうだな(笑)」

こうやって駄洒落で歴史が進められていくのが堪らなく苦痛で賜子は社会の授業が苦手だった。「そうだね」と素っ気なく答えて賜子は再び雨の打ちつける車窓の外を眺めた。旗山の頂上付近は厚い雲に覆われていた。

 

義経は摂津から百五十余騎を連れて雨風吹き荒れる海を渡り阿波の国に上陸した。嵐の中を生き延びて到着した兵を海岸沿いに集めつつ、義経は平家方の田口成良たぐち のしげよしの治める阿波の国を北上した。降り続ける雨でぬかるむ泥を撥ねて走る数十騎は、伏兵を警戒し弓に弦を張ったまま竹林に覆われた坂道を駆け登った。

「伊予様、どうやら敵はまだ気づいてはいないようです」

「うむ。よーし! 弦を巻け」義経の命を受けて、一行は弓に張った弦を外して麻の弓巻きに弓を納めた。弦と同じく張り詰めた緊張感を解かれた兵は、ぐったりと疲労感のへばり付いた表情を見せていた。

「白旗をここに!」義経は源氏の白い旗を集った全兵に掲げさせた。灰色の空の下はためく真っ白な源氏の旗印は、疲れ切った兵たちの士気を高める爽快さを持っていた。「オー!」という野太い男たちの咆哮が阿波の国に響き渡った。

 

「おい! 着いたぞ!」和夫の声に起こされて賜子は口元を拭った。窓の外に視線を向けると雨は上がっていた。後部座席を倒して置いていた弓袋に入った弓を和夫が取り出して賜子に手渡した。雲間から差す陽の光に照らされ、弓道場の裏にある第三駐車場から見るポカリスエットスタジアムはどこか神々しく荘厳に感じた。

「おはよー」駐車場から歩いて弓道場に向かう途中で同じ富岡東高校・弓道部の高岡絵美と会った。身長一七〇センチ、長く艶やかな黒髪を赤いヘアゴムでポニーテールにした袴姿の目鼻立ちが整った彼女は凛としていて、我が富岡東弓道部のエースであり主将であるその風格を十二分に備えていた。

「眠れた?」賜子は身長差の二〇センチ分、見上げて話した。

「ううん、全然。仕方ないから『あさひなぐ』観て、日向坂のライブDVDも観てたら朝になってた」

『あさひなぐ』は女子高校生の薙刀部の青春ドラマで主演を元・乃木坂46メンバーの西野七瀬が演じている。もともと乃木坂のファンだった絵美はこの映画にハマり、西野を推しメンにしていたが、彼女が卒業してからは日向坂46に鞍替えしていた。

「大丈夫? 眠くない?」自虐的に笑う絵美を見て、しっかり八時間寝たにも関わらず、車の中でも爆睡していた賜子は自分が恥ずかしくなった。

「うん、大丈夫。いつものことだから。こっちの方が頭がスッキリしてる、なぜか」弓道場をまっすぐに見た絵美の横顔は、練習の時とも少し違う活き活きとした輝きを帯びていた。これから始まる戦を楽しみにでもしている様な表情に賜子はこれが申し子というものだろう、とても敵わないと目を細めた。

 

勢いづく義経率いる源氏の軍勢はあっという間に阿波を駆け抜け、敗走する平家の軍を讃岐の沖に追いやった。日が傾き、瀬戸の波が茜色に染まり始め源氏も平家もこれ以降の戦は明日の朝に持ち越すと考えていた。張り詰めた緊張の糸が切れて、穏やかに凪ぐ波の上に浮かぶ平家の船団の中から一艘の小舟が源氏が陣を張る屋島の対岸に向かって漕ぎ出て来た。船上には赤い袴の上に柳色の五つ衣を重ねた美女が立ち、その前に紅い扇が一本の竿に支えられていた。源氏の兵は「よー、姉ちゃん! こっちでお酌してくれや」と囃し立てていたが、船の上に立つその美女、玉虫たまむしが薄ら笑いを浮かべて右手で手招きをして挑発したことで、彼らの色めき立つ声は怒号へと変わった。

ざわつく陣中で噂を聞き付けた義経は対岸へと出て、沖に浮かぶ扇を掲げる小舟を眺めながら「あれを射らねば源氏の名折れ」と独り言ち、怪力で知られる畠山重忠はたけやましげただを呼んだ。

「恐れながら、ここまでの戦にて受けた傷がまだ癒えておりませぬゆえ、ご期待に添える自信がありませぬ」重忠は大将の命を辞退した。続いて指名された那須十郎も辞退したものの、「与一なら射抜けると存じます」と、紅潮し怒り爆発寸前の大将の気を少しでも鎮めるために弟である与一を指名してそそくさとその場を去った。

「そういうことだ。頼んだぞ、那須家の命運がお前に懸かっている」兄の十郎は本当に人ごとのように与一の目も見ずに言い放った。

「頼んだって、拙者は十一男ですよ……」

「つまらぬことを言うでない! 長男だろうが十一男だろうが、いちど武家の男として生まれたからには常に武功を上げる為に命を投げ出す覚悟がなければならぬ!」

「じゃあ、兄者がやればいいじゃないですか」

「わしは弓より槍の方が得意じゃ。弓の腕は幼い頃からわしもお前も変わらんかったであろう」ああ言えばこう言う。口喧嘩で兄に勝てたことはない。与一は兄者がいちばん得意なのは弁じゃないか、と心で毒づいた。

「おお、そちが与一か。あの扇を射抜くのじゃ」傾く陽を受ける一艘の小舟が掲げる扇は雅としか言えない神々しさを与一に感じさせた。

「誠に恐れながら、拙者のような何の武功も上げたことのない半人前より、誰か適した武将さまがおられると存じます」

「たわけ! 嫌ならさっさとここから去れ、半人前がわしに口答えするとは何事か!」義経は与一に噛みつかんとするほどの勢いで唾を飛ばした。

「お許しを! 伊予様の勝利の為、那須家、十一男が与一、この命に代えましてもあの扇射てみせましょうぞ!」恐ろしい義経の形相に気圧され、与一は頭を地面にこすりつけて叫んだ。

 

賜子と絵美は弓道場に入り、顧問の矢島先生を中心に扇型に集まる富岡東高弓道部員の中に加わった。「おはようございます!」と男女部員たちに羨望の眼差しを向けられる絵美の影に隠れて「おはようございます」と賜子は小さく挨拶をして視線を床に向けた。

「おはようございます、先輩。雨止みましたね。残念です。信長が桶狭間の戦いにおいて今川の軍勢に奇襲を掛けれたのは、夕立の雨でぬかるむ崖を馬が通れるはずがないと今川側が高をくくり、さらに雨風の音で彼らの進軍の足音をカモフラージュできたからと言われています。私たちが予選を抜けれれば、徳島市立と準々決勝で当たってしまうのでそれまでにまた雨が降ってくれれば彼女たちに隙が生じると思うのですが」弓道部の後輩で普段は内気でシャイ、戦国マニア(斎藤道三推し)で袴を身に着けると途端におしゃべりになる加藤夏南かなが賜子に開口一番ものすごい情報量の会話を始めたので賜子はただ苦笑いで返し、夏南からトーナメント表の印刷された大会冊子を受け取ってトーナメント表を眺めた。徳島市立高等学校弓道部は昨年の優勝校であり、決勝トーナメントの常連だ。団体戦は互いのチーム三人が順に四本ずつ(計十二射)放ち、当たった矢の総数で競う。賜子は三番目に矢を放つなかを担った。絵美はもちろん最後の放ち手を務める落ちだ。一番手の大前おおまえは夏南という布陣で富岡東高は県予選に臨んだ。優勝した一校のみがインターハイに出場できる。高総体は高校生最後の全国大会で二年生の夏南以外の二人にとって県予選を突破できなければ、これが最後の試合になる。

 

馬に跨り、与一は浅瀬に入る。黒く艶やかな鬣がたなびいている。少し西の方から風が出て来たようだ。天にも見放されたか、射損じれば死ぬしかあるまい。

南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ……どうかあれに見える扇を射させ給う」

与一は最後の望みを賭けて神仏に祈った。弦に矢羽を引っ掛けて右手で弦を力いっぱいに引く。風向きとその強さを鑑みて矢尻を扇のやや左斜め上に定める。そして矢羽を掴んでいた右親指と人差し指を思い切って開く。ヒュンという矢尻の先が風を切り裂く音が波の音にかき消され弓から放たれた矢は、屋島を抱く瀬戸の海の上で放物線を描きながら玉虫の乗る小舟の上、竿に支えられる紅の扇へ向かって飛んだ。

 

四校総当たり戦の予選リーグは二勝を上げて二位で勝ち進み、決勝トーナメントに駒を進めた。準々決勝はやはり徳島市立だった。

夏南はパイプ椅子から立ち上がり弓に張った弦に矢羽根を当ててゆっくりと引いた。同時に隣の賜子が立ち上がった。真っすぐに眉毛の上で切り揃えた前髪の下、細い黒目がちで少しつり上がった目を的となる木枠を丸めた輪状の霞的かすみまとに流すように向けて、矢を構えてから放つまでなめらかな一連の動作で夏南が矢を放った。その行先を見ずに賜子は大きく息を吐いて肩の力を抜いた。左目で霞的の真ん中にある黒い円を見定めて矢尻を合わせ、力の限り引いた弦と右親指と人差し指、中指を覆う小手の下に掴んだ矢羽根を離した。真ん中の円をやや右に外れた白い部分に矢尻は突き刺さった。隣で絵美が息を吐いて矢を放った音が聞こえた瞬間に矢は黒い円のど真ん中を射ていた。すごいスピードと正確さ……彼女は全国に行かなきゃダメだ。賜子は心の中で呟いた。

「おおー!」会場がどよめいた。

徳島市立のエースで落ちを担うのは二年生の鮫島敦子さめじまあつこ。一年生でインターハイ個人戦優勝という華やかなデビューを飾り、高校弓道マガジンの表紙を飾るアイドルのような顔立ちで「天は二物を与えず」という諺を全否定するような存在だ。どうやら鮫島も絵美と同じくど真ん中を射抜いた様子だった。二射目もどちらも引かない展開で続く。

天井からくぐもった音が聞こえ、すぐにそれは弓道場の屋根を激しく打ちつける雨音となった。夏南の「集中、集中」という独り言が賜子に聞こえた。夏南の放った矢は的のギリギリ右端にしがみつく様に当たった。賜子の肩に力が入った。外せない。頬を膨らまして賜子は息を吐いた。弦を持つ手が微かに震えて矢尻が的からブレる。矢を放つと同時に賜子は目を閉じた。矢は的の外、土でならされた縁に音もなく刺さった。絵美の矢は繰り返すようにど真ん中を射ていた。

 

お願い……次は外せない。那須与一だろうが誰だろうが何でもいい。もし弓道の神様がいるなら、この一矢は的に当てて。次外したら、絵美に一生顔向けできない。

 

賜子は生まれて初めて天に祈った。弦に当てた矢羽根を引き、矢尻を三十メートル先にある丸い的の真ん中と直線上に並べる。目を閉じると、赤い扇を竿に差した小舟の上に柳色の着物を着た自分が乗っていた。

ヒュンという風を切る音が聞こえ、扇が竿の上空にふわりと浮かんでハラハラと舞った。野太い声が浜辺から海を揺らすように響いてきた。海上に黒い馬に跨り弓に手をかけている甲冑姿の男が見えた。

「大丈夫。矢はあなたの望むところに飛ぶわ」耳元で女性の声が聞こえて驚きと共に目を開き、矢は放たれた。霞的のど真ん中に矢尻が刺さり、タンっという音が会場に響いた。徳島市立の中堅の矢は外れ、絵美の矢は三連続でど真ん中を射た。そして鮫島の矢が霞的の少し上に外れた……勝った。

「オオー!」劇的な試合展開に会場はどよめき、私たちは思わず三人で抱き合い、審判の先生に注意されて一礼をしてまた抱き合った。

そこで集中力が途切れたのか、私たちは次の準決勝で負けて結局全国には行けなかった。絵美は終始笑顔だったが、その目はどこか虚ろだった。

「ごめんね。最後のチャンスだったのに……」

「ううん」

「徳島市立に勝ったんだね……わたしたち」

「そうだよ! 一生の思い出になる」絵美は笑った。

「うん」賜子は彼女の美しい顔に見惚れた。

不意に賜子の腰に後ろから誰かが抱き着いた。「道三のような執念が欠げてヴぉりましだぁ、剃髪してぇリベンジしましゅ……」夏南がわんわん泣いていた。

 

「残念だったな」和夫は窓の外を黙って見ている賜子をチラッと見て声を掛けた。

「まあやり切ったから」賜子は上の空で応えた。

「今まで言ってなかったけど、賜子の『賜』って字な、那須与一に扇の的を見せて煽った玉虫から取ったんだ」

「は?」

「平家も源氏も疲れ切ってるときにぱっとその場を明るくする素敵な玉虫のような女性になって欲しいと思ってな。だから賜子が弓道部に入った時は神の御導きかと思ったよ。ちょうど今みたいに陽が傾きかけた屋島の海に、柳の五衣を着た玉虫が小舟に乗って源氏と平家の間に立ってたんだろうな」

「ふーん」気のない返事をしながら、賜子は義道街道を赤く染めながら地平線に沈む夕日を眩しく眺めた。

〈了〉

2020年8月2日公開

© 2020 松尾模糊

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