遠ざかる城

松尾模糊

小説

2,298文字

写真:アビラの城壁

BFC3幻の2回戦応募作。

男が煙草を吸っている。山高帽を深く被っていて目元は見えない。紺色のロングコートの襟を立てているので、それが男なのかも判然としない。コートの下から伸びる足は黒いズボンを穿いていて、足元にはこげ茶色で革の丸い靴先が見えた。それらの視覚からの情報を統合して、この人物を男であると認識したのだろうか。かの人物が右人差し指と中指の間に挟んだ煙草のフィルターの先を、右親指で叩きながら紫煙を上げる灰を路上に落とした。不意に人物は咳き込んだ。ぼほぼほと甲高くはないその音を聞いて、完全に男であると認識する。女が男の前に現れた。女? 白いスカーフを頭に巻き付けて薄茶色のトレンチコートを羽織り、黒いストッキングを纏った足元に赤いハイヒールが見える。とても女性的な格好である。瞬時に女だと認識した。横顔からはスカーフと風に揺れる長い赤茶色の巻き髪でその表情は窺えない。なにか話しかけたようだが、声は聞き取れなかった。角膜を通した鏡像の情報だけで女であると判断した。それは正しいのか? そもそも男性が男性的な、女性が女性的な格好をする必然性があるのか? もしも逆だったら? 男性が女装して女性が男装していたら? なんのために? いや、なんのために男性は男性的な、女性は女性的な格好をするのか? 男性の格好をした人物は、煙草を足元に弾き飛ばし革靴の底で踏みつけて火を消した。女性の格好をした人物は彼、彼らしき人物の腕を取って、自身の腕を巻き付けた。男の格好をした人物と女性の格好をした人物は腕を組んだまま繁華街の方へと歩き出した。これはデートと呼ばれるものだろうか。デートとはお互いに恋愛感情がある人物同士が娯楽施設や食事処で時間を共有して過ごすことであると仮定すると、デートのように見える。しかし、あの距離で彼らの年齢差を確認することはできなかった。そもそも年齢差は恋愛において重要だろうか? 恋愛という極めて個人的な問題に、一般的な尺度や倫理観を当てはめることに妥当性はあるのか。それ以前に、主観でしか測れない恋愛感情を第三者が特定することは不可能ではないか? 仮に男らしき人物に恋愛感情があったとしよう。女性らしき人物に恋愛感情が無かったら? 女性らしき人物が彼らしき人物に買われていたとしたら、それはデートではなく、同伴と業界で呼ばれるものではないか。逆なら? 恋愛感情が無いのに、自ら腕を組んだりするだろうか。もしかして、成人近い娘と父親だった? 親権を失った実父と、別れた妻とよく知らない男のもとで暮らす娘。男らしき人物は咳き込んでいた。癌に蝕まれて余命いくばくもない病体を、娘には心配をかけまいと強がり、寒空の下に晒して娘を待っていた。娘には月に一回しか会えない父親、人生で唯一生きる希望を得られる希少な涙ぐましい場面だったのか。なんということだ! そんなドラマチックな場面に出くわすなんて。ちょっと追いかけてみよう。二人が向かった繁華街への入り口は古い劇場とチャイニーズレストランが並ぶ間にあった。劇場では『ハムレット』が公演されているようだ。チャイニーズレストランのガラス窓から白い三角帽子を被ったシェフらしき男(側頭部の髪は地肌が見えるほど刈り込まれているし、6フィートを超える身長や広い肩幅等、骨格から見ても男と言って間違いないだろう。しかし、やはり外見で性別を判断するということはなにか憚られる気がしてならない)が、大きなまな板の上でこねくり回したタネを掴んで引き伸ばして板の上に叩きつけている様子が見える。長い木の棒でタネを平らに整えるシェフを横目に石畳の道を進んだ。視線を前に戻すと、頭にスカーフと山高帽、薄茶色のトレンチコートと赤いハイヒール、紺のロングコートと革靴の二人組が山ほどいる! いや、むしろその恰好の二人組しかいないと言ったほうが正確だろう。どういうことだ……突然、異邦人になってしまうことになるなんて。周囲からの視線が否が応でも集まっていることが感じられた。ここで逃げ帰ってはならない。笑い声は嘲笑に、話し声は糾弾に聞こえて無性に腹が立つ。顔を上げてみると、誰一人こちらを見ていなかった。自意識過剰というものか。自意識とは何だろうか。自己意識、フロイトは「自我はそれ自体、意識されない」と言っている。意識と無意識の間で常に揺れ動く超自我、エス、イド……リビドー、タナトス、エイディプス・コンプレックス……自我は諸要素の中で彷徨う……。皆同じ方向に歩いているようだ。彼らの向かう先に目を遣る。高い壁に覆われた城が建っている。煉瓦が一つ一つ積み重ねられ塗り固められた壁の合間に、大きなアーチ状の閉ざされた鉄製の扉。その前に7フィートはあろうかという巨躯を持った男、スキンヘッドに筋骨隆々、真っ黒でタイトなTシャツと黒いズボンという格好を総合して男性だと判断した。彼は一瞥して肩を吊上げ、右手のひらをこちらに向けて臨戦態勢を取った。
「本日は貸し切りになっております」男は左手で指差した。
黒板の立て看板にはチョークで

 

『ジェンダー復活祭』舞踏会会場
ドレスコード:男性らしさと女性らしさを意識したもの

 

と書かれていた。なんという時代錯誤な文言だろうか。というか、男性らしさと女性らしさを求めて皆同じ姿になるとは何という皮肉だ。
「自由は我々が勝ち取った権利だ! 自ら捨ててどうする!?」分厚い掌に胸元を押さえつけられて城は遠ざかっていく。揉み合った際に落ちた金髪のウィッグを拾い、化粧の乱れがないか、コンパクトミラーで確認して肩越しに大男を盗み見る。久しぶりの肌のふれあいで身体の奥が疼いていた。

2021年11月12日公開

© 2021 松尾模糊

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