砂上の灯籠

月に鳴く(第12話)

松尾模糊

小説

2,312文字

嵐の夜の灯台守は鯨が空を飛ぶのを見た。幻想的な光景を方言を用いて表現した掌編。

嵐が来る。潮風の匂いがそう知らせている。ちゃぽりちゃぽり防波堤にぶつかって音を立てる穏やかな海面、紫色に滲みながら黒く染まりつつある雲一つない空を、茜色に照らして沈む夕陽とのコントラストからは嵐の気配など微塵も感じられない。ふにゃあ、と野良の三毛猫が足元にすり寄って来た。わいの腹時計はばり正確やな、嫌味を吐きながら白い灯台の錆びついたドアをがこっと開けるとミケは先に駆けこんだ。慌ててもまだわいの飯はなかけん、扉を閉める際にも力がいる。螺旋階段をゆっくりと上る。軽やかに先を行くミケは振り返り振り返り、にゃあと鳴いた。そう急かさんと、わいも嵐の夜に外に締め出されとうなかやろ。灯塔を上りきったところで海に目を向ける。日は沈み、空と海の境界線は曖昧となり消えつつあった。三六〇度見渡せる円状の踊り場と柵に囲まれた灯室に入り、紺色のニット帽を取って頭にこびりつくようにぺしゃんこになった頭髪の毛根を、掬い上げるように右手でさすりながら冷蔵庫を開けた。ラップで蓋をした牛乳瓶から小皿に中身を注いで床に置くと、ミケはさっと倍速になったような動きで駆け寄り、ぺしゃぺしゃと皿の上を舐める。朝のうちに三枚におろしておいた鯵の切り身を取り出して、まな板の上に載せて刺身包丁で細かく刻み、きざみねぎとまぶしてタタキにした。カセットコンロに火を点けて、湯を沸かす間、小鉢に鯵のタタキを移して醤油さしを上から傾ける。箸でかき込むと、ミケが右足にすがりついて催促する。やかましかね、分かったけん、もう一口かき込んで残りを床に置いた。煮え立つ鍋の中からだし昆布を取り出して、わかめと手の上で切った絹ごし豆腐を入れて合わせ味噌を溶かした。炊飯器がピーピーと米が炊けたことを知らせる。丁度いいタイミングで心が躍る。鍋に蓋をして火を最弱に。炊飯器の保温スイッチを切り、内窯で立ち上がる米粒をしゃもじで底から混ぜ合わせて蒸らす。ちゃくちゃくと鯵のタタキを貪るミケの憎たらしさもこの至福の時には気にならない。嵐の前の静けさ。火を消して、味噌汁の中に沈む豆腐とわかめを掬い上げて椀に注いだ。先代が溺れかけていた少年を助けたお礼にもらったと、死ぬまで大事に使っていた波佐見焼の茶碗に米を盛る。冷蔵庫からきゅうりの浅漬けを取り出してご飯の上にのせた。ぱりぽりずっずんちゃと早食いは若い頃から変わらない。先代にもよく注意された。しっかり噛んで食いよ、わいは。溺れる男児と一緒に波にさらわれた先代の声が海の向こうから今でも時々聞こえる。ゆっくう食いよる時に事故におうたら、そいがおいには耐えられんけん。フレネルレンズを点灯しながら先代に言い訳する。ぽつぽつと雨粒がガラス窓を打ちつけ始める。真っ黒い雲間を稲光が走り、雷鳴が遠く叱りつける先代の声のように轟いていた。

細かい振動と時々ガタリと大きな揺れを繰り返すガラス窓が嵐の到来を告げている。ごうごうと渦巻く風が剥がしたトタン屋根やら、ポリバケツやら世代を跨いでコンクリート壁に張り付いてきたロマンポルノの色褪せたポスターやらを巻き込みながら荒れ狂う海面をも吸い上げようとしていた。黒い大きな目玉がこちらを見ている。なんや、あいは? 思わず口をついて出たその言葉の答えを探すように灯火が照らす。双眼鏡を手に取った。暗闇の中でもいっそう黒さの際立つ漆黒に雨が打ちつけているところから、それは幻ではなく物体であることを示していた。丸みを帯びた、鉄球のような、おたまじゃくしのような形をしている。鯨や! 鯨が空飛んどう……自分の言葉があまりにも幻想じみていて目の前の現象を信じられなくなった。夢か? 瞼の上をこすっても鯨は空を飛んでいた。ミケだけが夢みたいな現実を正しく物語るように、ソファの上で寝息を立てている。冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。プルタブの音も気にならない程にガタガタと灯台自体が揺れ動いている。ビールを飲み干して、もう一度窓の外を見ると、鯨は消えていた。

2021年11月27日公開

作品集『月に鳴く』第12話 (全16話)

月に鳴く

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© 2021 松尾模糊

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