ぼくが大学生のころの話だ。アパートの二軒となりに個人経営の喫茶店があった。住宅街のなかにあって看板のひとつもないので、すぐにそれとは気がつかない。かくいうぼくもその存在に気がついたのは二年のおわりごろだった。とうじ、アルバイトもせず、親のしおくりだけでくらしていたぼくにはとうぜんあそぶ金もなく、さりとて大学に行くのもめんどうだったので日がないちにちさんぽをしてすごしていた。
ぼくはふたつのさんぽ道をもっていた。なんのことはない、アパートを出て右におれるか左におれるかというだけのことだ。左におれてすぐにその喫茶店はあった。だからそれだけながく喫茶店の存在に気づかなかったのはふしぎと言えばふしぎだ。ぼくが気づかないのであればだれも気づかないのではないかとおもう。しかし、白い外壁の西洋風のちいさなたてものは見るからに年季がはいっていた。店長は白いひげをたくわえ、ぶあついめがねをかけた思慮ふかそうなひとだった。モーニングは三百円で、トーストとゆでたまごにコーヒーがついてきた。ぼくは週に一回のペースでその喫茶店にかよった。いつでも客はぼくのほかになかった。あしたは喫茶店にいこうとおもいたった日は、大学図書館にいって折口信夫の全集をかりてきた。そうしてぼくはモーニングを注文しただけで午前中いっぱいをねばるのだった。店長はなにも言わなかった。というより、厨房の奥にかくれ、ぼくがお会計をたのむまでぼくの目のまえにあらわれることがなかった。喫茶店のなかは閴として時間がとまっていて、その時間のあわいのなかでぼくは世界でひとりだった。折口の文章はひとをよせつけず、いっこうに歯が立たなかった。理解してやろうというおこがましいかんがえをすてると、折口の文章に呼吸のリズムが一致するのをかんじた。それに満足するとぼくはフッと意識が消えるのだった。目覚めると正午をすぎていて、ぼくは店長を呼んで金をはらい、そとの世界にさんぽに出るのだ。それが幸福だった。
その日もつかい古したリュックサックに折口の全集を一冊しのばせて、喫茶店に向かった。窓ぎわの席について、モーニングをたのむと、
「じつは店をたたむのです」
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