海神

応募作品

Juan.B

小説

4,252文字

※2020年9月合評会応募作品

その男はまるで魚の様に水中を進んでいた。水中にいる間、彼の耳には一切の喧騒も入らなかった。自然な流体の音だけが体全体に響き渡っている。そしてどこまでも泳いでいける気分でいたが、壁面が彼を阻んだ。男は僅かな笑みを浮かべながら顔を出す。そこはどこかの大邸宅のプールで、目の前にはテラスチェアから身をやや乗り出した夫妻と、数名の召使たちがいる。そして誰もが、驚いた顔をしていた。召使の一人が興奮して、スイス製のストップウォッチを夫妻に指し示した。主人はゆっくりとプールサイドを進み、漂う男に語り掛けた。
「君は一度も息継ぎをしないで……いや、確かに君は泳いでいたはずだが、こう、優雅で……何だか水中を影が進んでいるような、そんな風に見えた」
「お見せ出来て光栄です」
「安曇……ああ、本当に、君のような泳ぎ手がいるとは……オリンピックが開催されれば良かったんだが」
安曇と呼ばれた男は、諦念とも何とも取れない微妙な笑みを崩さず、静かに答えた。
「お国の方針ですから」
「まあ君の能力なら、他の……例えば軍隊でも生かせるだろう」
「そうですか」
安曇は内心白々しく答えた。オリンピックと言う催しに、適当な軽蔑と諦念しか感じなかった。人間の能力が、軍隊の階級勲章やら何かの大会でしか評価できない世界が嫌だった。ただどこまでも泳いで行きたい……。その時、夫人が聞き取れないほどのか細い声を出した。その声の方を向くと、小学校に入ったかどうかという年齢の可愛らしい少女が、既に水着に着替え、夫人の影に隠れるように立っている。
「ウチの素子と泳いでやってくれるか」
「喜んで」
安曇が笑みを浮かべて手招きすると、人見知りの様に恥ずかしがっていた素子も笑みを浮かべて近寄り、プールに入った。再び、安曇は水面に潜り……まるで水と一体となったかのように、急に見えなくなった。その時、重低音がして、夫妻が空を眺めると、双発の爆撃機が編隊を組んで彼方に飛んでいた。

 

~~~

 

軍医に連れられ、看護婦と傭員に腕を掴まれながら、安曇は廊下を進んでいた。
「今日はとりあえず別室に居てもらうから」
「はい」
「君は風呂場以外では従順で楽だなー。さっきの自称天皇どもは大変だった……」
ぼやく軍医に、安曇は口の隅で笑みを浮かべた。そうしている内に、鍵の付いた部屋に行きついた。
「もう他の部屋は埋まってるから、今日一日そこでじっとしててもらおう」
その時、薄暗い部屋の奥から、大声がした。よく見ると、髭を生やし中空を見つめる男がいる。彼が和藤内と呼ばれているのを、安曇は知っていた。
「事変は終わったのか、終わったんだろうな、おい」
軍医達は和藤内を無視し、寝台を指し示すと、さっさと部屋を出て鍵を外から閉めてしまった。
「お前と俺で二人きりか」
「ええ、よろしくお願いします」
病院なのに、埃っぽく日の当たらない薄暗い部屋に放り込まれたことに、安曇は何の感情も抱かなかった。
「風呂場で騒ぎを起こした海神ワタツミさんじゃないか、急に見えなくなったとかなんとか」
「騒ぎと言うほどですかねえ」

安曇はいつまでも笑みを崩さない。和藤内は寝台から起き、ドアに近寄ると、何度か強めに押し引きしたが、扉は依然動かない。
「これからちょっと煩くするが、堪忍してくれよ」
「ええ、どうぞ」
「……日支混血児にして昭和十二年上海にて頭に一発受け世界人類混血秘法に目覚めた和藤内が伝えるぞ! 亜細亜の同胞を殺すな! 世界人類は遥か古代から混血しているのに何を争うか! 亜細亜の、支那の同胞を殺すのを止めろ! 全ての人間はみんな混血だぞ! 混血同士が争っても何の意味もないんだぞ! 選民や優良民族等存在しない! 古代の愚か者の戯言など信じても意味がないんだぞ! 世界人類の混血化を推し進める陰陽和合の大和平大会こそ始めよ!」
和藤内は日課の様にすらすらと叫んだが、誰も来ないしドアは開かなかった。日本は毎日彼を無視していた。
「万世一系を称する連中は世界で一番みじめな者! 万世一系を誇る理由を考えてみよ! 何を誇る意味がある!」
安曇は、和藤内が叫びたいだけ叫ぶのを見届けつつ、あの日の一家の顔を思い浮かべていた。彼らも万世一系なるものに取り込まれていた。そして自分は……。
「和藤内さん。私たちは隔離されたんです。恐らくやんごとなき方々でも、慰問に来るんでしょう」
「……」
和藤内は一旦黙った後、戸に手を掛けて俯いていたが、終いに寝台に戻った。
「まあ俺がここにいる理由は分かるだろう。そちらは? まさかエラでも付いてるのか? なら外科だろうが」

エラと言われて、安曇は顎をやや上げ、何もない首元を撫でながら、目を細めた。

「私ですか」

 

~~~

 

安曇は銃声に追われ、銃も雑納も放り、中国の名も知れないクリークの、澄んだ泉に飛び込んだ。そこには既に先客がいた。

「……!」

お前は誰だ、と互いの目が訴え、二人はただ互いに水中で挑みかかった。我こそが強い、と思っていた。しかし、互いに凄まじい速度で交差した時、とうとう気付いた。もう一人の自分がいる。同じ日本でなく、海を越えた中国に、同族がいるのだ。まさに海神族の……。急旋回し、相手の顔を覗くと、その時、相手の放った水の輪が安曇の頭を直撃した。鈍い痛みを感じながら、安曇も右手を掲げて相手に挑みかかる。そして口から息をごぼごぼと漏らしながら取っ組み合った。

長い時間が立ち、泉の畔に上がっていた。息をぜいぜいと吐きながら、二人は互いの顔を窺った。

「お前は」

「你是」

安曇は意を決して、再び水に飛び込んだ。そして、相手もそれに続く。今度は争うのではなく、確かめ合うために。二人は並んで泳ぎ、泉の中を二回りし、そして互いが同じ泳ぎをしていると本当に知った時、安曇は顔を上げた。

「貴方は私と同じ……」

中国人も、笑みを浮かべて水面から顔を出す。そして並んで水辺に上がり、向き合った。中国人の男は、水面を指し、何か聞き取れる声を出した。

「竜宮」

「綿津見神宮……」

その時、銃声がして、中国人の顔が吹き飛んだ。下顎と血だまりが足元に転がる。振り向くと、日本兵の部隊が便衣の死体を引きずり笑いながらこちらに向かってくる。

「支那人と何してんだお前は」

「……!」

 

~~~

 

和藤内は言葉を失いながら、格子の掛かった窓を見た。

「……ここからは海も湖も、すぐ近くの江戸川も見えないからな」

今度は安曇が立ち上がり、窓際に立った。

「私は……海神族の末裔なんですよ」

「そうか、なら混血だな」

「まあそうでしょうね。そして私は自分の同類を見付けて、すぐに失った。私なんかいなければ良かった」

「違う。戦争が悪いんだ」

「……」

安曇は、和藤内が例え狂っていてあるいは安易に言っているのだとしても、その言葉を噛み締めたかった。例え水の中に逃げても、世界の海には争いが満ち、どこにも平穏が無い。戦争さえなければ。それも、陸に住み、船の上で威張るだけの連中の戦争が……。

 

その時、部屋の鍵が突然開けられ、場に合わないモーニングを着た役人が息を切らしながら中を見回した。

「まさか、ここには居ないな!」

「どうしたんですか」

「おい、素子女王……いや、これ位の少女を見てない、な?」

安曇が首を振ると、役人達は鍵も閉めずに走って出て行った。

「素子女王? 宮家が慰問に来ているのか」

「迷子みたいですね。和藤内さん、少し散歩しませんか」

「……まあ来週のタバコが貰えなくなるくらいなら、良いか」

廊下に出ると、あちこちから走る音がする。こんな病院で迷子になるのか、と和藤内の軽口を聞きながら、安曇は彼女の姿を思い出した。

「大きくなったかな」

「何?」

「私は前に会ってるんです……表彰か何かで呼びつけられた時にね」

開いたままの通用口を見付けて出ると、病院の裏側にある、慰安用の馬小屋の前に人影を見出した。

「子どもは動物が好きですからね」

「どうする?」

「そうですね。和藤内さん、お願いしたいことがあるんですが」

そういうと、詳しいことを言わずに安曇は馬小屋の方へさっさと進んでいく。そして、人影も安曇を見出した様だった。

 

~~~

 

誰もいない、夕焼けに照らされた川の畔で、安曇と素子は服を脱ぎ体を晒した。服は川へ投げ捨てられ、流れていく。

「また一緒に泳ぎましょうね。もうそんな学習院とか伝統作法とか今日みたいなお勤めとか、そんなつまらないものはない所に行きますから」

まだ陰部に毛も生えない素子も、かつて水泳を教えてくれた安曇の言うがままに裸になり、そして手を繋いだ。

「うん」

「プールなんかよりとても楽しい所に行きますよ。そう……安徳天皇のお話は存じてますか」

「知ってるよ、壇ノ浦の」

無邪気に話す素子と、引き締まった安曇の背中を、和藤内は無言で見つめていた。

「竜宮……まあそんな所に行き、海陸の交わりを為します。和藤内さん、祝ってくれますか」

和藤内は凄まじい笑みを浮かべて頷いた。

「いいとも。これは古代と現代、海と陸、偉大な混血だ」

「この世でこの門出を祝ってくれるのは貴方しかいないでしょう。そしてどうかずっと記憶して欲しいんです」

和藤内は二人の頭に水を浴びせ、唱え始めた。

「世界はこれ一体の混血にして友愛! やれ大和民族だアーリア人だと抜かす連中に目に物を見せてやれ! 世の全ての交わりは混血の元である!」

その言葉を背に、安曇は素子女王の手を引いて川に入った。素子女王は二人のやり取りを面白く見つめていた。

「きっといつの日か、私たちを始め無数の交わりが実った時……国や人種なんか目じゃない、陸も海も一つの暖かな世界になるでしょう」

「俺はまだ色々叫ばなければならないから行けないが……是非その日を待っていよう」

その時どうも普通の水泳ではない様に思えたのか、素子は一瞬戸惑ったが、安曇が微笑みかけると、ついに意を決して川に入った。

「お兄ちゃん、行こう」

そして、一つに重なった影が、魚の様に川を下って行った。その後和藤内は、背後から聞こえる様々な怒声に身を任せ始めた。後ろに傭員や、役人や、警官達が大勢現れる。

「知盛の気分だ……さて、聞け日本人よ! 日本人と思い込んだ混血達よ! 世界の同胞に向けた武器を下ろせ! 北支事変に欧州の大戦は混血の同胞を殺す大罪なり! 聞け……」

和藤内は振り返り、国府台の陸軍病院へ向け混血説法を再び始めた。顔面蒼白の軍医たちや役人たちは和藤内を無視して、川岸に散らばっていった。

 

(終)

2020年9月22日公開

© 2020 Juan.B

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"海神"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2020-09-23 13:51

    もしこの世界にポリティカルコネクトゥスやコンプライアンスというものがあるとすれば本作品は完全にNGであるし発表される前になんらかの公的機関の暗躍で作者が抹殺されるかサイトごと404にされているはずだが、そういうこともないようなので文学は自由だと証明できた。いよいよホアンさんの横綱感が本格的になってきた。

  • 投稿者 | 2020-09-24 19:50

    あれよあれよという間に話が進んでいき、子供である素子はよく分からないままそれに同意しているという感じに映り、安曇らが「人さらい」をしているように見えました。親の立場からすれば、こんなことをされたらたまったもんじゃないだろうなと思いました。

  • 投稿者 | 2020-09-25 16:13

    全体的に不謹慎であるが故に、ポッと出た「戦争が悪い」という当たり前すぎる台詞か妙に説得力をもって立ち上がってきますね。カラスの中にカラスを隠してもわかりませんが、白いハトが一羽だけいると否応なしに目立ちます。

  • 投稿者 | 2020-09-25 18:51

    爆撃機が上空を通った時の「重低音」とか、ほかのカ所で「物凄く」とか言う表現がありましたが、それに対して少ない言葉だけではなく、何かの気持ちを入れれば、より臨場感が出るのではないのかなって思いました。

  • 投稿者 | 2020-09-25 22:45

    冒頭の段落の描写がすごく好みです。私の「まぼろしの魚」のイメージはこれでした。ホアンさんのお話は基本的に腹の底から声出してる感じだと思うんですが、今回はそのスタイルの底に静かな世界が隠れていて、そこが良かったです。

  • 投稿者 | 2020-09-26 14:49

    これは長編にしてもらいたい物語です。海神一族の末裔の安曇、宮家の女王との出会い、拡大する戦局、同族の仲間は敵国人、皇族の娘と一緒に水に帰る。素材が良すぎて10枚ではもったいなすぎます。何年かかってもいいのでぜひそうしてください。

  • 投稿者 | 2020-09-26 18:53

    作者のこれまでの作品にも幼女はたびたび登場してきたが、今回の「海陸の交わり」のくだりを読んで、私はこれまであまりにもイノセントにJuan.B作品を読んできたのかもしれないと実感させられた。今回は特に筆が冴えている。

  • 投稿者 | 2020-09-27 17:19

    安曇の静かな葛藤とその果ての決断が印象的です。著者の主張が熱い和藤内の説法と、静かに葛藤する安曇の姿となって混在しているような印象を受けました。さらっと現在と絡めているところもいいです。

  • 投稿者 | 2020-09-27 23:04

    不思議なもので、魚というイメージで何故今の今まで「わだつみのいろこの宮」の題材を失念してたんだろうなと。
    本作を読んでようやく思い出した程です。
    大いなる和合の物語なんですよね。

  • 投稿者 | 2020-09-28 00:03

    数万年前に出アフリカしたヒトは混血を繰り返しながら、ヒト亜種とすらも混じりながら世界中に拡散していきました。万世一系という言葉がなんと滑稽なものか。安曇氏は謎多き氏族のようですね。海洋民族でありながら、海岸線沿いだけでなく長野県の内陸にデンと腰を下ろした枝もいるようで。

  • 投稿者 | 2020-09-28 12:40

    やりましたね。違うかもしれませんが、私はこれを読んでカリオストロの城を思い出しました。で、和藤内さんが銭形警部。

  • 投稿者 | 2020-09-28 19:47

    重厚で精巧に組み立てられており、私には真似できない作品です。うらやましい。
    大猫さんも仰られていますが、もっと彼らの日常や背景を見てみたかったです。

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