破滅派主幹、高橋文樹のデビュー作『途中下車』(二〇〇一年)を下敷きにした。第一回幻冬舎NET学生文学賞受賞作。現在は絶版となっているものの、二〇〇五年には幻冬舎文庫から文庫版も発売された。
私は同人になって二年近く経つが、まだ破滅派について知らないことが多い。自分が参加する以前の破滅派の歴史、特に草創期については暗澹とした未知の領域が広がっている。そこで、破滅派およびその創設者である高橋文樹について理解を深めることで破滅派同人としての基本に立ち返ることができるのではないかと考えた。その基本とやらがどういうものなのかは、まだよく分からないけれども。
しかし正直なところ、当の作品自体にはあまり感心しなかった。その理由は、タイトルに用いられる列車のモティーフが物語の途中でほとんど出てこない(旅行や海水浴には電車で行ってほしかったし、もちろん主人公の両親も鉄道事故で死ぬべきだった。なぜBMWなんか買うんだ?)、妹とのセックスの詳細がぼかされている(妹の代用品のように登場するガールフレンドとのセックスは結構生々しく描かれているのに対し、主人公が妹と寝るシーンでは「で、ヤッたの? ヤッてないの?」と問い詰めたくなる)などの点にある。若書きの作品に粗が多いのは当たり前のことだが、『破滅派』十三号掲載作の採否を一手に握る高橋文樹編集長の作品についてこれ以上ネチネチと気に食わない点をあげつらうと、本文にたどり着く前にボツにされかねないのでやめておく(そして案の定ボツになった。チキショウメ)。
誤解のないように言っておくと、『途中下車』は文学作品として出来が悪いわけでは決してない。私がこの作品のよい読み手になれなかったのは、作品の質というよりはむしろ書き手と読み手の文学的な目のつけどころの違いに起因するものであると思う。読み手である私が話の筋そのものよりも言葉の選択やモティーフの展開と変奏を重視する傾向があるのに対し、書き手である高橋文樹はストーリーテリングを念頭に置き、読みやすくニュートラルな文体を心がけているように見える。そしてこの傾向は現在も変わっていない。『歌 and ON』(二〇一五年)のような凝りに凝った文体の作品は例外として、基本的に彼の文章はさらさら心地よく頭に入ってきて、語る内容の面白さやウィットのきいた着眼点で読者を引きつける。また、近年の彼がSFをはじめとするジャンル小説に積極的に挑んでいるのは、個々のジャンルがストーリーの定型を持っているためであろう。彼は自分の手札にない新しいストーリーの型を求めて常に自己刷新を続けているのだ。
高橋文樹のデビュー作に対する応答を書くにあたり、私はあえてストーリーのリライトや文体のパスティーシュではなく、作品の細部を借りてそこから勝手に逸脱していく手法を取ることにする。勢い余って全然違う作品のオマージュになってしまうこともあるかもしれないが、そこはご愛嬌ということにしてほしい。『途中下車』には理名と麗奈という二人の女性が登場するが、ローマ字表記にした際に彼女たちの名前が小文字のeの有無で弁別されることに主人公が気づくシーンがある。登場人物の位置づけを示す鍵となるシーンなのであるが、はたして作者自身は記憶しているだろうか? その箇所を踏まえ、私はアルファベットのeから話を始めてみたい。
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Eclipse
(太陽や月の)食。天体と観測者のあいだを他の天体が通ること。または、天体の光源の前に別の天体が割り込み、光を遮ること。
/i-klips/
イクリプス。語頭のEは発音され、語尾のeは発音されない。
E clips e
Eがeを切る。Eがeをぶん殴る。発音されない小文字のeは大文字のEの一方的な暴力に晒されるだけ。
Anri
杏里。Eを持たない弱者。私の名前。大文字のEの横暴にただ耐えるしかない、発音されない語尾のe。
Erina
恵利菜は語頭のEを持っている。私はrもiもnもaもあるのに、ただeだけがない。ただそれだけの違い。でも、決定的な違いだ。染色体のxとyというたった一文字の違いで性別が変わるみたいに、大文字のEの有無は運命を決定的に変えてしまう。
恵利菜と私は顔も、服も、髪型も同じ。顔はともかく、服は両親がお揃いを買い集め、髪はお母さんがいつもお揃いになるように切った。ワンピースも二着ずつ、上着もスカートも二着ずつ、靴下に下着に水着にハンカチまで同じ柄の物が二組ずつ。もちろん靴も二足ずつだ。私たちの衣類は同じタンスにしまってあって、名前を書いて区別することもない。私は自分だけの服というものを持ったことがない。
三分先にお母さんのおなかから出てきたというだけで恵利菜はまるで面倒見のいいおねえさんのように私に接した。
「杏里ちゃんは、いっつもゴハンつぶを顔につけて食べてますね! 赤ちゃんみたいですね!」
夕食の時にはそう言って恵利菜が私の顔をティッシュでペタペタと拭う。その様子を見たお父さんとお母さんが笑顔でパチパチと拍手をする。
「恵利菜はエラいなあ。杏里も恵利菜おねえちゃんを見習ってお行儀よくしなきゃダメだぞ」恵利菜の頭をなでながらお父さんが私に言う。恵利菜は口の片側を上げて笑い、勝ち誇ったような目つきで私を見る。私は下を向いてご飯を口に詰め込んだ。断言できる。顔には米粒なんて絶対についていなかったはずだ。でも、恵利菜の視線に射すくめられると、抗議する勇気がたちまちくじけてしまった。こういう時に私が何かを言ったとしても、はねっかえりの妹が優秀な姉に対して焼きもちを焼いているだけだとしか思ってもらえない。そんなことは幼心に分かっていた。
恵利菜は家族の中心で煌々と輝き続けた。両親は賢くて、優しくて、頼もしい恵利菜おねえちゃんを溺愛した。私は恵利菜の光のおこぼれをもらって白い影のように空に浮かぶ昼間の月だった。誰も目を留めることのない天空のエキストラ、太陽の輝きを引き立てるだけの影だ。もしも恵利菜が三分先に生まれていなくて大文字のEを持っていなかったら、私が太陽になれたはずだった。
小学二年の夏休み、私は季節外れのインフルエンザにかかった。わが家では病気になるのはなぜかいつも私が一番先と決まっている。その日はちょうど家族で熱海に二泊三日の旅行に行くことになっていた。当然ペンションの予約はキャンセル、休暇をもらっていたお父さんは熱海の代わりに私を病院に連れていくことになった。
旅行を一番楽しみにしていたのは恵利菜だった。前日は夜遅くまで電気を灯し、旅行に持っていく物を繰り返し点検していた。そのせいで私はよく眠れなかったくらいである。ところが恵利菜は旅行が取りやめになっても落胆の顔色一つ見せなかった。
「仕方ないよね、杏里ちゃんは体が弱いんだもの。早く病気が治って元気になるといいね」
お父さんと一緒に病院から帰ってきた私に恵利菜はそう言った。インフルエンザがうつらないように恵利菜はその日からしばらくのあいだ両親の部屋で寝ることになったけれど、お母さんと一緒に食事を運んできたり、洋服ダンスから私の着替えを出してきたりして何かと私の世話を焼いた。
数日経ってようやく熱が引いた朝、私はベッドから出て恵利菜が出しておいてくれた部屋着に着替えた。
「痛い!」
靴下を履こうとした瞬間、足の裏に激痛が走った。私がわんわんと大声をあげて泣きだすと、すぐにお母さんと恵利菜が駆けつけてきた。靴下の内側に縫い針が入っているのをお母さんが見つけた。
「ごめんね、杏里。昨日靴下の穴を繕ったときに針が入っちゃったのかも」と、お母さんが謝った。恵利菜は私の足首をつかんで大げさにふうふうと息を吹きかけた。
「イタかったでしょ、杏里ちゃん。イタいのイタいの、飛んでけー!」
後で聞いた話では、穴の開いた靴下に最初に気づいたのは恵利菜だったという。二人とも大好きなイチゴの柄の靴下だから絶対に捨てないで直してほしいとせがんだそうだ。たしかに私はイチゴの靴下を気に入っていたし、お揃いで履いているところを近所のおばさんに「すごくかわいい靴下ね!」と褒められたことがある。恵利菜の話は嘘とは言えない。恵利菜が何かをした証拠もない。縫い針が何かの拍子に中に入ってしまったのは本当にお母さんの不注意だったのかもしれない。でも、なんとなくすっきりしない気持ちが私の中でくすぶった。先月買ったばかりの靴下に穴が開いているのを見たことは一度もなかったし、物を買ってもらってもすぐに飽きてしまう恵利菜が靴下を直してほしいと頼むのも変だった。それに、縫い針入りの靴下を含む着替え一式を前の晩に私の枕元に置いたのは他ならぬ恵利菜だったのだ。
* * * * *
――私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑い声があがった。
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