パリの蠅たち

応募作品

藤城孝輔

小説

4,000文字

合評会2017年08月(テーマ「パリでテロがあった」)への応募作です。前回勝ったけれど、今回も1万円がほしいです。

イマとのディープキスはさっきキムチと一緒に喉の奥に流し込んだクスクスの味がした。ボタンを外してシャツを脱がし、彼の体を両腕で抱き寄せる。細身だがよく日に焼けていて、触ると筋肉が硬い。左肩には皮膚が裂けたような大きな赤黒い古傷がある。僕が十九番と呼んでいる傷跡だ。

「運動もしてないのに、いい体してるよね」と僕が彼の肩をさすりながら言うと、イマは「昔、兵役に行ってたから」とだけ答えた。

イマの本名はパク・ヒマン。だけど、勤め先のインチキ日本料理店でも行きつけのタバコ屋でも彼は「イマ」としか呼ばれない。フランス語ではHアーシュを発音しないからだ。つい「肥満」を連想してしまうから僕も彼をイマと呼ぶ。それでも二人で話すときの言葉はフランス語ではなく最初から英語だった。イマは日本語を話せないし、僕は韓国語を話せない。彼に言わせると、僕のフランス語は瀕死のバッグズ・バニーが喚いているようにしか聞こえないらしい。曲がりなりにも仏文学専攻の院生に対してよくもそんなことが言えたものだ。

金のない僕たちは予定のない日には部屋にこもって昼過ぎまで裸で睦みあった。イマの浅黒い肌に舌を這わせ、体のあちこちに刻まれた傷跡を一つずつ愛撫する。全部で二十ある古傷の点検が終わった後は、イマに下半身を弄ばれながら大学院の課題であるルイ・アラゴンやベンヤミンの都市論に目を通した。入り組んだセンテンスを頭の中で解きほぐしながら、彼が受け止めてくれると信じて白い欲望を放つ。イマは顔じゅうを汚しても、アナルへの挿入だけはするのもされるのも嫌がった。

互いの体に飽いたら街の中をどこまでも一緒に歩いた。歩くのはメトロに乗る金を節約するためでもあったが、浮浪者の小便の臭いが充満する駅の構内が我慢ならなかったからだ。僕たちは路地や公園に建つ銅像の写真を撮り、人名のついた通りのプレートを確かめ、セーヌ河にかかる三十七本の橋を一本一本歩いて渡った。人混みの中に溶け込んだ僕たちに目を留める人間はほとんどいない。それぞれの地区の土地柄と歩く時間帯に気をつけていれば、いたずらな暴力に出くわす心配もなかった。

右岸とシテ島を結ぶサン=ミシェル橋の上から川面を眺めていたら、バトー・ムーシュと呼ばれる遊覧船に乗ったアジア人観光客の一団が僕たちに向かって無邪気に手を振った。

「韓国語では蠅のことをパリっていうんだ」と不意にイマが言った。彼の視線はバトー・ムーシュの展望席を埋め尽くす黒い頭の群れに注がれている。船はゆっくりと僕たちの足下を通り過ぎていった。

脈絡のない発言にどう返事すればいいか分からずにいた僕に構わず、彼はうわごとを言うように言葉を続けた。

「ここは蠅の街だ。世界各地から蠅が飛んできて金を吐き出していく。経済を回しているのも蠅だし、出生率を維持しているのも蠅、古ぼけた都に活気を与えているのも蠅だ。なのに昔からここに住んでる白い連中は感謝するどころか、隙あらば蠅を駆除しようと機会を窺っていやがる」

橋の周りを飛び回る無数の蠅たちが殺虫剤の白い煙に巻かれてパラパラと川面に落ちていく幻が目の前に立ち上がった。そうだ、この橋だ。あいつらがアルジェリア人を溺れさせたのはこの橋だ。一九六一年のあの夜、植民地の独立を訴えて武器を持たずにデモ行進をしていた群衆に警官隊は銃弾を浴びせかけ、倒れた者を生きたまま河に放り込んだ。翌朝には引き上げられた黒い屍が累々と岸に並び、泣き叫ぶ遺族の声がノートルダム大聖堂の鐘の音をかき消した。

僕は学部時代に現代史の講義で見たアルジェリア人虐殺の写真を思い出した。石造りの欄干にあいつらがペンキで大書した「ここで我々はアルジェリア人を溺死さす!」の文字は罪の告白ではなく、誇らしき勝利の宣言だった。あいつらは自分たちがテロリストだとは夢にも思っていない。多数派の正義を粛々と遂行したのだと言い張るばかりだ。テロは常に外から飛来する蠅どもの所業であり、国家の後ろ盾がついた暴力は秩序を維持する正当な手段だ。良心の呵責が入り込む余地はない。

「――それを言うなら、僕や君だって蠅じゃないか」何か気の利いた言葉を返したくて、僕は軽口でまぜっかえすことにした。「二人ともパリにたかって生活しているパリだろ? 吐き出すほどの金はないからまだ蛆虫かな?」

「ああ、そうだ。ここでは俺もお前もただの蛆虫だ。忌み嫌われて、靴底で踏みつぶされる」とイマは言い、小さく笑った。背後から射す夕陽が彼の顔に影を作っていた。

「国に帰ればもっとまともな暮らしができるんじゃないか? 家族や友だちだっているだろ? こんな所でスモークサーモンの握りやらペパーミント味の海苔巻きやらを作って一生を終えるつもりはないよね?」

「帰国は考えていない」

早口でそれだけ言うなり、彼はくるりと僕に背を向けて歩き始めた。話したくない話題に触れたときのお得意のだんまりだ。いったんイマが口をつぐむと僕はただ後について歩き、彼の中にいる不機嫌の虫がおさまるのを待つことしかできない。

僕たちがシェアしているのは北駅の近くにある古びたステュディオである。プライヴァシーを確保できる空間はほとんどない。ルームシェア希望者向けの掲示板でイマとやり取りを始めたときには家賃のことしか念頭になく、ルームメイトと恋仲になるとは想定していなかった。狭い部屋で顔を突きあわせた状態で互いに口を利かないのは精神的にきついと分かっていたから、僕たちは散歩から戻るやいなや何も言わずに体を求めあった。過ぎたことに対する弁明や謝罪の言葉はなく、二人の将来について話しあうこともない。相手の体温を肌を通して感じていられるこの瞬間だけは過去も未来も霧の向こう側に遠のいていた。僕はベッドに押し倒したイマの十九番からへその脇にある四番の傷まで指を滑らせた後、怯えた子どもが母親のエプロンの裾にすがるみたいに彼のしっとりと汗ばんだ陰毛に顔を埋めた。

二十の傷跡がどこでついたのか、という問いはイマを再び沈黙させてしまうだろう。これまでに傷の話を持ち出したときの彼の反応を見る限り、おそらく気まずく長い沈黙になるはずだ。イマが母国の学校や軍隊でどんな仕打ちを受けてきたのか僕は何度も想像した。嘲笑と共に彼を慰みものにする多数派の男根。剥き出しになった痣だらけの肌。血染めの下着――僕にはそれらを口に出す勇気がなかった。あらゆる土地に歴史があるのと同じように傷跡は過去の苦痛を記憶している。僕にできるのは何も知らない観光客の顔を装いつつ、イマの体に刻まれた古傷を一つ一つ祈りを込めて唇で巡礼することだけだった。

イマとの同居は一年半続いた。修士論文が受理されて無事に大学院を修了することが決まったとき、彼はシャンパンで祝福してくれた。帰国後、僕は彼と連絡を取らなかった。さっそく始めた就職活動や荷物の整理に追われ、留学生活を振り返る暇がなかったのだ。彼からもメールは一通も来なかった。事前にはっきり決めておいたわけではないものの、同居しているあいだだけの関係であることは僕もイマも了解していた。翌春には地元にある大手保険会社の支店に入社し、内地出身の沙紀と交際を始めた。

再びパリを訪れたのは就職四年目の春だった。今回は沙紀を連れての新婚旅行である。ここ数年のあいだにイスラム教過激派によるテロ事件が何度も起きていたが、沙紀は子どもの頃からハネムーンにはパリと決めていたらしい。昼間はガイドブックに載っている美術館めぐりと買い物に費やし、夜はワインを気つけ薬にして発情期のウサギのように何度も交わった。三人は子どもが欲しいからすぐにでも作り始めなきゃと言う沙紀の計画に従ったのだ。旅程は彼女が分刻みで綿密に立てていたから昔イマと住んだ部屋や彼が働いていた店をこっそり訪ねる機会は作れそうになかった。

「それにしてもパリって思ってたより小汚い街ね」と、エッフェル塔近くの通りに面したカフェで苺のアイスクリームを食べながら沙紀が言った。「路上にごみとか普通に落ちてるし、ホームレスもうじゃうじゃいる」

「こんなもんじゃないかな、どこに行っても」

「やっぱり日本が一番だわ。ほら見て、今犬を散歩させてたおばさん、犬が植え込みにウンコしたのにそのまま歩いて行っちゃった!」

「そんなことはいいから、気をつけて。アイス溶けてるよ」

アイスクリームは本当に彼女の指に向かって垂れ始めていた。僕が紙ナプキンを差し出そうとすると、彼女は大きな口を開けて残ったアイスを一気に頬張った。照れ笑いする彼女の前歯はアイスクリームと口紅が混ざって毒々しいピンク色に染まっていた。

アイスクリームの後はコーヒーを軽く飲んで店を出た。沙紀はガイドブックを、僕は彼女が買った靴の入っている白い紙袋二つを手にしている。店先の植え込みの根元には彼女が言ったとおり新しい犬の糞があった。さっき落とされたばかりなのに、早くも蠅が寄ってきていた。黒い蠅が二匹、糞の上を忙しく這い回っている。胃から消化液を吐き出して、糞の表面を溶かして舐め取っているのだ。

「ねえ、見てよこれ。外人って公共心とかないのかしら?」と、沙紀が犬の糞をわざわざ指さして言った。「蠅なんかたかっちゃって、すごく不潔」

僕や君も同じじゃないか、パリに群がる汚いパリだ――そんな台詞が頭をよぎった瞬間、ひやりとした感触が僕を襲った。真昼の太陽が頭上にあるのに冷気が全身を包み、濃霧のように凝結して皮膚に貼りついた。体が震え出し、紙袋を提げた手で二の腕をさすっても止まらない。視界はみるみる白く曇っていった。

霧だ! 白い霧が僕を呑み込もうとしている!

思わずあげた声にならない絶叫は、前を歩く妻の脇を通り過ぎて人混みの向こうに消えていった。

2017年8月1日公開

© 2017 藤城孝輔

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"パリの蠅たち"へのコメント 6

  • 投稿者 | 2017-08-08 07:56

    ディープキスがキムチとクスクスの味というのは、個人的に最悪の風味だなと思った。印象的だった。
    最後まで読めて、不快感もなかったので、この作品は面白かったのだろう。

  • 投稿者 | 2017-08-08 22:25

    同じく合評会に応募した者です。
    蠅のメタファを、私は印象的だと思っています。
    自分とは全然違う雰囲気の作品を拝読出来て、勉強になりました。

  • 投稿者 | 2017-08-14 22:06

    メタファーがうまいですね。ただ最後はよくわかりませんでした

  • 投稿者 | 2017-08-16 21:01

    抱き合った男たちを夢に見そうです。
    よくまとまってる感じはするんですけど、“パリ”と“テロ”のキーワードを考えながら読むと、ちょっと違う気がしました。
    今回のテーマが“蠅”だったらよかったのかもしれませんね。

  • 投稿者 | 2017-08-19 17:47

    主人公は同性愛者なのかと思って読み進めていたらバイセクシャルらしいということがわかりました。パリを蠅の街だと言ってしまう攻撃的な文章が魅力的でした。パリの街の情景が描かれていて美しくて素晴らしいです。
    ただ最後の白い霧がよくわからなく、もう少し前に話を終わらせていた方が良かったのではないかと思いました。話の最後は印象に残りやすいので、そこだけ残念でした。

  • 投稿者 | 2017-08-19 22:43

    主人公とイマの関係は、アルジェに関する出来事やパリへの思い入れに大きな差はあるが、最後まで破綻なく自然に関係が終わる。ルームシェアの雰囲気って案外こんなものなんだろうか。
    この作品では前半で反植民地運動に対する白色テロ、後半で少しだけイスラム過激主義のテロと言う二つのテロが出てくる。後者はちょっと触れられるだけだが、前者にはイマの思い入れあるセリフが語られる。テロは一つだけではないし、蠅は一匹だけでもないのがしっかり分かる。

    これは勝手な想像だが、イマはもう死んでいて、霧はお迎えなのかもしれない。

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