僕は真弓の肩を揺さぶった。
「う、あ、うううううはっはっはっはっき、気持ち悪い……」
真弓は苦しそうに息をしていた。僕はほっとして尻もちをついた。
良かった。意識はある、人形化してない…………。
家は空きやだった。真弓が落ち着くまで居間で休む事にした。男達は追っては来なかった。おそらく僕らを追い払いたかっただけなのだろう。
居間には仏壇があった。白髪の老人の写真が飾られている。僕はチーンと鳴らして手を合わせてみた。未だ、心臓がばくばくしている。興奮と恐怖。足が震えている。僕は大きく深呼吸をする。そして神経を静める。周囲から音が消え、部屋の静寂がやっと耳に響くようになってきた。と同時に、休んでいる真弓の荒い息遣いも聞こえ始めた。
「はあっはあはあはあはあはあはあはあはあっあんっ、ああうんあんはあはあはあんん、くっふぅうううふぅううううはああああん」
「……………………」
「……………………」
ムクムク。
やあ、こんにちは!
下半身がえらい事になってしまった……。何をしてるんだ僕は。
顔が火照ってしまう。僕は手を合わしたまま振り返らず、すり足蟹の様に居間を出て隣室に腰を降ろした。
「ねえ、悠人」
「ん? もう平気?」
「うん、ありがとう…………」
真弓が居間からやってきて僕の前に腰を下ろした。畳が軋む。電気はないのでやはり暗い。僕らは暗がりに溶け込んでいる。
「ねえ……」
「ん? まだ、辛い?」
「ううん、そうじゃなくて。あの娘……」
あの娘。さっきの、腕を刺されてレインコートを脱がされた娘の事だな。
「大丈夫だったかな…………」
だいじょばないよ。多分、今頃は人形になっちゃってて、彼らの性玩具になっていると思う。
「やっぱり、人形に…………」
「………………うん」
真弓はふうぅうとひとつ息を吐いた。
「私、動けなくて、なんにも、できなかった……」
「僕も、そうだよ」
「ねえ、なんで? なんであんな事ができるの? こんな状況下なのに、助け合わなくちゃいけないのに」
「こんな、状況下だからだよ。本質的な部分が出る」
「それが、あれなの?」
「そう」
「なんなのよ、それ。そんなの、人間じゃない……」
「………………」
畳に染みが出来ていく。ような気がする。暗くてよく見えないけど。真弓の今日二回目の涙。僕はその姿を見ながらぼんやりと思う。
彼らの姿は、ある意味僕には清々しかった。彼らは自分の欲望に忠実に生きている。人に迷惑を掛けようがおかまいなしに。
そして、それは僕にはできそうもないことだった。
「私、悔しい、なんで、動けなかったの……」
「…………」
「もしかしたら、早紀もあんな人達の家で……。あんな奴ら、いなくなっちゃえばいいんだ。ねえ、そう思うでしょ、悠人?」
「え?」
「あんな奴ら、いなくなれって」
「………………」
真弓は燃えるような瞳で僕の眼球を捕らえ、同意を求めてくる。なので、僕は言ってしまった。
「うん、もちろん…………」
ああ、僕はまた嘘をついた。
「そう、そうよね。うん」
真弓は涙を拭ってあははと笑った。「私、泣いてばっかり、やだなぁ」と笑った。
「しょうがないよ。こんな状況だもん。誰だって不安定になるよ」
「うん……ありがとう」
真弓は僕の手を取った。ドキッとした。そして僕の目を見据えて言った。
「介抱してくれて、ありがとね」
「……………………」
その儚げな微笑み。潤んだ瞳。火照った頬。うっすらとした唇。暗がり。昼下がりの和室。畳。濡れた髪。畳。掌のぬくもり。畳。男と女。畳。畳。畳。畳ぃ。畳っ!
ムクムク。
やあ、こんにちは!
「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもないよ」
あははーと僕は笑った。
「さ、そろそろ行こうか」
真弓は立ち上がり、僕を促した。しかし、僕が立ち上がれるようになるにはいささか時間が必要だった。
「どうしたの?」
「ん? なんだか、足が重くって」
「あ、そうだよね。悠人も疲れてるよね。そうだね、もう少し休んでいこう」
真弓は再び僕の前に腰を降ろした。ホッとした。
真弓は傘を落としてしまっていたので、僕の傘を貸してあげた。僕にはレインコートがある。「ありがとう」と真弓は言った。二人で歩く。真弓に「さっきの人達の所に行ってみようか?」と聞いてみた。気にしているようだったからだ。しかし真弓は俯いたまま答えなかった。意地悪な質問だったのかもしれない。
歩く歩く。真弓の妹の早紀ちゃんを探して歩く。
いないいない。いるわけナッシング。どこかの家のダッチワイフなのだ、絶対に。
気がつけば三時を回っていた。
今日の捜索はそろそろ切り上げても良い頃だ。真弓に聞いてみる。けど真弓は、「私はもう少し探してみる。ありがとう、悠人は先に帰っていいよ。あ、ごめん、傘貸してね」との事だった。
さっきの女性達の事もあって、少し胸の中がぐるぐるしているのかもしれない。これ以上探しても成果は上がらないとは思っているけれど、胸の中がぐるぐるして探さずにはいられないんだろう。けど、さっきの事もある。真弓一人で行かせるのは危ない。
僕は「それなら僕ももう少し」と言った。
真弓は「ありがとう」と微笑んだ。
「でも、あまり頑張りすぎるのも良くないよ。満足に食べれてなくて体力落ちてるんだから」
「うん、わかってるよ。ありがとう」
とまた真弓はお礼を繰り返した。
今日の一件でよく分かった。今まで真弓を一人で探しに行かせていたのは間違いだった。明日からは僕も真弓と一緒に探しに行く事にしよう。
「あ、ねえ、あれって高橋君じゃない?」
真弓が僕の袖を引っ張った。前方から男が歩いてくる。その男はずんずん近づいて来て僕達の前でピタッと止まった。
「悠人。元気か?」
高橋は僕の肩にぽんと手を置き爽やかにそう言った。高橋の傘の先端が頭に当たって僕は後ずさった。
「お、悪い」
ははっと高橋は笑った。僕は「まったく……」と苦笑いをした。
「悠人、高橋君と知り合いなの?」
真弓が僕と高橋の顔を見比べて目を見開いている。僕は頷いた。
と、高橋が真弓に言った。
「ああ、木下真弓さんね。悠人と春美ちゃんと仲良かった子でしょ? 知ってるよ」
真弓は「へぇぇー」と意外そうな顔をした。それから高橋の顔を見て微笑んだ。
「私も高橋君の事は知ってるよ。話した事はなかったけど、よろしくね」
「こちらこそ。悠人と真弓ちゃんは小さい頃からの付き合いなんでしょ?」
「うん。今も2人で春美……と私の妹を捜してたところ」
「そう。でもそろそろ暗くなりそうだし、暴徒に出くわすと怖いから切り上げた方が良いよ」
「わかってる。忠告ありがとう。でももうちょっとだけ」真弓は微笑んだ。
「そう、なら俺もついて行くよ。俺も春美ちゃんの事心配だし。な、悠人?」僕は急に振られて何故だか意味もなくたじろいでしまった。
「高橋も? いいけど自警団の仕事はいいの?」
「今、見回りに来てたんだ。その仕事と似たようなもんだし大丈夫」
「あ、高橋君てやっぱり自警団に入ってるんだ」と真弓。
「うん。兄貴が団長……っていうかまとめ役やってるしね」
「高橋の家は叔父さんも市長だったし、お兄さんもその補佐をしてたしね。高橋も西高生徒会長だし。一家で根っからのまとめ役気質なんだよ」と僕が補足。
でも「そんなの、知ってるよ」と真弓。
ちなみに高橋のお兄さんと僕は旧知の仲だ。高橋とは高校からの付き合いだけど、お兄さんとは付き合いが長い。
「うち、空手道場もやってるしねぇ。なにかと頼られちゃって」と高橋が笑う。
実際、高橋の空手の腕前はたいしたものらしい。詳しくは知らないけど、どこぞの大会で優勝したとかいう話はしょっちゅう聞く。
「なら、心強いね。ありがとう高橋君」
「別にいいよ。じゃあ行こうか」
歩き出す高橋。大きな黒い傘がゆらゆら揺れて滴をまき散らす。
「ねえ悠人」
真弓が歩き出した高橋に気づかれないよう僕に話しかけてきた。
「何?」
「高橋君、やっぱり格好良いね」
真弓が「んっふっふー」と笑った。
「うん。カッコマンだよね」と僕は返した。
事実、高橋は長身でスタイルも良く、端正な顔だちをしている。しかも生徒会長で空手部主将。成績も優秀。才色兼備申し分なしの男。それが高橋健二なのだった。
すごひ。
三人で水溜まりをぱしゃぱしゃ跳ね上げて歩く。
というか水たまりでない所などほとんど無い。下水口が機能していないのだから。実際、もうここまでくると浸水と言ってしまってもいいのかもしれない。至る所で水が溜まっている。その上に人形が転がっている。人形達をせめて水びたしにしないよう近隣の家に運んであげてる人もいるらしい。
「今日は土砂降りだね」と高橋が言った。
「うん。珍しいね、ここまで降るのは」と真弓。
「まだ僕はいつもの雨のがいいよ」と高橋。
「誰だってそうだよ」と真弓。
「僕はこんなにひどい雨も嫌いじゃないけど。むしろ好きかなぁ」と僕。心の中で。
言えない。
でもまあ、確かに街に悪影響が出るのは良くないよね。
「太陽って、実はありがたい存在だったんだね。気にもとめてなかったけど、今ではとにかく太陽が恋しいよ」と高橋。
「うん、ほんとだよねぇ」と真弓。
「……………………」と僕。
高橋と真弓は二人で話をしている。僕はその姿を後ろから眺めてぼんやりと思う。
会話には流れがある。例えばさっき高橋が「いつもの雨のが良い」と言って真弓が「誰だってそうだよ」と言った後、僕が「でもこの土砂降り、好きだけど」と言ったら、それはそれまでの流れ、会話の文脈に齟齬を起こしてしまう。求められている発言ではない。微妙な空気が流れるだろう。もしかしたら二人は僕に合わせてくれるかもしれないが、内心、「そこはその発言違うから」と思う事だと思う。だから僕は言わなかった。
多分会話の文脈を読むという事は「空気を読む」という事に近いと思う。皆から求められている台詞を選び出し、その場を良い雰囲気に導く。それが空気を読むという事。日常生活では誰もがこれを強いられる。本当は違う事を思っていても、皆に合わせる為に自分を殺して意見したり同意したりする。時には面白くないと思っていても合わせて笑ったり。
それってどうなんだろう。僕は高校ではあまり喋らず、友人と呼べる人間はごく僅かしかいなかった。もちろん話しかけられれば喋るけど、僕から喋りかける事は滅多に無かった。いつも皆が楽しそうに会話しているのをぼんやり見ながら思ってた。本当に、その会話、面白いと思ってる? と。
それってどうなんだろう。そんなの余計なお世話だってわかってるけどさ。こんな事考える事自体が稚拙だってわかってるけどさ。
結局僕はその輪の中にはいなかったわけだけれど、あまり入りたいとも思ってなかったのかもしれない。うーん。
「悠人」
「ん?」高橋が振り向いて話しかけてきた。
「さっき、強姦があったのか?」
真面目に聞いてくる。僕がぼやっとしている間に真弓が話したみたいだ。
「あったよ。女性二人が、男性二人に暴行されて、空きやの中に連れて行かれてた。多分、強姦目的。一人はもしかしたら人形にされてしまったかもしれない」
「そうか…………」高橋は険しい顔つきになった。
「自警団も、人数足りてないし、色々と大変なんだ。暴徒と化してるような連中がいるのはわかってるけど、その問題まで手が回ってないのが現状だ。ごめんな…………」
「何で僕に謝るのさ。自警団の人達はよくやってるよ。この、世界の終わりのような状況でちゃんと統率をとって皆を導いてる。すごい事だと思うよ。自警団がなかったら、皆、絶望のどん底で、街はもっと悲惨になってたと思う」
「うん。そうだよ」と真弓も強く同意する。
「いや、ああ、うん。ありがとう」
「高橋は正義感が強すぎるよ」
「そんな事ない。皆の為に俺は尽くしたいんだ」と高橋。
その言葉に嘘偽りは微塵も感じられない。実際今までもそうやって生きてきたのだ。まるで正義の味方のような高橋なのだ。
すごひ。
「うん。高橋のそういう性格は分かって――」
と、前方の角を曲がって誰かが走って来るのが見えた。男だ。眼鏡を掛けている。
「ひゃああああああああああああああっ!」
レインコートに長靴のその男はどてっと転んだ。そして続いて角を五人の男達が曲がって来た。皆フルフェイスのヘルメットにレインコート、長靴に手袋、そして手にはナイフやら金属バットを持っている。さっきの男達だ。
一人の男が眼鏡の男の上に馬乗りになった。眼鏡の男が泣き叫んでいる。
「やめ、やめてくれぇええええええええっ!」
「あ」
よく見たら眼鏡の男はクラスメートの谷君だった。間違いない、背格好も谷君だ。男達はまだこっちには気づいていない。逃げるなら今だ。でも、見殺しにはできない。どうする? どうしよう?
僕の足はガクガクと震え始めた。呼吸も震え始める。
「ひゃあああっ!」
と、耳をつんざく真弓の悲鳴。その視線の先、男達の内の一人が「人間の腕」を手に持っていたのだ。いたのだ。いたのだ!?
「おうわああああああああああああっ!」
僕も叫んだ。
おうわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
男達がこっちに気が付いた。三人の男が駆けて来る!
「ま、真弓ぃ!」
僕はとにかく真弓の腕を引いて走り出した。真弓は足をがくんがくん折りながら付いて来た。必死に傘を抱えていた。
と、高橋が付いて来ない。僕は焦った。
「高橋ぃ!」
高橋はその場で男達と対峙していた。一人の男が高橋にナイフを突き出した。高橋はそれを傘を盾にして防いだ。ナイフが弾き飛ばされる。
「おおおっ!」
高橋はその男のみぞおちに突きをぶち込んだ。男は腹を押さえてうずくまった。
他の二人はおろおろしていた。まさか反撃されるとは思っていなかったのかもしれない。と、谷君に馬乗りになっていた男が気が付いて走って来た。二人の男はその男の方を見た。その隙に高橋は一人の男のバットを蹴りで叩き落とし、返す刀で腹に廻し蹴りをぶち込んだ。そしてその男は腹を押さえてエビになった。
隣の男が間髪入れずに金属バットを高橋の背中に振り降ろした。高橋は気配を察していたのか傘をさっと投げ捨てて避けた。傘が落ちる。そして男の背後に回り背中に突き。男がむせている間に股間を蹴り上げた。男は股間を押さえてエビになった。
三人エビになっている。残り二人。
馬乗りになっていた男がもう一人に指示を出し、高橋を襲わせた。
その男は持っていた『人間の腕』を高橋に投げつけた。傘を拾おうとしていた高橋はその腕を頬に喰らって、
「ひゃああっ!」
とそれを払い落とした。と、男はそのまま高橋にナイフを繰り出した。
高橋は蹴りで弾き飛ばそうとしたがうまくいかずにそれが右足に刺さり血が滲んだ。歪んだ表情のまま男のヘルメットを掴み、もう一人の男にぶん投げた。
そして高橋は倒れた。雨に打たれすぎたのだ。
二人の男はもつれ合って倒れた。と、真弓が金属バットを拾っているのが目に入った。
「真弓っ!」
僕は走った。
「きゃあああああああああ!」
真弓は倒れている二人の背中をガンガン叩いた。僕は高橋を渾身の力で持ち上げて目の前の本屋の中に運んだ。
「きゃあ!」
真弓の叫び声が聞こえた。僕が外へ飛び出ると真弓が倒れていた。傘が転がっている。二人の男が立っていた。このままでは人形になってしまう!
「真弓、本屋の中に入ってろ!」
真弓の潤んだその瞳。何かを哀願しているみたいに。
「お願いだからっ! うざいから!」
真弓は僕の心からの願いを聞き入れて腕を押さえながら本屋に入った。
「わああああああああああああっ!」
と、谷君が自転車に乗ったまま後ろから突っ込んだ。一人は肩に接触し、吹っ飛んでフルフェイスヘルメットを激しく地面に打ち付けた。でも谷君も転んで自転車と絡まっている。捨て身の攻撃なのだった。
「何の騒ぎだっ!」
と、本屋の中から太った中年男性が出てきた。空き家ではなかった、人がいたのだっ!
「何してんだお前らっ!」中年男性が怒声を発した。これは幸運!
「谷君っ!」
僕は谷君に駆け寄り立ち上がらせ、手を引いて本屋の中に駆けた。ありがとうおじさん!
「何故うちに入る!」
おじさんは横を駆け抜けようとした僕にラリアットを喰らわせた。めり込み息が止まる。僕は外に吹き飛んだ。き、気管がっ!
「ご、ごほっほほっほっごっほっ!」
涙がドバッと出た潤んだ眼で見ると、本屋の中では谷君が中年男性に胸ぐらを掴まれていた。
途端、脇腹に激痛が走ると同時に『ゴンッ』と鈍い音を聞いた。
「ぎっ!?」
一人無事だったフルフェイスの男が僕の背中に金属バットを叩き付けたのだ。僕はむせて涙目でもうわけがわからなくて転がるように逃げた。その男は追ってきた。僕は何回ももつれ転び逃げた。足が震えて力が入らなかった。雨が顔に当たる。僕はレインコートの顔を覆う透明のシートを降ろした。そうしたら雨が打ち付けて前が見えにくくなった。涙との相乗効果でもう視界はぐちゃぐゃでなんにも見えない。鼻水もすごい。息がくるちい。僕は必死に逃げて逃げて逃げて転んで途端、緊張の糸が切れて諦めてしまった。
「ぴゃああっ!」
顔をしわくちゃにしながら振り返った。もう追っては来ていなかった。
一時間程空き家で休んでいた。ガタガタと震えが止まらなかった。
脇腹が痛くてたまらなかったが、一時間もしたらなんとか収まってきた。それで戻る事にした。
「ぐっ!」
立ち上がるとピキッと背中が痛んだ。でも、なんとか歩けたので本屋を目指した。
恐る恐る本屋に戻った。暴漢達はいなかった。
「悠人っ!」
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