童子拝観音

応募作品

藤城孝輔

小説

3,640文字

合評会2016年12月(テーマ「スポーツエリートがグレたあと恩師と再会し、『戻ってこい』と言われた」)への応募作です。3万円ください。

アパートに戻るとヤン老師が僕の帰りを待っていた。深夜にもかかわらず、疲れた顔一つ見せずにドアの前で瞑想にふけっている。胡坐をかいた姿勢の全身を二本の人差し指だけで支えているので地面から少し浮いて見えた。
「亮介か。通夜の席でおばあ様からここの住所を聞いた。昼過ぎから待ったぞ」と、ヤン老師は言った。
「すみませんでした、老師。でもどうしてまた急に?」
「話は明日だ。もう寝かせろ」
部屋に入ると、ヤン老師はすぐさま六畳間の真ん中を陣取る万年床に横たわって目を閉じた。寝息は聞こえないものの、白髪の口ひげがわずかに揺れることで生きていると分かる。
六年ぶりに会った老師は以前と変わった様子がまったくない。僕が山奥の庵でカンチョー・マスターになるための教えを受けていた頃のままである。それに引き換え、僕はこの六年間で背が伸び、声も顔つきも変わった。三年前に両親が離婚して一人暮らしになった。高校は中退。遊びは風俗からギャンブルまで一通りおぼえた。かつて日夜カンチョーの技を磨いた指は、もっぱら盲牌とスロット打ちに使っている。鏡を覗き込んでも、クラスメイトの肛門を不意打ちすることに熱中していた昔の面影は既にない。
祖父が脳卒中で急死したという知らせは携帯の留守電に入っていた。それでも葬式に出るつもりは最初からなかった。故郷は小さな町である。町の中で、ヤン老師が僕のために編み出してくれた秘技「童子拝観音」の洗礼を受けたことのない子どもはいなかった。僕が県大会を最年少優勝したこともみんなが知っている。かつて町全体の期待を背負っていた僕は、今ではその期待を裏切った張本人である。今さら葬式なんかに顔を出しても気詰まりな空気になるのは目に見えていた。
故郷を出る直前、商店街の人たちがうちの噂をするのを聞いた。
「亮介ちゃん、また喧嘩で停学ですって」
「アジア大会に出るのも夢じゃなかったのに……。そもそも家庭環境がまずかったんだよ。母親があんな尻軽女じゃ、年頃の息子がグレるのも当たり前だ」
「隣町の年下男と駆け落ちしたらしいわね」
母が男と逃げたのは父に長年殴られ続けた末のことである。中学生だった僕にもそれは分かっていた。愛想のいい教育者の外づらに隠れた恐ろしい父の素顔。父の気分の変化に母はいつも怯えていた。小学校に上がったばかりの僕がヤン老師の庵に入り浸るようになったのは、学校から家にまっすぐ帰りたくなかったためでもある。白樺の木々に囲まれた庵では、大人の問題に巻き込まれる心配はなかった。
僕が部屋の隅で目を覚ました時、ヤン老師は既に床を離れ、小枝のように細長くて固い両人差し指を僕の肛門に突き立てていた。
「隙だらけだな。寝ているあいだも気を緩めるなと教えたろう」
「いい加減にしてください。カンチョー・マスターへの道はとっくに諦めたんです。ずっと練習していないし、尻にも毛が生えました」
「道は願えば自ずと拓けるものだ。自分で自分の器を決めず、昔のように無心で観音様に拝めばいい。そうしていれば、進むべき方向は示される」
「精神論はいいですから、そろそろ指を抜いてくれませんか? 朝ごはんにしましょう」
僕はトーストとコーヒーだけの簡単な朝食を用意した。ヤン老師には和食がいいかと思ったが、冷蔵庫にほとんど何も入っていないのだから仕方がない。老師は文句を言わずに出された物を食べてくれた。
「それで今さら何ですか? 祖父の葬式に出なかったことで叱りに来たわけではないんでしょう?」
「お前が童子拝観音を封じ、わしの元に来なくなったのは六年前のことだ。お前は中学一年だった」
「小六です」
「まあいい。あの時修行をやめなければ、間違いなくわしを超えるカンチョー・マスターになれたはずだ」
「どうでしょう。僕の才能なんてたかが知れていましたから」
「才能がなかったというのは間違いだ。わしが保証する。何だったら今からでも庵に戻ってこい。また一緒に童子拝観音を極めよう」
「……できません。六年前、童子拝観音は破られたんです」
「誰に?」
「天空太郎って奴、憶えていますか?」
唐突に出た名前にヤン老師は首を傾げた。
「ほら、父子家庭で東京から来て、ニュースになった……」
「ああ思い出した。あの可哀そうな子か!」
小六の春に転校してきた天空太郎はいつもボロボロの服を着ていた。袖や裾は擦り切れ、色褪せたシャツには穴が開いている。父親と二人暮らしだというから服にまで気が回らないのかもしれない、と周囲の大人たちは噂していた。クラスメイトは最初服装のことになど気づいてすらいなかったのに、大人の噂話を聞いて彼を白い目で見るようになった。
太郎がクラスに溶け込めなかったのは、よくおならの臭いを漂わせていたからでもあった。女子は彼に近づくのを露骨に嫌がり、男子は「すかしっ屁太郎」とからかった。確かに彼の席の近くに行くといつもおならの臭いがしたが、本人は気づいていないのか何も言わなかった。悲しげな表情に口元だけの薄笑いを浮かべ、他の生徒の仕打ちに黙って耐えていた。
僕は自慢の童子拝観音を太郎にお見舞いする機会を狙っていた。童子拝観音は決して相手を貶めるための技ではない。こちらが無心になって技を繰り出すことで、人差し指を介して相手の心と自分の心が一つになる。そうすることで自分と相手のあいだにあるあらゆる敵愾心が解け、心に平和が広がっていく。童子拝観音の力でクラスの中にある見えないわだかまりを一気に解くことができると僕は信じていた。
その機会は、ある日太郎が日直当番で黒板を消している最中にやって来た。童子拝観音は、相手の後ろに回り込むと一旦かがんで姿勢を低くした上で指を上に突き出す。ばねを収縮させるように身をかがめることにより全身の力を指先に込めることができるのだ。
「幼子が観音様を拝むように無垢な気持ちで指を出せばよい」というヤン老師の言葉が意識を集中させた脳裏によぎった。背伸びしてチョークの字を消す太郎の背後に忍び寄った僕は、叫び声を上げながら彼の尻に向かって指を突き上げた。
「必殺、童子拝観音!!」
着古して薄くなったズボンの生地は下着ともども簡単に破れた。紫色のあざがおびただしく斑紋のように浮かぶ尻がむき出しになった。力いっぱい突き出した僕の両手は尻の谷間の暗闇の中へするりと消えていった。暗闇は手首を呑み込み、腕に食いついた。指先に感じる温かい直腸の感触は柔らかく湿っていた。彼の中にどこまでも広がる暗闇の中へこのまま全身が引き込まれてしまうのではないかと僕は戦慄した。
「童子拝観音、破れたり……」
振り返ってそう呟いた太郎の皮相な笑顔を僕は今でも忘れることができない。体の内側に絶望を宿したまま表皮一枚だけで笑う、虐げられた者の笑いだった。
僕と太郎は隣町の総合病院に救急搬送された。僕は両人差し指の骨折と手首のねんざで入院、太郎には肛門の応急処置と腸内の消毒が行われた。後で人から聞いた話であるが、彼の肛門は何年も前から少しずつ押し広げられていったものであったという。最初は小指の先、次に人差し指、親指が入れば二本の指という具合に徐々に幅を太くしながら指を挿入し、穴を開いていく。病院に運ばれてきた時には大人の腕が肘まで入るほどになっていたらしい。彼が常に悪臭を垂れ流していたのは肛門が緩んでいるせいで腸にガスを溜めておけなかったためであった。太郎が長年にわたって父親から受けていたこの虐待行為にフィスティングという名前があることを僕はのちに知ることになる。
僕が退院して学校に戻った後も、太郎が戻ってくることはなかった。父親が逮捕されたことで、別の町にある児童養護施設に引き取られたためだ。僕は指の傷が癒えても元の無邪気なカンチョー少年に戻ることはできなかった。童子拝観音が破られたあの日、夢中で修行を続けるために必要な何かが失われてしまったのだ。僕が引き込まれそうになった太郎の体内の暗闇は、僕の心の純粋な部分を吸い取ってしまったのかもしれない。
話を聞き終えたヤン老師は、コーヒーをすすって口を開いた。
「亮介、わしが童子拝観音をお前に授けたのはなぜだか分かるか?」
僕は首を振った。
「慈悲深き観音様は不幸な子どもを必ずお救いくださるからだ。あの頃家の中に問題があったお前には親に代わる存在が必要だった。親に恵まれない子どもや、虐待を受けた子どもの親代わりになって観音様は見守ってくれている。どんな子にも今日のような美しい朝が来るのは観音様のご加護に他ならない」
確かに穏やかな朝だった。柔らかい朝日が窓辺を照らしている。アパートの前の通りからは登校途中の小学生の笑い声が聞こえてきた。僕は人差し指を天に向けて両手を組み、観音様に祈った。この世界にいるすべての子どもが幸福であるように。絶望の夜の後にも平和な朝を迎えられるように、と。

2016年12月15日公開

© 2016 藤城孝輔

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"童子拝観音"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2016-12-16 01:38

    ギャグのようなネタを大真面目に書いたのは評価できますが、ネタが全体的に滑っていて、作者と読者が楽しさを共有できていないと感じました。
    客観的にカンチョーについて突っ込むような常識人の登場人物が出てくれば、読者も話に入っていきやすいように思いました。

  • 投稿者 | 2016-12-22 02:31

    カンチョーをカンフー、武術と見なし、心の闇、子供の救済にまで話を広げられるのは良い展開。こう言うのにはコロコロ・ボンボンみたいなジャリ向けギャグネタ(またはそのメタ)にした雰囲気が漂いそうだが、この小説にはあまり感じられず静かに話が進む。評価が分かれる所だと思うが、人が救われる展開ならこれで良いだろう。ただ、師匠あたりには静かなりに物騒さも出して欲しいところだった。

  • 編集長 | 2016-12-22 12:09

    設定で差別化を図っていることが大変好感を持てる。また、天空太郎のくだりから急に深刻になりつつ、べつに解決していないのも良い。

  • 投稿者 | 2016-12-22 12:37

    この小説は、始終、ギャグ要素(もしくはコメディ要素)がスベっている。間違いない。この作者さんは、意図的にこういう寒いギャグを連発しているのだ。新潟に住む私がこの小説を読んだときちょうど初雪が降ったが、そんな私を凍えさせようとしてこの小説を書いたのだろう。お見事、星4つ。

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