――と、そこまで書いてから三日後、私は宮崎達治にファックスを送った。尊文に就いて何らかを書けば書くほど、私の筆は懐疑と妄想の方向に向かってゆくけしきであり、こうなるともう一生かかっても真実に近づかない気がして、誰でも好いから話を聞いて貰いたかった、と云うのが正直な処である。私は、送った紙の中に、お力になれるかどうかは判りませんが、私も尊文の研究をしている身であり、むしろご意見を伺えればとおもっております、と云う風な事を書いた。果たしてその返事は当日の晩には返ってきた。私たちは日にちを合わせ、十一月の頭に自由が丘の喫茶店で会う事になった。
次の日、市民ホールの館長から、上田秋成に就いての講演が流れる事になったとの連絡を受けた。館長は申し訳なさそうにしていたが、しつこくも、宮崎に連絡はしたか、と問うて来た。
宮崎氏と会う一週間程前から、私の元に様々な執筆依頼が舞込んで来た。無論、尊文に就いての物など一つも無い。一つは、田山花袋の後期の仕事に就いてのエッセイであり、一つは、中村一義の日本語詞に就いての考察であり、一つは、松本清張と森鷗外に就いての随筆であり、一つは、「源氏物語と宿世」と云うテーマが予め設けられた評論であった。一方で、共同通信社で三週に一回のペースで連載していた書評が終了する事になった。担当者は、「毎回、大変好評ではあるのですが、どうもここのところ、我が社の方針とのズレが目立ちまして……。」と、奥歯に物が挟まった風の物言いをした。私は幾分落ち込みはしたが、純文学関連の仕事が幾つも舞い込んで来た喜びの方が勝って、特に其れに関して深く考える事をしなかった。しかし、宮崎氏と会う前日の夜、目覚まし時計をセットし、床に着いてジッとしていると……、やはり尊文である。尊文の顔がはっきりと浮んでくるのであった。
――俺は宮内庁御用達の作家だ。
十年程前の話である。初めて尊文と対談した折、その打ち上げに新宿の文壇バーで一緒に呑んでいると、酒が回ってきたのか、突如として声を荒げ、出し抜けに尊文がそう言った。その時私は、苦笑して、相手にしなかったのだが、クナイチョウゴヨウタシノサッカと云うカタカタとした語感が妙に耳に残って、後々まで時折リフレインする事になった。前後の文脈は記憶に無い。
"岡本尊文とその時代(七)"へのコメント 0件