「それがですね、トイレがないらしいんですよ」
青年は楽しそうに、数日後に泊まることが確定している知人宅についての不安を述べた。
古民家はあまり得意ではないのだろう。
山奥の収容所の部屋とどちらがマシか、それはあまり議論をしても仕方がないが、ただ、バス・トイレ付きな点だけは、ここの方がだいぶ上等であるとは言える。よかった。
「トイレがない賃貸住宅なんてありえない。共同のはあるのだろう」
「かもしれないですが、わかりません」
軽く語尾を跳ね上げる独特のイントネーション。断言しているのか、聞き返しているのか、ちょっとわからないが、どちらでもいいので気にしてはいない。音感は心地よい。だいたいそのあとに笑い声が続く。ジョークのときはそうなるのだ。
「楽しいですか?」
このイベント中、なんども聞いた。
「楽しいですよ」
なんどもそう返事が返ってきた。
実際我々はエンジョイしていた。チームの四輪は噛み合っている。有機的に動けるいいチームだ。だがしかし、とにかくトラブルが多い。
配線キックで何度も泣いた。
ちょっといろいろあって葬式ムードにもなった(何もなかったんだけど)。
データが壊れて電子書籍を何度も作り直した。
テーブルが崩れた。
その中の極めつけは、彼が上京してきたときと同じ重量の荷物を送り返すということだ。
前回、同じチームになったふくだりょうこの作品が審査員に選ばれなかった。
そういうこともある。五人しか審査員がいない中で、好みで小説作品を選ぶとなれば、11人は選ばれない。そこに優劣はない。あるのは運だ。
運のなかったふくだりょうこは、不運を涙で洗い流し、1ヶ月後の栄冠を勝ち取った。
ぼくにとって青年は、ふくだりょうこだ。このままでは済まさない。
青年の知人あるいは友人もまた、前回同じイベントに挑戦し、玉砕を経験した。そこにあったのもまた、運であり、不運であった。
その友人は1ヶ月後、異なる価値基準によって、あるべき地位を正当に得るに至った。もっとも本人はまったく望んではおらず、授賞式にも現れることはなかった。いや終了ごろに顔だけだしたのだったか。どちらでもいいことだが。
翌朝。荷物をまとめて朝食を取っていると、約束通り青年は食堂に現れた。
もう少し落ち込むかとも思ったが、いつもと変わらずひょうひょうとしている。
別段、なにかに当たるでもなく、失策を悔いるでもなく。
かといってあるがままを受け入れるというわけでもないように見える。
ぼくは雑談を交わしながら、昨日彼が作り上げた物語を思い返していた。
名もなき主人公は、富豪である。世界をまたにかける投資家だ。
幾人もの妻を抱え、世界中どこでも自由に自宅に帰れるというサービスを受けて暮らしている。
何を言っているかわからないだろう。これは現実の物語ではない。SFの類なのである。
近未来。しかし技術レベルは現代と変わらない。少し違うのは、医学の倫理観ぐらいのものである。
人々は、世界中を駆け巡っても、ドアをくぐればいつもの自宅に戻るという課題をクリアするために、クローン技術を応用したのだ。
各国の好きな街にマンションを買う。そこに同じ女性から作ったクローン人間を配置する。それが妻たちだ。
妻たちはお互いにテレビ会議などで連絡を取り合い、その夫がどの国のどの街のどの家に帰ったとしても、でかけたときと寸分違わない日常生活を提供してくれるのである。
これが〈クラウドハウス〉という新時代のハイソサエティなライフスタイルだという。
そして合理主義の主人公は、これを所有するのではなく、サブスクリプションで契約するというのだからこれは便利である。
なにしろ同じ顔の妻が何人いようと、飽きたら解約して、別の妻たちを迎えればいいのである。
夢のような物語。
青年はゆっくりを食事をとる。ガツガツ食べるくせのある私とは違うようだ。
私は結構食べこぼしが多く、あまり早くたべるものだから胃が荒れる。彼を見習ったほうがいいかもしれない。
彼の向こう側には体育会系の学生と思しき集団が、私のようにガツガツと食事をしていた。
名もなき主人公は、失脚し、妻たちの家を追われる。
そうして流浪が始まるのだ。一転惨めな生活を送るはめに会うのだが、主人公はしたたかに状況に慣れていく。
そして運命の出会い。
彼らは性別も世代も越えた新たな家族となって旅を続ける。
という物語だ。
だいぶ伏せているので何もわからないだろうが、それは買って読めば済む話だ。
『川の先へ雲は流れ』
https://bccks.jp/bcck/156976/info
どうだろうか。よくわからない?
それならもう一度読むといい。解決する。
青年を池袋の雑踏に残し、浅草橋の事務所へと帰る。そして長考。
「しかし、これを布教するのは骨だな」
思わず口に出てしまう。
ぼくはこの作品が審査員に突き刺さらなかったことが気がかりだった。
この作品は、スピードを落とさなければ見ることができない風景が仕込まれている。
短時間で16作品を審査するような状況にはマッチしないのだ。
だが、それでも彼の美意識はこの作品の完成度を選択した。そこに妥協はなかった。
与えられた時間でベストを尽くし、その条件下で最も理想に近い作品を作り上げた、とぼくは思っているし、そう感じることができた。それは今、ぼく以外の読者もそう思っていることだろう。
翌々日、空港で彼を捉えて話をした。
「間に合ってよかった。話がある」
「どうしたんですか?」
「英訳しないか」
「英訳?」
「そうだ。きみは英語が得意なのだろう?」
「そうですが、私は英→日が専門ですよ」
アナウンスが流れる。彼の乗る飛行機の搭乗が始まるようだ。
翻訳する場合、ネイティブがアウトプットを担当するのがベストである。
確かに彼がやっても英語化はできるかもしれないが、そのレベルの作品は、彼の美意識が許さない。
英語版は英語ネイティブに委ねなければならないのだ。
「つまり、ネイティブの翻訳者が見つかればいいということなんだね」
「そういうことです」
ぼくは、その場で知人に問い合わせて1万字の日本語小説を、英語にした場合の費用感を聞いた。
返事はすぐに来た。最新のレートは問い合わせないとわからないが、数年前で1文字あたり、0.06カナダドル。日本円で約6万円ほどだろうという。
「6万円ぐらいあればなんとかなるそうだ」
「手が届きそうで、届かなさそうな金額ですね」
「そうだなあ。オーディオブックにもしたいからその費用もあるし、なかなかね」
「やれやれですね」
ぼくたちの戦いはまだ続くが、前途は多難なようだ。
「では元気で」
「ええ。がんばりましょう」
握手をして、青年は搭乗口へと消えていった。がすぐに戻ってきた。
「いい忘れていたことがあります」
「どうしたんですか?」
「昨晩まで泊めていただいていたお部屋なんですが」
「ああ、大変なところだったとか」
「いいえ、とてもいいところでしたよ」
「ほうほう。やはり文豪になる漢は違うわけだね」
「ええそうです」
「そうだろうね」
「そうなんです」
じゃ、と青年は踵を返して、今度こそ搭乗口に向かっていった。
姿が見えなくなるところで振り返って、手を振りながらこちらに何かを聞いている。
「いくらでしたっけ?」
「ああ、6万円だ」
「6万円ですね」
「そうだいたい6万円ぐらいが相場だそうだ!」
「そうなんですね!」
「そうだ!」
「また来ます!」
そう言って青年は今度こそ本当に飛行機で、南の空へ飛び去っていった。
ぼくたちの戦いは1月末まで続く。
前途は多難だが、きっといいことがあるだろう。
破滅派よ永遠なれ!
藤城孝輔よ世界にはばたけ!
栄冠を君に!
ところで高橋文樹さん、折り入ってお話があるのですが、お時間いただけますか?
すぐに済みます。お手間は取らせません。ええ。
あ、十四号ありがとうございました。いつものように素晴らしい出来栄えです。
とても。あ、いやいや。お世辞なんかではないですよ全然。まったくもって。
続く。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-01-21 22:07
藤城さんの人柄や創作への想いが良く伝わるルポだと思います。
『情熱大陸』のテーマ曲が脳内に流れました。
ただちょっと作品の宣伝感が強い気がしました。
長崎 朝 投稿者 | 2019-01-24 18:38
ジャンルが「ルポ」になっているのでそのように読みました。藤城さんの人柄や、ノヴェルジャムでの奮闘、彼とのやりとりが淡々と綴られていて、微笑を誘うようなようなところもあってよいが、全体的にあっさりしている気もしました。藤城さん自身のノヴェルジャムに賭けた思いや、執筆中の横顔なんかがもう少し見えたらよかった(表に出さない方なのだろうと想像しますが)。藤城さんには会いそびれてしまったが、少し距離を縮められたような気がします。
Fujiki 投稿者 | 2019-01-24 21:18
無数に分岐する並行世界ではこれも一つの現実だと言えよう。主人公の青年の「知人あるいは友人」(私は後者だと思っているが、相手が同じように思っている確証はない。小説家の言葉なんて大体出まかせだ)が所有する犬小屋は、その世界においては文明人が快適に宿泊できる環境であったに違いない。青年はその部屋に宿泊し、今ごろはまったく違う人生を歩んでいることだろう。我々の生きる世界とは別の世界。そこは、ここよりも幸福な世界なのかもしれない。
幸いなことに、そこの世界においても、ここの世界においても、青年の書いた小説『川の先へ雲は流れ』は入手可能であるようだ。宣伝の意図はさらさらないものの、作中にあるリンクを改めて貼っておく。
https://bccks.jp/bcck/156976/info
小説を読む体験は、ある意味、別の世界を疑似体験することだと言える。我々の世界が他の並行世界と交わることは決してないが、『かわくも』を読んで別の世界に思いを馳せることは十分可能だ。未読の方にはぜひ購入をお勧めしたい一冊である。繰り返すが、私はあくまでも善意の第三者として本を推薦しているだけであり、人の作品に便乗して宣伝するつもりは微塵もない。
一希 零 投稿者 | 2019-01-25 13:25
勢いがあり、かつ読みやすい文体で最後までスラスラ読めました。冒頭を僕は面白く読みましたが、やや身内ネタ感もあり、一般的にキャッチーな内容になっているかはわかりません。全体的に急いで書かれたような印象を受けましたが、ただやはり、想いの強さというか、「熱さ」みたいなものをすごく感じられたので、ノベルジャムかっこいいな、また藤城小説読み直そう、という気持ちになりました。波野さん、藤城さん、お疲れ様でした。
大猫 投稿者 | 2019-01-26 19:06
今回のテーマが直接的に書かれるのかと思いきや、それはほぼ付け足しで、メインは「ノベル・ジャム」のルポですね。文フリを終わってモノレールの中でドキドキしながら結果を待っていた私たちとしては、内幕の様子を少しでも知れたことは大変よかったと思います。執筆中の藤城さんの様子やチームのドタバタも目に見えるようです。
「かわくも」に対する評価はこの場ではしませんが、「かわくも」という作品が生まれて来る過程の記録としてずっと残るべきルポだと思います。
大猫 投稿者 | 2019-01-26 19:07
ところで冒頭の土下座画像は何を意味しているのでしょう?
波野發作 投稿者 | 2019-01-28 22:51
高橋さんに英訳の費用を出してくれないかという土下座です
退会したユーザー ゲスト | 2019-01-27 13:20
退会したユーザーのコメントは表示されません。
※管理者と投稿者には表示されます。
Juan.B 編集者 | 2019-01-28 00:33
これは何かの平行世界を描写していると言う藤城氏の見解に乗る。平行世界で一旦途切れている部分は俺が補完して、アカシックレコードから藤城氏に対する俺及び一希氏のインタビューを引き出し八次元現実創作電波ビビビを書いているので参照して欲しい。
https://hametuha.com/news/article/31146/
インタビューを読む体験は、ある意味、別の世界を疑似体験することだと言える。我々の世界が他の並行世界と交わることは決してないが、インタビューを読んで別の世界に思いを馳せることは十分可能だ。未読の方にはぜひ購入をお勧めしたいインタビューである。繰り返すが、俺はあくまでも善意の第三者としてインタビューを推薦しているだけであり、人の作品に便乗して宣伝するつもりは微塵もない。なあ、みんな、商業主義は悪だよな。かわくもをたくさん買って商業主義と対決しよう。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-01-28 20:33
ルポというか身内ネタというか……。
藤城愛ですね。続く、のところでコケてしまいました。
高橋文樹 編集長 | 2019-02-26 18:53
とりあえず参加した感がしないでもないが、プロモーションの意気やよしということで星三つ。