加藤弧盤が自室のドアノブにタオルを括り付けて首を吊った状態で発見されたのは、二十三年前の五月四日未明だった。第一発見者のマネージャーが救急に通報した時には意識不明の重体で、当時の号外を見ると「自殺図ったか」という見出しが大きく印字されている。あの時のことはよく覚えている。チャーパ(Caapa)の人気絶頂期で誰もが自分の目を疑ったに違いない。わたしはCaapaのファン層よりも十くらい下の世代だったので、当時はテレビで見たことある有名人の一人が首を吊った、という認識でしかなかった。なんだかよく分からないが、あの頃はよくみんな自殺していた。好景気だった時代が終わり、不景気の出口は見えず、多くの人が自暴自棄になっているようだった。世界に隕石が落ちて、氷河期が来て人類が滅亡するといった終末論を誰もが何の根拠もなく信じているような雰囲気だった。そうした空気を反映したような暗い、退廃的な文化が流行したのも振り返ってみれば納得できる。Caapaの音楽は――弧盤がそのほとんどの作詞作曲を担当していた――暗さの中に、さらに暴力的な、狂暴な何かを感じさせるものだった。それは彼の本性を表象するものだったのだろうか。
「彼は……父親はそういう人間じゃなかったと思う」
弧盤の娘である円はレンズの向こうを眺めるように視線を泳がせながら言った。彼女は弧盤と、彼の妻だった金光来との間に生まれた一人娘で、弧盤が死んだ時、まだ六歳だった。
「うちにとってはただの優しいお父さんって感じ」
黄色いボックスに入った煙草を一本取り出して、ピンクの百円ライターで火を点けながら彼女は笑った。弧盤と光来が結婚を発表した時、光来のお腹にはすでに三ヶ月になる円がいた。周囲も彼らの交際を知っていて、言わば公認カップルのような関係だったから彼らは祝福ムードで迎えられていた。ステージ上でギターをアンプに突っ込んだり、ドラムセットを蹴り飛ばしたり、ある時はギターに火を放って火災報知器が鳴って会場を水浸しにしてライブハウスを出禁になったり――今となっては伝説のライブとして語り継がれている――奇抜な行動からドラッグ中毒も疑われていて、それは刹那的ステージで人気を博していた女性パンクバンド、マニー(Money)のボーカルだった光来も同じで、ファンたちからは寧ろ、そちらの面を心配する声も上がっていた――中には彼らの子どもは奇形児が生まれるに違いない、などというひどい声もあった――。周囲のそうした声をよそに、彼らはそれまでの生活を変える気配は微塵もなく、円が生まれてからも、ステージ裏で関係者にあやされる天使のような存在はむしろ歓迎された。円もその幸福な短い期間をなんとなく覚えているようだった。彼女が期せずして、両親と同じような道へと進んだのは何よりの証拠だろう。それは彼女の母親である光来にとっても同じで、「なんか……みんなの子どもって感じ。みんなで育てたっていうか。子育ての苦労とか、マリッジブルーとか、そういうのとは無縁だったね、幸運にも」と光来は全国ツアーで訪れていた、小さな地方のライブハウスのステージ裏で遠い目をしながら言った。
「円ちゃんはね、みんなの天使だったかんね!」
Moneyのギタリストである渋川アイが当時を懐かしんで頷いた。
「お前ら、ただあやすだけだったべ。円ちゃんのおむつ変えてたのは、うちやから」
Moneyのドラマー、上田メイ子が缶ビールのプルタブを空けながら突っ込む。
「すっかり立派になったねぇ」
Moneyのベーシスト、楠井リーがスマホで円のMVを観ながら感嘆の声を上げた。
「しゃー! かますぞ! Money、うぇいうぇいうぇい!」
二十三年前に弧盤が首を吊った夜と同じように、彼女たちは円陣を組み、パフォーマンス前の気合いを入れた。二十三年の間にメンバーは全員結婚し、一度は解散してそれぞれの人生を歩んでいた。彼女たちが再結成したのも昨年のことで、彼女たちが子育てから離れたのと、二十年前の音楽が再評価されて人気が再燃したことが大きい。光来はソロ活動でずっと変わらない生活を送っていた。それもCaapaの人気が持続しているおかげでもあり、それはある意味、弧盤の自死によって、彼がロックスターとして神格化されたことによる皮肉でもあった。そのことは光来自身が誰よりも分かっているのかもしれない。彼女は再婚することなく、実家にも頼らずに――十代で家出して絶縁状態だったからではあるが――円を育てた。
「こんばんはー」
スタンドマイクの前に立って、長い髪をかき上げる仕草は二十三年前から変わらない。円が幼い頃は手入れが面倒で丸坊主だったこともあったが、そんな時でも癖で額の生え際に右手を当てて頭を撫でてしまう。歓声が上がって、上田がバスドラをキックしつつシンバルの位置を調整する。楠井はフェンダーのフレットレスベースの弦をなぞるように上から下へと左手を移動させて右手で叩くように弦を弾く。渋川が足元のチューナーに合わせて右手でヘッドの先に付いたペグを回してチューニングする。二十三年の間にスタジオで、ライブハウスのステージで、野外フェスのリハーサルで、何千回と繰り返してきた。二十三年前もそうだった。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
上田が叫んで、両手に持ったスティックでスネアドラムを思いっきり叩きながらステージは幕を開ける。楠井の唸るベースラインに、初めからテンションMaxの渋川のストラトキャスターがギャンギャンと咆哮を轟かせる。
「おっさんのこめかみにバックルで一撃必殺!」
光来のだみ声は不謹慎を突き抜けて聴く者の興奮を誘い、一気に会場は熱気に包まれる。一時間弱の短い公演。全曲が三分未満の疾走感あふれるものばかりで、緩急などつけず一気に駆け抜けていく潔さも二十年来変わっていない。ステージの上、ライブ会場という空間においては、時を巻き戻す魔法が掛かっているような不思議な感覚に陥る。実際にはきっちり時が流れており、弧盤は死に、光来は年老いて、円は大人になった。ステージを照らす照明が消えて、歓声が止み、袖からステージを下りた瞬間に魔法は解ける。光来を押し潰すような虚無感が彼女を暗闇の奥底へと沈める。そんなこと分かりたくない、弧盤も恐らく同じ心境を何度も、世界的に人気を集めた分、さらに大きな落差をいつも感じていたに違いない、病院の安置所に横たわる彼の死に顔を光来は忘れることができない。穏やかに微笑みさえ称えた青白い顔。パイプ椅子を蹴飛ばして我に返る。
「クソがっ……勝手に楽になってんじゃねえよ」
口から出る悪態もステージの下では力なく消え入る。夜が明けるまでにはあまりにも長く、光来はアルコールの力を頼らざるを得ない。
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