高速増殖看板きぬた

眞山大知

小説

5,362文字

きぬた歯科の看板が増殖した。おそろしいスピードで増殖する看板は地球を支配し、人類はなすすべなく、地球外へ移住しなければならなくなった――。
きぬた歯科の看板×SF、異色のカップリング! きぬた先生、ごめんなさい!

【参考文献】
「TOKYOミラクルボード きぬた歯科看板大全 ALPHA」 著:大日本きぬた連盟(X ID:@minor1979)

 すべての業には時がある。聖書の言葉だ。きぬた歯科の看板が増殖しつづけるあの災禍も、起こるべきときが来たから起きたのだろう。
 まだ人類が地球で生活していた二〇年前、あの日は三鷹の国立天文台に出勤しようと、首都高四号新宿線を走行していた。
 秋の終わりの朝だった。木枯らしが吹きつけ、クルマのハンドルが風に取られそうになる。
 蛇のように曲がりくねった道を進む。下り車線は順調に進んでいたが、上り車線は通行止め。なにやら深夜に、巨大な黒い塊が道路に落下してきたのだという。帰宅するまでに元通りになってくれればいいのにと思った。
 欠伸する。疲労が溜まっていた。胸ポケットから眠気覚ましのガムを取り出して噛む。前の日まで学会で発表しに三重へ出張。まさか三重の道端できぬた歯科の看板を見かけるとは思わなかった。――田園、山、水路。日本の原風景に果てしなく並ぶ電柱のすべてに、きぬた歯科の広告が掲載されていた。きぬた先生の顔が、はるか彼方の遠くまで、ゲームのバグのように無限に並んでいた。
 クルマが永福の出入口に差しかかった。フロントガラス越しに広がる、武蔵野の空の澄み切った青。道路の左手に迫るビル群。そして、そのビルたちの屋上に掲げられた、きぬた歯科の看板。ピンクと黒と青の看板に映るきぬた先生はいつもどおり、どことなく硬い笑顔をふりまいていた。
 平凡な朝だった。三枚しかないはずの看板が、四枚に増えだしたことを除いては。
 三色のきぬた看板が二枚連続して並ぶ。その奥、「のりたま」の広告を挟んで、三枚目のピンク一色の看板が建っていた。そのピンクの看板が目の前でいきなりぶるぶる震えると、たった数秒で二枚に増殖したのだった。
 眼の前の光景が理解できなかった。唖然としていると、増殖した片割れの看板が屋上でよろよろと動き、道路へ向かって落下しはじめた。
 心臓が止まりそうになった。落ちてくる前に通り過ぎなければならない。アクセルを一気に踏みこもうとしたが、看板は木枯らしに吹かれ、青空の彼方へ飛んでいった。
 ハンドルを握る手が震えた。生きた心地がしなかった。大きく息を吐いた。
 だが、それ以上に恐るべき災いが襲った。――きぬた歯科の看板は猛烈なスピードで増殖し、東京地方が看板に埋め尽くされるのに一週間もかからなかった。

 

 

***

 

 

 PCの画面には、人工衛星から撮られた東京湾が映っている。レインボーブリッジのすぐ脇を、きぬた歯科の看板の群れが泳いでいた。水面にきぬた先生の顔を出して浮いていた。青いきぬた歯科の看板――山梨県にしか生息しない水棲種だと思われていたが、粘り強く観測しつづけた結果、つい昨日、東京湾で泳ぐ個体の撮影に成功した。
 研究成果をボスに一通り説明してすぐ、ヘッドセットのマイクを切った。コーヒーを飲もうと左手でマグカップを持った。人工コーヒーの腐った野菜のような臭いが鼻につく。口に入れる。泥水を濃縮還元したような味。もう長年飲み続けると慣れてしまう。
 地球はきぬた歯科の看板に埋め尽くされ、生物が居住できない。いまや、地球の覇者は人類でなく、きぬた歯科の看板。延々と増殖し続ける看板に生存圏を奪われ、人類は二十年前に数十のスペースコロニー、そして火星に移住した。
 レインボーブリッジの橋の上には、ピンクと黒と青の看板が足を生やして立っていた。空中には、飛行能力を持ったピンク色の看板が空に浮かんでいた。陸、海、空を支配するきぬた歯科の看板に対し、人類に勝ち目などない。やはり戻りたくても戻れない。
 ヘッドセットのスピーカー越しに、野太い声が聞こえる。
「足利君、これは世紀の大発見だよ。論文の引用数が稼げそうだ。文科省から予算も取れる。じゃあ、引き続き、観測を続けてくれよ!」
 研究室のボス・岩舟教授がゲラゲラ笑った。まあいい。ボスの仕事は政府と企業から金をぶんどってくること。学者でも営業能力がないとたちまち没落する。自分は営業力がないので、もう定年も目前なのに年下の銭ゲバ教授にひっつき、コバンザメに徹している。
 ウェブ会議が終了した。大きく息を吐く。降圧剤のオレンジの錠剤を飲みながら、脇の窓から「空」を仰ぎ見る。天井に広がっていたのは、人工天空の青でもなく、太陽光を取り込む窓の外に広がる、大宇宙の美しい漆黒でもない。反対側の街の、建物と道路の雑多な色が、否が応でも目に入る。
 居住区が頭上にあるコロニーなんて欠陥品だ。ネットの噂によると、政府から開発を請け負った業者が設計ミスをやらかしたが、図面を修正せず平然とそのまま建設を進めたからだという。地球に一番近いこのスペースコロニーだけにしか観測所がないから、渋々赴任している。観測用の人工衛星の保守点検もしているからここでずっと暮らさなきゃいけない。メンテナンスを業者に外注できたら、すぐさまボスのいる火星に移住してやる。
 直径六キロ、全長三十キロ程度のシリンダー型。人間を詰めこむことしか考えていないこの旧型のコロニーは、まさに時代遅れで人権軽視。
 ボスに社交辞令の挨拶を返し、会議が終了。ヘッドセットをテーブルに置いて、六畳の集合住宅の、ベッドに倒れ込む。配給品のベッドはカビ臭いうえに石のように硬い。かといって他のベッドもたいてい同じだ。限りあるスペースコロニーの物資を絶対に無駄遣いしてならないという政府方針から、ほとんどの生活必需品は配給制度が適用されていた。

 

 

 テーブルに乗った朝食は人工肉と人工米。味気ない朝食。下水を再処理した飲み水を飲む。集合住宅を出て出勤。配給品の、もう十五年もモデルチェンジをしていない電気自動車に乗りこむ。
 スイッチを押して起動。あとは自動走行。味気ない。乗せられている感覚だ。
 車窓越しに流れる街の色は茶色、灰色。あまり好きでない。コロニーに住む一五〇万人の住民は常に不満を募らせている。当局は政治運動に発展するのを神経質に警戒していた。いたるところに監視カメラが設置されていた。スマホももちろん、傍受されている前提で使用している。
 観測所に到着して入館する。リノリウムの床を歩きながら今日のタスクを整理する。地球上のきぬた歯科看板のサイズをまとめて報告しなければならない。実作業は特任助教の泉に任せている。廊下の奥の突き当り、ドアを開けると十畳ほどの研究室がある。ボロボロの灰色のソファに泉が座っていた。長い髪、赤いメガネ。女っ気がなく、大きく股を開いて、人工ラーメンをすすっていた。機械油のような臭い。たぶん豚骨ラーメンだろう。
「お、足利さん、おつっす」
 泉はもぐもぐと口を動かし挨拶した。若い子の感性はわからない。いや、この子がもともと変人なのだろう。
「こら! 女の子なのに股を開かない!」
「いまどきそういうの気にしてるんすか? あ、これ、バレンタインっす。おめでとうございまーす」
 泉はチョコレートを渡してきた。袋には火星が描かれていた。
「お前、マジか! 火星産のチョコなんて、こんな辺境だと手に入らねえぞ。ありがとう!」
 テンションがあがる。感謝。感謝。圧倒的感謝。胸ポケットに入れる。
「ところで足利さん、昨日の夜にデータが出揃ったんで見てくださいよ」
 泉はテーブルのパソコンを引っ張ってきて画面を見せてきた。ありえない数字が映し出されていた。
「泉、その数値、間違ってねえだろうな。そんなバカでかいきぬた歯科看板があるはずがない。一辺が一〇〇キロメートルだと? ふざけんな」
「本当ですよ」
 手元のタブレットを起動して、最新の衛星画像を映し出す。
 ありえない映像が映し出されていた。日本列島が、すべて一枚のきぬた歯科看板に覆われていたのだ。
「……お前、桁を間違えているぞ。一辺二〇〇〇キロだ。たった半日で全長が二〇倍になるだと? わけがわからねえよ。しかもよく確認しろ。これは希少種の黄色看板だぞ!」
 日本列島サイズの黄色看板に、きぬた先生が三人並ぶ。「俺に任せろ!!」という吹き出しのついたきぬた先生は勇ましくファイティングポーズを取っていた。
 その黄色看板が突然、人工衛星からでもはっきりわかるほど、高速で拡大していった。そしてものの一分間に、一辺が二万キロまで拡大。
 きぬた歯科の看板は、地球を完全に覆ってしまった。

 

 

***

 

 

 天の川銀河で高速道路の建設工事がはじまってもう八万年が経過する。銀河連邦建設省がオリオン腕高速道路を計画したのは二千年前。用地取得のために太陽系第三惑星・地球へ説明会の案内を送ったが回答は一度も返ってこなかった。二十年前、立ち退きを求める最後通牒を、ケイ素記録媒体の黒いチップにこめて地球に送付。だが一切の返答がなかったため、オリオン腕高速道路建設委員会は行政代執行に踏み切った。
 委員会直属の工事船はオールトの雲へ突入し、太陽系内へ侵入した。船の先頭に巨大な砲台を搭載しているのは、地球を一瞬にして破壊するためだった。
 操舵室の中央、執行官は巨大スクリーンを見つめながら、隣の船長に語りかけた。
「スペクトル分類G2V、絶対等級プラス四.八二等、あれが太陽ですね。もうすぐ地球にたどり着くんですね」
「ええ、執行官。二千年間も我々に返事しない、ゴロツキどもの星。木っ端微塵に破壊しましょう。命令があれば十秒以内に砲撃できます」
 船長が口汚く返事をした。
「まあまあ、とりあえず、地球の画像を取得してほしいですね。最後の姿ぐらい、しっかり拝んでおかないと」
 執行官が冷静沈着に命令する。スクリーンにすぐさま映し出されたのは、地球ではなく、きぬた歯科の看板だった。きぬた先生三人分の目が、執行官をじっと見つめた。
「なるほど、広告看板を置くための星。無人の星ですよ。だから返答がないんですね」
 執行官のつぶやく声がかすれていた。いままで二千年間、知的生命体が住む星だと勘違いしていた。昔なら有無を言わさず撤去できたが、ここ最近は銀河系住民の権利意識が高くなり、訴訟を起こされる危険性がある。代執行を強行したら、ただでさえ遅延している道路工事を止めるリスクがある。広告主か広告業者を探し出さなければならない。看板に書かれた言語は不明だが、そんなのは宇宙言語学者どもに調べさせればすぐわかるだろう。
 判断ミスだ。執行官は、手に汗がじんわりと滲むのを感じ取りながら叫んだ。
「諸君。行政代執行は中止。いったん退却する。船長、命令を」
「針路一八〇度!」
 船長の声が操舵室に響く。工事船は向きを変え、一八〇度旋回し、星間航海用イオンエンジンを始動。青白く光る航跡を残し、工事船は宇宙の深淵に消え去っていった。

 

 

***

 

 

「足利さん、オールトの雲付近に妙な光があったんですけど」
 泉が映像を見せてきた。指し示した光はあまりに弱い。おそらくノイズだろう。
「気のせいだろ」
 がっかりする泉を一蹴。それよりも地球を包み込むほど巨大化したきぬた歯科の看板をどうにかしなければならない。スマホが延々と鳴り響く。岩舟教授からのチャットだ。「なんとかしろ!」、「どうするんだ!」などまったく抽象的な指示しか飛んできていない。まだ昭和って続いてたんだな。スマホの電源を切って再び看板を見る。きぬた先生のセリフがいつのまにか「俺を信じろ!!」に変わっていた。
 刹那、看板に亀裂が入るやいなや、光が放たれた。一気に目の前の光景が猛烈なスピードで回転し始めた。世界が溶け出した。観測所も、泉も、このスペースコロニーも、ありとあらゆるすべての境界が、消え去って一つになる。
 もうわけがわからなかった。考えるのをやめて、身を任せることにした。きぬた先生を信じることにした。吐き気。崩壊。動機。超次元。多次元宇宙。森羅万象がひとつに融合。さまざまな色が混ざり合う。時間が逆転。空間は捻転。因果律が崩壊。絶対的な混沌だけが目の前に広がっていた。
「ああ、すべての業には時があるんだな」
 そうつぶやいた瞬間、視界が一気に黒くなった。意識も消え失せた。

 

 

***

 

 

 冬の早朝だった。木枯らしが吹きつけ、クルマのハンドルが取られそうになる。下り車線は順調に進んでいた。
 永福の出入口に差しかかった。フロントガラス越しに広がる、武蔵野の空の澄み切った青。道路の左手に迫るビル群。そして、そのビルたちの屋上に掲げられた、きぬた歯科の看板。きぬた先生はいつもどおりファイティングポーズを決めていた。
 平凡な朝だった。欠伸する。疲労が溜まっていた。胸ポケットからガムを取り出そうとすると、見たこともないチョコレートが入っていた。火星が描かれていた。
「は? 火星のチョコレート?」
 首をひねりながらそのまま運転。調布ICで降りて、ガムを買おうと職場近くのセブンに駐車。店に入る。
 レジに立つ店員は、全身からダルそうなオーラを放っていた。いまどき珍しい。長い髪、赤いメガネの、女っ気がないその店員は、こちらを見て急に目を見開くと、指をさしてつぶやいた。
「足利さん……?」
「い、泉!」
 すべてを思い出した。今度、豚骨ラーメンをおごってやろう。美味しい、地球産の豚骨ラーメンを。

2023年9月29日公開

© 2023 眞山大知

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