駄犬

眞山大知

小説

10,473文字

駄目な犬は、あなたの隣の席に座っているかもしれません……。

六月二十五日の午後四時、M県M市の空には鼠色の雨雲がどこまでも広がっていて、雨がただ静かに降っていた。空と雨雲と雨は、地にいる生き物すべてを憂鬱にさせていた。

M市中心部の南西部はH川が蛇行しながら大地を削っていて、険しい河岸段丘をつくっている。その河岸段丘の縁にM県立M高校の三階建ての校舎が建っていた。M高校は県内一の進学校である。その校舎の鈍い茶色の外壁からは田舎のエリート特有の傲慢さが滲み出ていて、校地を囲む鬱蒼とした林によって校舎は外界からの干渉を完全に拒絶していた。

校舎の三階に三年二組の教室がある。その窓際の席で杉本海人はひどく眠たげに目を覚ました。海人はゆったりと身を起こすと、枯れ枝のように細く頼りない腕を教室の天井へ真っ直ぐと伸ばし、ぐっと背伸びをした。

海人の顔は美しく整っていた。その顔は水仙のように可憐で、同時に冷酷さを孕んでいる。海人の美しさを同級生たちはよく話題にしていたが、その顔に混じっている冷酷さがどことなく狂気に連想させるものだったので、海人と深い付き合いをする人間は数少なかった。

海人は腕を下げると、その美しい顔に透き通るほど白い手をそっと当てた。海人の手に頬の肉と骨の感触が伝わる。頬肉は新雪のように柔らかく、頬骨は丸氷のように硬かった。

海人はその白く細い身体を、錆び付いた椅子の上で微かに動かして、湿った机に肘を置いて頬杖をついた。頬杖をついている海人の様子は現実味を帯びていなかった。絵画に描かれた人物のほうがよほど現実に近かった。

海人は、自分が現実を生きてないと思っている。できることなら、この醜い現実からずっと目を背けていたいと願っていた。その現実から背けた目を海人はずっと心に巣食う虚無の方向へ向けていた。どす黒くて、混じりけがなく、絶対性の、暴力的虚無。

海人が頬杖をつきながらぼんやりしていると、隣の席の井川陽樹が声をかけてきた。陽樹は数少ない海人の友人である。

「海人、やっと起きたか。もう七時間目も終わったぞ」

呼びかけられた海人は顔を陽樹の方へ向けた。

陽樹は甘い笑みをこぼしていた。

海人の目の前には陽樹の顔がある。輝く瞳、希望に満ちた唇、艶のある頬。陽樹の顔全体から生きるエネルギーが放射されていた。

「え、もうそんな時間? ホームルームが終わればもう帰れるじゃん。そんなに俺、寝ていたの?」

海人はそう言うと気怠そうに大きく欠伸をした。

「ああ、もうぐっすり寝ていた。先生たちも呆れていたぞ」

「だろうなあ。ていうか、俺、先生たちにもう見捨てられてるよね」

「そんな投げやりなことを言うなよ。あ、そうそう。早く進路調査票を出せって先生が言っていたぞ」

陽樹は呆れた口調で言った。

「進路って言ってもなあ……。どうせ、進路調査票を出したところで、先生はM大学へ行けっていうんだろ? やっぱりM大学へ行かないといけないのかなあ」

「はあ? 当たり前だろ。ウチの高校にいるんだから、もちろんM大学を目指さないとダメだろ」

陽樹は全くの迷いもなく言い放った。M大学はM市にある国立大学であり、世界でもトップレベルの研究力を誇っている。海人が通うM高校は、そのM大学へ毎年百人前後の生徒を送り出している名門であり、M高校の生徒はM大学への進学を期待されている。

海人はうんざりして、少しため息をついた。

「余計なお節介。つーか、陽樹こそM大学へ行かないとダメだろ。親父がM大の医学部の教授なんだし」

「うるせえな。親なんて関係ないだろ。海人、それじゃあ、M大学へ行かないんだったら、どこへ行くんだよ」

「さあね?」

海人がそう言い終えると同時に、陽樹は急に表情が険しくなった。

すると、陽樹は突然スマホを取り出して画面を覗きはじめた。陽樹の顔が一気に緩み、急に穏やかな表情になった。陽樹は急いで荷物を手に持つと、嬉しそうに席を立って、教室の扉へ向かっていった。

(なんだよ、アイツ。急に冷たくなって。というか、ホームルームに出ないんだ)

海人は心のなかで陽樹に毒づいたが何もすることがなくなったので、制服の胸ポケットからスマホを取り出してインカメラを起動した。画面には海人の顔が映っている。美しい顔がほんのわずかに歪んでいた。海人は川に突き落とされたようにぞっとした。

(最近、だんだん醜くなっている。怖い)

海人の心に黒薔薇の花びらのような暗く危険な感情がひらひらと舞い落ちる。

教室の前方から扉を開ける音がした。海人が前方の扉を見ると、担任の吉岡先生が仏頂面をしながら教壇を上っていた。吉岡先生は教卓へ行くと出勤簿を叩きつけるように置いた。すぐにホームルームが始まった。陽樹は席を立ったまま戻らなかったが、吉岡先生はまったく気づかず、進路調査票を出すように生徒へしつこく言ったあと、すぐにホームルームを終わらせた。

同級生たちは一斉に立ち上がって、教室の扉へぞろぞろと向かいだす。その足取りはゾンビのように生気がなかった。文芸部の幽霊部員である海人は放課後にすることがないので、帰宅するためにすぐに一階の下足箱へ向かった。靴を履き替えて下足箱を足早に去ると正門を出た。

海人は学校の最寄り駅であるJ駅に行くため、駅へ続く緩やかでまっすぐな坂を登りはじめた。その緩やかな坂を上りながら、海人は坂の左側を見た。そこにはM大学のJキャンパスが広がっていて、キャンパスの小綺麗な道には、M大学の学生たちが馬鹿みたいにだらしなく談笑して歩いていた。海人は、彼らM大学の学生たちを見る度に澱んだ気持ちになる。海人はその気持ちを抱えながら、Jキャンパスの向こう側を眺めた。そこには黒くごつごつとしたA山があり、そのA山の頂上には、M大学Aキャンパスの近未来的な研究棟が数多く並んでいた。

(俺の人生は、M大学に塞がれている……)

海人はM大学を憎く思った。

M県では、黒い山にそびえるM大学へ入ることがエリートである証明だ。たとえ、M県の十八歳が上京して東京の有名大学の学生になっても、M大学卒のブランドの前では負け組として扱われる。M県の人間は、どうあがいても、M大学の前に重くるしさを感じて一生を過ごさなければならない。

 

海人がしばらく道なりに歩くと、目の前にJ駅の、無機質な建物が見えてきた。海人は駅の建物へ入って階段を降り、そのまま改札を通り、ホームに着く。幅がやや狭くるしいホームには、ちらほらとM高校の同級生が立っていた。同級生たちは赤くて分厚い、大学入試の過去問題集を、取り憑かれたように黙々と読んでいた。

海人がホームの奥を眺めると、端の円柱の傍に、陽樹の姿が見えた。

(あいつ、いつの間に……)

その陽樹のそばに、女子が立っていた。海人はその女子のことを知っていた。その女子は、陽樹の所属するハンドボール部の後輩であり恋人の早坂莉花であった。莉花が陽樹と付き合っていると海人は知っていたが、実際に莉花と陽樹が一緒にいるところは初めて見た。

小柄な莉花は、黒くて長い髪をさらさらと手でかきあげながら陽樹を見上げていた。大柄な陽樹は莉花を見下ろし、屈託のない笑みをこぼしている。そして、陽樹はすっと右手で莉花の髪に触れ、その髪を優しく丁寧に撫で回した。

莉花の目はとろんと蕩けていた。莉花はそのまま陽樹の腰に手を回して、陽樹の逞しい胴体にもたれかかった。陽樹の顔は満面の笑みを浮かべている。

二人の様子を見た海人の心の中に、突如として、熱した油のような熱く危険な感情が沸きだした。海人は驚いた。その感情は、冷え切った海人の心をぐるぐるとかき乱しながら熱した。海人は、その感情に気が狂いそうになった。海人は、その感情が莉花への猛烈な嫉妬であると気づいた。陽樹の腰に手を回して、逞しい胴体にもたれかかるべきは、莉花でなくて海人であるべきなのに、莉花が陽樹にもたれかかることは許せない……。それが莉花に嫉妬した理由だった。

その時、海人の目前に強烈な幻覚が顕れた。海人の目の前には陽樹がいた。陽樹は海人のためだけに笑って、逞しく大きな手のひらで海人の頭を撫でた。その陽樹の手のひらから、陽樹の優しさ、慈しみ、そして火花のように痛くて激しい性欲が海人へ伝わってきた。

海人はそのまま、陽樹の胴体へ身を預け、六つに割れた腹筋の硬さを感じ取った。海人の鼻は陽樹の体臭を嗅ぎとる。その臭いは甘く、それと同時にどこか獣が獲物を殺そうとするような強い殺気を孕んでいた。海人は陽樹の体臭から感じた殺気に慄いた。だが海人は陽樹の殺気に興奮を覚えてしまった。海人の背中に電流が流れるように、ゾクゾクと痺れるような感覚が襲う。

海人は、陽樹に押し倒されて、そのまま交わりたいと願ってしまった。その交わりの関係を例えるなら人間のカップルよりも、獣の番いの方が適切だった。

海人の人生で初めて来たといえるほどの熱情が掛けめぐる。心臓が破裂しそうなほど鼓動した。

 

「間もなく、一番線にI駅行きの列車が……」

機械音声のアナウンスがホームに流れた。海人はその音声を聞いて我に返った。目の前には陽樹の逞しい肉体はなく、現実にはホーム端の円柱の傍で、陽樹と莉花がお互いの身体を手で触れ合っていた。海人は、陽樹と付き合いたいと願ってしまった。海人は今すぐに、莉花を蹴散らかしてでも、陽樹のそばに近づきたいと願った。それは海人の人生で初めての恋だった。そして海人は、自分の恋を成就させることが遥かに難しいことだと気づいた。

まず、同性である陽樹が海人を好きになってもらわないといけない。さらに、陽樹と恋人の莉花と別れさせないといけない。

この二つの条件は、海人にとって高山でウミガメの卵を探すことぐらい無謀に思われた。どうしようもない思いで海人は肩を落とした。

そうするうちに列車がホームに滑り込んできた。列車は滑らかに速度を落とし、停車した。車両のドアが開く。海人はのろのろとドアを通った。車両へ入った海人は窓越しに陽樹と莉花がいる方向を見た。二人とも列車には乗らず、ホームへ突っ立ってただお互いを触りあっていた。海人は歯がゆく思った。

 

海人を乗せた列車はY駅へ着いた。海人が列車を降りて駅を出ると、目の前は死んだように静かな街であった。海人は周りを見渡した。ひどく煤けた外壁のマンション。閉店して二十年経つおもちゃ屋の、奇抜な三角形の建屋。道路のアスファルトの舗装が裂けて、そこからひょろひょろ生えた雑草……。海人はこの荒廃した街のすべてが不快だった。

駅の近くには、国道X号線の、片道三車線の大きな車道が走る。その車道を通る大量の車から騒音が発せられて、その騒音が海人の耳にねじ込まれるかのように入ってくる。その音が、海人の一番嫌いな音だった。海人は舌打ちをした。海人は心が嫌悪感に蝕まれながらも、Y駅前の広い道を東へ少し進み、そこから路地裏に入った。

その路地裏はY駅前の街並みより荒廃していて、もはや死んでいた。どこもかしこも静寂が支配していて、肝が冷えるほどだった。道端の「止まれ」の道路標識は塗装が剥がれていて、灰色のコンクリートの側溝は鮮やかで毒々しい色の苔が覆っていた。路地の脇に青々と茂る雑草は、だらしなく長く伸びていて、鋭い刃先が真剣のように輝いていた。

海人は路地を進むと、周囲より一段と寂れたアパートがあった。海人はこのアパートに母とともに二人で住んでいる。この築四十五年のアパートは外壁のコンクリートが欠けていて、そこから赤く錆びた鉄骨が汚く露出していた。海人は、このアパートを見られたくなくて、これまで誰一人として友人を呼んだことがない。

海人は、一階の脇にある階段を上ろうとした。手すりがひどく毒々しい緑に塗られている。海人はその手すりに手をかけた。手すりは異様なぐらいひんやりとしていた。

ふと、海人の心臓に甘酸っぱい痛みが満ちる。それは陽樹に対する恋の痛みだった。海人は気恥ずかしくなりながら階段を昇った。二階に上がって狭くて汚い通路を進むとその奥に、海人と母の住む二〇六号室があった。

海人は鍵を取り出してドアの扉を開けた。扉が開くと、暗い部屋の中から澱んだ空気が海人にむかって流れ込んできた。海人がその空気を吸うとひどく酸っぱい臭いがして、耐え切れず思い切り咳き込んだ。

海人は玄関で靴を脱いで、そのまままっすぐ進んだ。ダイニングキッチンに着く。その床には缶ビールがあちこちに転がっていて、缶の口の近くには、ビールだったであろう黒くて気持ちの悪い液体が、床にへばりついていた。それらはすべて母が飲んだものである。部屋の奥のハンガーラックには、大量のコスプレ衣装が隙間なく掛かっていた。すべて、海人の母が趣味で着ているものであった。

隣の部屋から海人の母の独り言が聞こえてくる。母はイラストレーターとして生計を立てていて、いつも部屋で作業をしていた。独り言が多いのは、おそらく仕事の締め切りが迫っていて気が張っているのだろうと海人は思った。

ふと、海人は陽樹への恋心を母に打ち明けたくなった。それは危険なことだろうと次の瞬間に海人は気づいたが、どうしても言わなければ気が済まなくなっていた。

「母さん、入るよ」

海人は部屋の襖をそっと引いた。

部屋の真ん中には黒くスタイリッシュなデスクがあり、海人の母・由紀は、デスク上のペンタブレットと二十七インチのディスプレイに向かって作業をしていた。普段着る,モノに無頓着な由紀は、破けた青色のジャージを着ていた。それは海人の通うM高校のジャージであった。由紀はM高校のOGであり、高校を卒業した後もずっとジャージを室内着として使っていた。

「母さん、ただいま。今日は忙しい?」

「海人、ごめんね。明日が納期の仕事があって、今日は忙しいの。徹夜になりそう」

由紀はペンタブレットの上にペンを滑らせながら、申し訳なさそうな口調で海人に返事した。母の仕事を邪魔してはいけないと海人は思い、襖をそっと静かに戻した。

結局、陽樹への恋心を打ち明けることができなかった。海人には、女手一つで家を支える由紀の苦労が痛い程わかっていた。海人はダイニングキッチンの机に近づくと、側にある椅子にどかっと座った。そして机に突っ伏しながら大きなため息をついた。

自分の恋心を誰かに打ち明けたい。だが、海人の周囲に相談できそうな人はこれ以上思いつかない。

海人はさらに深いため息をつきながら髪をかきむしった。その時、海人のスマホから甲高い通知音が鳴り響いた。海人はスマホを取り出して通知欄を見た。陽樹からメッセージが届いていた。海人はメッセージを開いた。

 

今度の日曜日空いてる? M駅前で買い物につきあってほしいんだけど

 

海人は歓喜のあまり起き上がり、一気に背筋を伸ばした。興奮した海人の口から言葉にならない音が漏れる。陽樹に遊びに誘われた喜びが海人の心臓に充ちて、心臓が焼けた鉄のように熱くなった。

海人はこの場で告白しようと思った。莉花のことなどどうでもよかった。

(陽樹は俺のものだ。奪ってやる)

海人は勢いに任せて、文字を恐ろしい速さでフリックした。

 

いいよ。俺、陽樹のことが好きだから

 

海人は送信ボタンを押したあと、頭を抱えて激しく悶絶した。

(告白しちゃったよ……。もう後戻りできないヤツだ)

海人の美しい顔が少し暗い赤に染まった。その色は、まるで誰かに顔を殴られたときの痣のようだった。

すると陽樹から返事が来た。海人は急いでメッセージを読んだ。

 

助かった! ありがとう!

 

メッセージを読んだ海人の脳裏に、大きな疑問符が湧いた。

(助かった? どういうこと?)

ダイニングキッチンにかかる掛け時計が六時を指して、チャイムが鳴りひびいた。そのチャイムのメロディーがあまりに寂しく、海人は鳥肌が立った。

 

日曜日の昼十二時、海人と陽樹は、街で一番栄えているM駅西口の地下通路にいた。地下通路の茶色の壁は高慢的で海人は好きになれなかった。通りゆく人々やけに湿気を含んだ大気が地下通路全体を覆っていた。

海人が鼻を鳴らすと、黴臭い空気が鼻腔を満たして、海人の脳裏に微かな不快感が広がった

「海人。今日はコスプレ衣装を買いたい。お前、五月の運動会で執事のコスプレをしていたろ? そういうのに詳しいって思って呼んだんだ」

「詳しいって……。そこまで詳しくないよ。母親が趣味で着ていて手伝ってもらっただけ」

「へー、そうなんだ。でも、あのコスプレ、相当クオリティが高くてよかったよ? なんていうか、冷酷でドMな執事ってやつ? あれ、すごく好き」

陽樹は海人へ向かって熱い口調で言った。

(すごく好き? 俺のことが?)

海人は陽樹の言葉にぞくぞくとした。陽樹に好意を向けられていることがただ嬉しかった。

陽樹はスマホを取り出して少し操作すると、海人へ画面を見せつけた。画面には、運動会でコスプレをした海人が写っている。執事のコスプレをした海人は校庭を走っていた。

海人は自分のコスプレ姿をまじまじと見た。黒髪で、前髪が長いショートウィッグ。スタイリッシュながらも危険な男の雰囲気がするメイク。優しくてどこか危なげ笑顔。燕尾服を模した漆黒の衣装、知性が漂う銀縁の片眼鏡、官能的な純白の手袋……。

海人のコスプレ姿は、完璧なまでに美しかった。海人は急に恥ずかしくなった。

「バカッ。なんで俺の画像持っているんだよ。恥ずかしい。でも、ありがとう」

海人は恥ずかしさをごまかすため、ぼそぼそした口調で言った。

「海人、俺はお前が羨ましいぞ」

「羨ましいって?」

「コスプレのクオリティが高いし、人気になっていたから羨ましい。コスプレしている海人を見つめながら、クラスの女子が『執事姿の海人君にいじめられたい!』ってずっと悶えていたぞ」

「いじめられたいってマジで言ってんのかよ……。てか、今日は陽樹に似合う衣装を探すってことでいい?」

海人はそう言うと、脳内で海人に似合いそうなコスプレ衣装を考え始めた。すると次の瞬間、陽樹が意外そうな顔をした。

「いや、違うよ。今日は莉花の衣装を探すつもり。今度プレゼントして着せるんだ」

陽樹の言葉に海人の心の中で何かがぐっしゃりと潰れる音がした。

(莉花の……? はあ? なんだよそれ?)

海人は、陽樹が莉花にコスプレ衣装を着せている光景を想像した。コスプレ衣装を着た莉花は笑顔で陽樹に近寄って抱き着く。陽樹は莉花を優しく抱き込んで、二人は密着して一つに融けあう……。

海人は、心臓の表面を粗いやすりに削られたような痛みを感じた。その痛みはあまりにひどくて、海人は微かに涙ぐんだ。

「……俺は陽樹がコスプレをすると思ってたのに」

「そのうちやるかもね。莉花と二人で」

海人は、溢れようとする涙を必死にこらえた。

海人は陽樹を引き連れて、地下通路の階段を上って地上へ出た。そしてすぐ隣にある商業ビルの玄関に入り奥のエレベーターに乗り込んだ。海人がエレベーターの鏡をのぞくと、そこには泣きそうな自分が写っていた。

(惨めだ。本当に惨めだ……)

海人は心臓を錐で刺されたような痛みを覚えた。

二人を乗せたエレベーターは七階へ到着した。エレベーターの扉が開くと、フロア一面にアニメグッズの専門店が占めていた。その専門店の一角に、コスプレ衣装のコーナーがある。

二人は専門店へ入った。数多く並んでいる本棚は、大量の漫画やライトノベルがあり、その本棚に向かって客がひしめきあって、黙々と漫画やライトノベルを物色している。二人は本棚の間を、客をかきわけながら進んだ。すると目の前にコスプレ衣装のコーナーが現れた。陽樹は感激の声をあげた。

「お、こんなにコスプレ衣装があるんだ?」

「そうだよ」

海人は醒めた口調で言った。

「莉花にはどれが似合うかな……」

陽樹はそう呟くと急に目つきが変わった。その眼は繁殖期のケモノのように輝いていた。陽樹はコスプレ衣装が並ぶ棚に近寄ると、ひとつひとつの衣装を手に取って真剣に物色していた。

海人は陽樹に向かって、涙を流しそうになりながら言葉をかけた。

「莉花はいいよな。お前に可愛い衣装を着せてもらって。ホント、羨ましくて……」

海人は言葉の最後まで言うことができなった。そして海人は氷水に全身を浴びせられたように驚いた。その理由は二つあった。

一つ目は、莉花のことが羨ましいと陽樹に向かって言ったこと。

二つ目は、「羨ましくて……」の後に「莉花じゃなくて、俺が陽樹にコスプレ衣装を着せられたい」と続けようとしたこと。

(そうか、俺は莉花を蹴落として、陽樹の《彼女》になりたいんだ)

海人は自分の想いにはっきりと気づいた。そして、その想いがあまりに恐ろしい願望だと一瞬にして悟った。

海人が陽樹の彼女の座から莉花を蹴落として、陽樹の《彼女》になりたいのだ!

(陽樹の《彼女》になりたい。陽樹の子どもを孕みたい……)

海人は陽樹の子を孕みたくなった。その時、海人の下腹部から甘い痺れが生じた。海人はその痺れに驚いた。海人に存在しないはずの子宮が陽樹に対して反応しているように思えたからだった。

海人は身震いをして茫然と立ち尽くした。海人の美しい顔から血の気が引き、顔の色がだんだんと青みがかる。

一方、陽樹は海人が投げかけた言葉を一切聞いていなかったように、黙々とコスプレ衣装を選んでいた。何種類かコスプレ衣装を手に取ったあと、陽樹は魔法少女の衣装をしっかりと手に取った。魔法少女の衣装は過剰なほどフリルがついていて、可愛さがあふれるものだった。陽樹はさらにウィッグを手に取ると、レジに向かって真っすぐ歩きだした。

その後ろを、海人はついていきながら、涙をこらえていた。もし、陽樹の好みがこの魔法少女のような可愛い衣装だとしたら、海人が陽樹を喜ばせるために着る必要がある。だが、この魔法少女の衣装は海人にとても似合うものではなさそうだった。

陽樹がレジへ着き、会計を済ませたあと、二人は専門店を出た。海人は陽樹を残してトイレへ駆け込み、個室へ入って鍵を掛けると声を殺して泣きはじめた。

海人は莉花が許せなくなった。そして、海人の脳内に、ある恐ろしい計画がつくられていった。それは、莉花、そして陽樹を一気に破滅させるものであった。

 

海人の部屋に大きな姿見があった。その姿見の前に、海人は女装をして立っていた。

陽樹が莉花へ買ったものと同じく、魔法少女のコスプレをしている。

海人は姿見に映る自分自身の顔をじっと見た。母からコスプレ用のメイクを教えてもらい、顔はまさに女性そのものであった。

面長の輪郭。優し気に伸びた眉。眼は菫の華のように繊細で、マスカラをしているまつげは煌びやかに存在を主張していた。鼻は真っ直ぐ顔面の中央を貫いていて、その下にある唇は禁断の雰囲気を醸し出していた。

(これが俺? 綺麗すぎる……)

海人は手を顎へ当てた。その手つきは自然と艶めかしくなる。

海人のメイクはあまりに美しく、海人は上機嫌になっていた。海人は驚きと感動のあまり、姿見のなかに映っている自分自身を見て頬を赤らめた。

「これが、俺……?」

海人のなかで何かが決壊した。海人はスマホを取り、カメラを起動させると姿見に映った自分を撮り始めた。スマホからシャッター音が何度も何度も鳴る。

(俺、可愛い。すごく、可愛い……)

海人の指は、ピストンが往復運動をするように上下に動き、延々とシャッターボタンを連打し続けた。女装をする海人は、にたにたした、いやらしい恍惚の表情を浮かべていた。そして海人の顔につく目は原油のようなどす黒い輝きを放っていて、狂気に包まれていた。

海人はその写真たちを見て薄気味悪い笑みをたたえた。そして、海人はSNSの画面を開き、女装のためにつくったアカウントで連続して投稿した。すると、その写真たちはすぐさま拡散された。スマホの画面には、多くのアカウントから届いたリプライが表示されていた。

「かわいいね」

「君のこと、遊びに誘いたいなあ」

海人はそのリプライを見て、興奮に浸った。自分が誰かに注目されている。選ばれている。それは海人にとって恐るべき発見であった。海人は恍惚の表情を浮かべた。

海人は生まれ変わったのだ。

海人は、今までの人生で注目される機会に飢えていた。海人は常に注目することを強要されてきた。男として、M高校のエリートとして、自分自身の人生を形作るために何かを選びつづけなければならなかった。だが、海人はこれから誰かに選ばれる立場になったのだ。自分の人生を、他人の選択にゆだねる。それは、他人のペットにされても文句が言えないのだ。

海人は犬になりたいと願ってしまった。それも、陽樹の犬に! 井川家のダイニングで、陽樹とその家族に愛される可愛らしい仔犬。陽樹は莉花よりも犬になった海人を愛し、頭をなでる……。海人は陽樹に愛される光景を妄想して、背筋にびりびりとした電気が流れた。海人の顔が一気に歪む。だが、その顔は、おそろしく下品であった。生まれ変わった海人の姿は、あまりに美しく、グロテスクであり、淫猥であった。

海人は、計画をさらに次の段階へ進めた。それは、海人が自ら人権を放棄すると同時に、陽樹の所有物になる、海人にとって夢のような行動だった。

海人は、SNSの検索欄に「井川陽樹」と打ち込んだ。検索ボタンを押して少し画面をスクロールすると、陽樹本人のアカウントをすぐに見つけた。

(俺は、陽樹の犬になる。陽樹に身をささげる駄犬に……)

海人は陽樹のアカウントをフォローすると、すぐに陽樹からフォローが返ってきた。海人は高笑いしながら陽樹に「デートに行きませんか?」とダイレクトメールを送った。帰ってきた返事は「行きたい!」だった。海人の思い通りになった。海人は、陽樹の陰茎を舐める練習をしようと、犬のように舌を出してハアハアと湿った吐息を出し続けた。(了)

 

 

 

 

2021年10月7日公開

© 2021 眞山大知

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