予備校講師

眞山大知

小説

3,475文字

予備校講師も教え子を導く先生。講師は巣立っていく教え子のために、はなむけの言葉、そして人生最大の後悔を伝える……

よし、これで旧帝大理系数Ⅲの講座は終わり。テキストは全部終了。チューターさんから伝えられていると思うけど、冬期講習と直前講習は好きな講座を選んで取るシステムだから、クラスの全員が揃うのは今日で最後。
ちょっと話をさせてくれ。お前らに送る最後の言葉だ。来年もここにいれば聞けるけど、誰も望んでないだろ? 俺の役目はお前らが合格して、来年の春、笑顔で大学の門をくぐってもらうこと。この予備校の門をくぐってほしくない。
ここからは先生の昔話だ。俺はな、大学の門を笑顔でくぐれたけど、笑顔のまま出ることはできなかった。
お前らに守ってもらいたいことが三つある。
一つ目。いっぱい学べ。そして、いっぱい遊べ。
19歳の時、先生はこの予備校を出て、上京した。大岡山の大学に行った。純粋に数学が好きだった。あの頃は確率論がやりたくて、なぜそうしたか思い出せないけど、コルモゴロフの『確率論の基礎概念』をカバンに忍ばせて入学式に出た。
同じ学科に斎藤って友達がいた。この予備校でも同じクラスだった。ちょうどこの教室、いつも一番奥の列に隣同士で座って、講義が終わったら駅前のゲーセンで遊んでいた。
俺は単純に勉強ができなくて浪人したが、斎藤は違った。能力が偏りすぎていた。興味のある数学はずば抜けて優秀だったが、ほかの教科の点数が足りなくて浪人した。真逆だった。俺の予備校生活は、死にものぐるいで勉強しても、倒れないために計画を立てるところから始めた。斎藤は、数学以外の教科に興味を持つところから始めた。
なんとかふたりとも合格。入学式の席も、隣同士だった。
桜が葉桜だらけになった頃、斎藤の借りたアパートで麻雀を打った。斎藤は麻雀が下手くそすぎて話にならない。必ず4位になってしまう。とにかく無鉄砲すぎるんだ。1年のときはずっと斎藤の家で遊んでいた。スマブラも下手くそだった。けど、楽しそうにヘラヘラしている。斎藤と一緒にいると、場が和む。
現代のコンピュータの基礎を作ったノイマンって天才がいる。そんな天才でも、ポーカーが下手だった。気にすることはない。
学んでいるうち、実力を悟った。全国から天才がぞろぞろと来る学校で、絶望的なまでの差を見せつけられた。特に斎藤はえげつなかった。岩澤理論について、教授と口喧嘩ができて言い負かしてしまう。ブログを作って、自分の研究成果を発表し、教授に褒められる。そんな斎藤と違って、俺はなんの才能もない。研究者になんてなれない。すぐに教職課程を取ることを決めた。数学の素晴らしさを広めるために。大学を出た後に食べていくために。
二つ目。追い求めすぎるな。
斎藤にはもう一つ、ずば抜けた才能を持っていた。投資だ。1年の冬、斎藤は暗号資産の先物取引に手をつけた。あの頃の暗号資産はまだ知名度も低くて、無法地帯。その無法地帯で、斎藤は異常なまでに勝ち続けた。斎藤にはルールのない場所で生き残る、そんな能力があったのかもしれない。逆に言うとルールに縛られると途端に才能を発揮できなくなってしまう。
相当儲けたらしい。親が抱えた借金も肩代わりしたらしい。
ブログはPV数を稼いで人気を呼んだ。2年の夏、「一般 Greenberg 予想の部分的解決」という記事を書いたら学会の目にとまり、専門雑誌にもとりあげられた。その瞬間、斎藤は間違いなく時代の寵児だった。教授、同じ学科の先輩、同期、後輩。他大学の教授が、斎藤を褒めちぎった。学生新聞の取材も受けていた。
斎藤――今じゃ手の届かない、高みに昇った斎藤。妬ましいと本気で思った。距離を置くことにした。
だけど、半年後、正月明けに斎藤にばったり出くわしたら顔が青ざめていた。
ただ事じゃないと思った。大学生協の食堂に連れて行った。自販機で温かい缶コーヒーを買って、斎藤に渡してもずっと下をうつむいていた。
呟くように話しかけた。
「どうした」
「また金を稼げたんだ」
「いいんじゃねえか」
「違うんだ。苦しい。どれだけ稼いでも満たされない。数千万、数億円、そんな大金を動かして利益を得ても、まったく嬉しくない」
斎藤は黙って首を横に振った。
「稼げなくたって、数学があるだろ。期待のホープ。誰だって、お前には研究者になってもらいたいんだ。頑張れ」
「数学も嬉しくない。どれだけ研究して、結果を出しても満たされない。俺、おかしくなったのかな」
斎藤は苦しんだ表情で言葉を紡いだ。顔面から血の気が引いていて、どれだけ経ってもコーヒーを飲まなかった。別れた後、LINEに何度もメッセージを送ったが、全く返事が来なかった。
3年の冬、研究室に配属された。就職に理解のある教授がいて、その人の研究者へ希望を出した。人気の高い研究室だったけど、無事配属された。
だが、斎藤は留年した。3年後期、ずっと家に引きこもっていて単位が足りなかった。教授陣が講義へ出るよう説得したらしいが、斎藤は投稿を拒否。ブログは、いつの間にか更新を停止した。
斎藤が有り金を全部溶かしたと風の噂に聞いたのは春休みの直前だった。
三つ目。ピンチになったら信頼できる人を全力で頼れ。
世の中には、金と権力しか信じない輩どもがうようよいる。学問の崇高さなんて微塵も理解できない。他人を叩き潰して、金を得る。そんな下劣な俗物どもは、お前らの思っている以上にいる。
4年の春、教育実習から帰ってくると、研究室の様子がおかしい。他のメンバーが白い目を向けてきたから問いただしたと、「お前が研究室に入れたのは裏金を使ったからって聞いた」と半分罵られるように言われた。
噂の出処はすぐ特定できた。斎藤から聞いたらしい。
斎藤のアパートに無理やり入った。床には専門書が足の踏み場もないほど転がっている。その中央、薄っぺらい布団で斎藤は震えていた。
斎藤に問いただした。
「裏金使って研究室に入れるわけねえだろ。なんで噂を流した」
「悔しいからに決まってるだろ。借金地獄の俺が留年。お前は平気な面して、研究室に配属。来年の今頃はどっかの高校の先生か?」
俺は斎藤をひっぱたいた。
「だったら単位を取って学年あがれよ。お前の才能、そのまま埋もれさせたくない。一作も論文を書かない研究者がどこにいる。研究室に入って、さっさと論文を書け」
投資で背負った借金だから、自己破産できないかもしれないが、とにかく債務整理をさせよう。資料を駆けずり回って集めた。その資料を斎藤の目前に置いた。斎藤は弁護士事務所のパンフレットをちらっと見るなり「学部しか出てねえのかよ」「俺の力があればすぐに返せる」「投資以外もやらないと」と吐き捨てた。斎藤の目は血走り、濁りきっていた。
その無様な斎藤の姿を見て、俺は見捨てようとした。アパートから出た。
ここで家に帰らなければよかった。いまでも後悔している。
次の日、斎藤のアパートに入ると誰もいなかった。斎藤は二度と帰ってこなかった。斎藤のブログが更新されていた。社会への身勝手な呪詛だけが書き連ねてあった。
6月、不気味なまでに雨が降らなかった。斎藤は群馬で見つかった。水不足で干上がったダムの底にいた。斎藤の遺体は軽自動車に乗っていて、脇のスーツケースから、バール、包丁、縄、ガラケー、フルフェイスの黒いマスク、高級住宅地の住人ばかり書き連ねた住所録が見つかった。
強盗に手を染めていた。ガラケーに残された通話記録から、強盗の指示役がすぐ捕まった。「脅せばなんでも言う事を聞くやつだった。バカなカモだった」。それが、指示役が斎藤――誰もが羨む天才に下した評価だった。

まともに就活なんてできなかった。教員採用試験は全て落ちた。
年の暮れに、母校の予備校とご縁があってようやく内定を頂いた。
3月、卒業式の直後、研究室の棚に一冊の冊子を置いた。斎藤がブログで発表した研究内容をまとめている。俺の力では、ほんのわずかしかまとめられなかった。残りの作業は教授に引き継いでもらった。俺にとってなんの得もなかった。自己満足だ。だが、俺が書いたゴミみたいな卒論より、無限大倍の価値がある。そう思うと、涙が溢れ出た。
お、チャイムが鳴ったな。俺、今な、涙を流しているけど、気にしないでくれ。俺は、斎藤を救えなかった悔いを背負って生きている。俺はな、いつか、教室の一番奥の列に、斎藤がひょっこり座りにくるんじゃないかって思っている。あいつに、あいつにもう一度会いたい。もし会えるとしたら、この教室で会いたい。あいつが出てきてくれるまで、死ぬまでこの教壇に立ち続けるつもりだ。
お前らは、さっさとここから羽ばたいてくれ。悔いなく生きろ、以上!

2022年12月30日公開

© 2022 眞山大知

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