李真の夢

蒼城アタル

小説

6,082文字

時は19世紀の清。人生に絶望した李真は、正義のために生きようと邑を飛び出す……。
あなたの正義は本当に正しいことですか?

清王朝の末期・光緒帝の御世、広州のなんとかいう邑に李真という三十過ぎの男が住んでいた。李真は邑の人々から蛇蝎のごとく嫌われた。毎朝、邑の大切な関帝廟に陣取っては、主神の関帝聖君に向かって「俺の人生は関帝聖君に潰された!」とうるさく騒ぎ立てるからである。

李真の人生は泥沼に嵌まっていた。一歩も前に進めない。

李真は油売りの三男坊である。父親は邑一番の長者だったが、妾の生んだ李真をまともに育てる気がなく、長男の李容を大事に育てた。李真は子どもの頃からずっと邪険に扱われた。部屋を与えられず、屋敷の狭く湿った廊下で寝かせられた。

李真は家にいながらにして孤独を味わった。十五で家出し、上海に出たあとは侠客の真似事をしたり、京劇の俳優をしたり、様々な稼業に就いたが、どれも挫折して帰郷。三十歳、立志の年に一念発起。ふたたび家出して科挙を受験したが失敗した。

絶望した李真は故郷へ帰ってから、「科挙の受験で家を出た朝、絶対勝つように関帝廟へお参りした。だけど、たかだか一次試験の郷試にすら落ちた。関帝聖君が悪い。全部、あいつが悪いんだ」と己の運命を身勝手に呪いつづけた。

 

ある夏の夜更け、李真は部屋の寝台に寝っ転がっていた。この部屋はもともと豚小屋である。李容が李真を哀れんで改築して住まわせていたのだ。

満月が部屋を照らす。李真は自分の体をじっと見た。麻の下着のいたるところがほつれ、胸元から見える痩せた体は、肋骨が不気味に浮き上がっている。

「俺は人間として思われていない。痩せた豚だ」

李真はため息をついた。枕元の分厚い本を手にとる。表紙には大きく立派な楷書で『絶対勝利』と書かれている。李真が執拗に読んでいる自己啓発本だった。

パラパラとめくる。たまたま目についた行に「正義のために、がむしゃらに努力すれば必ず名を挙げることができます」と書かれている。

「ああ、正義のために努力すれば、出世できるのかなあ」

李真はつぶやいて、窓を見た。満月の強烈な光でたちまち李真の目がくらんだ。

「ちくしょう、満月がまぶしいなあ! 気に食わねえ。ふざけんじゃねぇぞ」

月にまで悪態をつくほど落ちぶれた李真。まさに無様だった。

李真は酔いつぶれていた。酒を飲もうと手元の酒瓶をひっくりかえしても、中身は空。

「なんだよ、空じゃねえか!」

李真は酒瓶を思い切り床に叩きつけた。

甲高くすさまじい音。寝台から床を覗き込むと、酒瓶は木っ端微塵に割れ、欠片が散らばっている。

「ああ、くっそ。割れやがった」

ふと、欠片の脇に、絵筆が転がっているのに気づいた。筆先がばらけて使い物にならない。昔から絵だけは続けられた。だが、科挙に落ちてからまったく描いていない。

「どうしてこうなった。俺は間違ったことをしてないのに。ああ、いっそ、おもいっきり正義のために生きたい」

李真は叫ぶなり、酔いにまかせて寝てしまった。

 

 

扉の開く音がきこえた。李真が目を覚ますと、寝台の横に李容が腕組みをして立っていた。血走った目、真っ赤に染まった顔が月明かりに照らされてはっきりと見える。関帝聖君の赤く怒った顔と似ていると李真は思った。途端に全身が震え上がった。

李容はじろりと李真を睨みつけると、冷酷な口調で淡々と言いつけた。

「お前、これ以上関帝廟の前で騒ぎ立てるな。邑の人たちがウチの油を買ってくれなくなった。商売があがったりだ。どうしてくれる」

李容の眉間に深いシワができた。額には血管が浮き出ている。

「関帝聖君なんてものを祀るあいつらが悪い。俺は悪くない。ほら、この本にもそう書いている」

李真は絶対勝利を手に取って李容に見せつけた。

「今の清で一番賢い千理先生って商人が書いたんだ。偉い人が言っているから、間違いない」

無邪気に本を開き、ある一節を指さした。

「『むやみに特定の神を敬っていけない。私の言葉だけを信じれば、絶対に勝利するのだ』。兄貴にも、こういう新しいことを学んで欲しいな」

李真が偉そうにいうと、李容は本を取り上げて床に叩きつけた。

「なにが絶対勝利だ。そもそも、こんな顔も見たことない人間の言うことを信じるのか? 口が上手いだけだ。孔子様も『巧言令色鮮し仁』とおっしゃって……」

「孔子」という言葉を聞いた瞬間、李真は怒りを覚え、怒鳴りつけた。

「科挙の問題なんて、孔子様が書いたものばっかり取り上げられる。科挙なんてものがあるから、俺はこうやって苦しんでいるんだ」

李容は黙って後ろを振り返ると、小さくため息をついた。

「じゃあ、せいぜいその千理先生のところに行って、勉強するんだな」

李容はすぐさま部屋から出ていった。

李真は酒で朦朧とした頭で考えた。千理先生のもとに行かなければならない。だが、金がない。李容は貸してくれないだろう。ダメだ。だが、次男の李道が送る仕送りがある。李道は清を飛び出してアメリカ・カリフォルニアへ移住。苦力として木綿畑で肉体労働をしている。その稼ぎでも、清に送れば大金。仕送りで李容が家を増築するぐらいだ。李道の送る金が、明日この家に入ってくるはずだ。少しぐらい、頭を下げれば分けてもらえるだろう。李真はここ数年経験したことのない高揚を感じた。

翌日、李真は李容に金をせびったが、無下にされた。早朝に妻の白氏が倒れ、薬代として使うからだという。

李真は激怒した。すぐさま家を飛び出した。千理先生のところにいけば、すべてが解決する。野宿をして、道端の草で飢えをしのぎながら北へ向かい、二ヶ月の後、江寧(現代でいう南京)に到着した。

十数年前、江寧は洪秀全率いる拝上帝会が占拠。独立国家・太平天国を建国し、この地を首都・天京と定めた。だが、清の軍人・曽国藩率いる湘軍と熾烈な戦いを繰り広げた末、街は壊滅させられた。その江寧の街もすでに復興して、どこを見渡しても楼閣がひしめいている。通りには数多の人が押し合いへし合い行き交っている。まさに圧巻の一言だった。

李真は懐に絶対勝利を携えながら、街のはずれ、獅子山の麓へ赴いた。真紅でひときわ立派な楼閣が見える。そこが千理の率いる企業『龍王会』の本部であった。

龍王会は長江一帯に多くの酒場、宿、賭場、薬屋を展開。巨額の金を稼ぎ、経営者の千理先生は当代きっての商人と讃えられている。

李真は楼閣へ入ると職員へ絶対勝利を掲げ、「ここで働かせてくれ」と申し出た。図々しい方法だったが、すぐに面接を受け、採用された。

 

李真は絶対勝利の訪問販売を命じられ、一年の間、江寧中の家をまわった。千軒巡っても、一軒も話を聞いてくれない。それでも必死に歩きまわった。その李真の根性が評価され、次は寧波の賭場で責任者を任された。李真は努力した。客から大金を巻き上げ、借金漬けになった者は売り飛ばしてまでも金に換えた。その次は新安で薬屋を任された。客が求めれば、阿片ですら平気で売りつけた。すべて、出世のためだった。

だんだんと組織に認められた李真は、ついに千理先生と対面することになった。

李真は本部の最上階、大広間に呼ばれた。窓の外には、長江の雄大な流れが見える。大広間の中央には玉座のような立派な椅子があり、千理先生が座っている。痩せているが肌が照り輝いていて、生命力に満ちていた。顔からは慈愛があふれ、李真を包み込むようだった。李真は、千理先生を正義そのものだと思った。人生で初めて触れた、正義。

「親愛なる李真。お前のことを信頼する」

千理先生はとろけるような微笑みを向けた。

「ありがとうございます。この生命にかけて、ついていきます」

「これから、我々は独立国家をつくりたい。この国に正義を広めたい。手伝ってくれるかな」

「はい。私は正義のために生きたいと常に思っていました。千理先生の偉大な事業に関われて、私は幸せ者でございます」

李真は俄然働いた。龍王会は稼いだ多額の資金を元手に軍隊を組織。李真は軍を率い、長江一帯および華南を一気に占領した。

李真は千理の言うことを何でも実行した。土地を征服するなら略奪、放火、虐殺も辞さなかった。千理先生に命じられるまま、李真は故郷の邑を焼いた。憎き関帝廟を壊し、李容一家を目の前に連れてこさせた。

「待て、李真。俺を斬るのか」

李容はじっと李真を睨みつけた。

「『千理先生のところに行って、勉強するんだな』って言ったのは兄さんでしょ。いまさらなにを言ってるの?」

李真は自らの刀で李容の首を刎ねた。李真の良心は痛まなかった。正しさは自分にある。正義のために生きている。そう李真は信じきっていた。

千理先生は独立国家・龍愛国を立て、自らを皇帝・龍愛帝と名乗った。江寧を首都とし、名を帝安と改めた。李真は宰相に抜擢された。清王朝との間で戦争が起きたが、互いに実力が拮抗し、戦いは泥沼と化した。

その間、李真は家族に恵まれた。王氏という美しい妻を娶った。自分の親の二の舞にならないよう、妾をもうけなかった。王氏との間に三人の子どもが生まれた。長男の紹、次男の告、三男の操である。

李真は三人を厳しく教育した。龍愛国にも科挙があり、官吏に登用させるには科挙を受験する必要がある。李真は毎晩三人を机に向かわせ、勉強させた。

「よし、お前らに勉強を教えるぞ」

李真は三人の背後をうろうろ歩いた。学力がない父親ほど、自分で勉強を教えたがる。李真もその類だった。

長身の李紹と怪力の李告は文武両道で、成績も優秀。将来は軍人になりたいという。李真は将来有望な二人を見て嬉しく思った。

だが、ちびで痩せかれの李操は勉強ができない。答案もしどろもどろだ。

「こら、もっと勉強しろ。みっともない。馬鹿じゃないか」

李真は李操を殴った。自分を見ているようで嫌だったからだ。

十年後、李紹と李告は晴れて科挙に合格。武官に登用された。だが、それからすぐ、龍愛帝の命令で最前線に突然送られ、戦死。その知らせを聞いた王氏は悲嘆にくれた末、自害した。李真は家族の死に、邑を出てから初めて涙を流した。

喪が開けると李真は城に赴いて、龍愛帝に直接問いただした。

「おそれながら皇帝陛下、わが息子の李紹と李告が戦で死にました。最前線に送られたのは皇帝陛下のご命令だとうかがっています。まったくの新人武官がいきなり実戦に送られるなど、聞いたことがありません。どうしてでしょうか」

龍愛帝は退屈そうにあくびをした。

「子どもを殺されても朕についてきてくれるか、忠誠心を試したのだ。朕は理解した。お前の忠誠心は本物だ。息子が殺され、妻が自害しても、朕に刃も向けられない。李真、朕に死ぬまでついてきてくれ」

そのとき、李真は初めて龍愛帝を憎んだ。すぐに後ろを振り返り、李真はつぶやいた。

「こいつは、最初から正義でなかったのだ。これからは、俺だけが正義だ」

李真は龍愛帝の暗殺しようと目論んだ。だがその夜、帝安に清の軍勢が侵入。城にいた龍愛帝はあっけなく捉えられ、斬首された。

 

李真は屋敷に閉じこもった。きらびやかな書斎から外を眺める。夜の帝安の街は分厚く紅い炎がのっぺりと覆い、火柱が龍のごとく空へ昇っていた。もうじき、この屋敷にも火がついて燃えるだろう。そうでなくても、清の軍勢が屋敷に突入すれば、ひきずりだされて殺されるはずだ。

李真は書斎を出た。この屋敷からすぐさま逃げなければいけない。ふと、唯一の生き残り・李操を気にかけた。何もできず、下手な絵ばっかり描いている。

見捨てようかと考えた。

李真は自分の父を思い出した。三男だった自分をないがしろにした父。自分はそうなりたくない。李操を大切にしたい。一緒に生きたい。李真は思い直した。

李真は李操の部屋へ向かった。窓辺の李操は、外を見ながら絵筆を走らせていた。どうやら、燃え盛る帝安の街を描いているようだった。

「李操、絵なんてくだらないものをやってないで、さっさと逃げるぞ」

「……いいよ。逃げたところで、父さんはどうせ僕の邪魔をする。ここで絵を描きながら死んだほうがましだ」

「なんでだ。まだ殺されるってきまったわけじゃない」

「僕はやりたいことがいっぱいあった。でも、お父さんは全部それを否定した。何度も殴られた。蹴られた」

「突然どうした。あれは俺がお前のために正しいと思ってしたわけで……」

「お父さんのせいで人生をめちゃくちゃにされた!」

李操は懐から刀を取り出すと、顔がみるみるうちに変化した。全体が赤く染まり、目は見開いて血走っている。眉は太くなり、毛は絵筆よりも長い。関帝聖君にそっくりだ。

「俺は関帝聖君だ。天帝に頼まれ、お前が本当に正義に生きられるか性根を試したんだ。だがお前は、正義の名のもとに人やクスリを売って、略奪、放火、虐殺。家族も殺す。お前は正義のためならなんでもする鬼畜だ。もし最後に李操を見捨てていたら、お前を天帝に突き出して永遠の罰を受けさせていた。李操を助けようとした心がけに免じて、もう一度、機会を与える。人生を生き直すように。くれぐれも、立身出世しようと考えるな」

関帝聖君は李真の腹を突き刺した。薄れゆく意識のなか、李真は「許してくれ」と何度も何度も謝った。

 

 

李真の視界が再び明るくなった。邑の実家にいて、硬い寝台の上に寝ていた。月明かりが眩しい。床を見ると、割れた酒瓶のかけらが散らばっている。転がっている絵筆は先がばらけて使い物にならない。

時が邑から家出をする前夜に戻っていた。

「今までのことは夢だったのか……」

李真は着物を脱いで、腹を見た。腹を横切るように切り傷の跡がついていた。その途端、全身に鳥肌が立った。

ふと、扉の開く音がきこえた。李容が腕組みをしながら入ってきた。

李容はじろりと李真を睨みつけると、冷酷な口調で淡々と言いつけた。

「お前、これ以上関帝廟の前で騒ぎ立てるな。邑の人たちがウチの油を買ってくれなくなった。商売があがったりだ。どうしてくれる」

李真は人生を生き直すと決心した。

「兄さん、ごめん。俺、心を入れ替える。邑の人たちに謝る。そして、兄さんの商売を手伝って金を貯める」

「ほう。で、どうするつもりだ」

「絵師になりたいんだ。稼いだ金で絵の勉強をする」

李真は心を入れ替えた。

絶対勝利を火をつけて燃やし、翌朝から李容の仕事を手伝いはじめた。関帝聖君を深く信仰し、毎朝お参りをした。李真はだんだんと邑の人たちに好かれていった。

少し金を貯めたあと、李真は新安へ渡り、虚谷という絵師に師事。花鳥画を学んだ。家のすぐ近く、龍王会の薬屋には一切近づかなかった。しばらくして龍王会は経営破綻。千理先生は阿片の密売が発覚して捕まり、すぐさま処刑された。

修行を終えた李真は江寧へ赴き、絵描きとして生計を立てた。生活は苦しかったが、家族に恵まれ、夢に出てきた王氏そっくりの妻を娶り、三人の男の子をなした。三人の息子には夢の中身と同じ、紹、告、操という名前を与えた。だがその由来は最愛の妻にも絶対に話さなかった。

李真は街の人とよく交わり、皆から愛され、夢の中身と真逆の、まったく平凡で幸福な一生を過ごした。

(了)

2022年5月4日公開

© 2022 蒼城アタル

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