闇夜を星々が覆いつくしてまたたくが、明るさなど月に比べればたかが知れていた――今日は新月だった。闇に紛れて要人を暗殺するに、絶好の夜。
「だからってふざけんなよ。素っ裸で公家を暗殺してこいってバカじゃねえの」
「予算がなくて忍び装束を支給できないんだとさ。太田のおっさんが所司代になってからいつもこうだ」
愚痴を吐く部下たちに公儀隠密の黒塚は内心いらだった。部下の狐火が舌打ちした。
「クソが。あいつは禄を削ることしか能がない。おい見越、見ろよ。屋根の上にいるから風がびゅうびゅう吹きつけて、俺のマラが縮こまっている」
「あ? 狐火、暗すぎて見えねえよ。バカ。つーか、お前の粗チンなんて明るくても小さすぎてどこにあるかわからねえわ」
もう一人の部下、見越が引き笑いをした。バカタレ。仕事の現場でうかつに声を出すな。それでも誇り高き隠密か。全裸にされても仕事人としての誇りを持て。それに、見越も狐火も本質を見抜けていない。京都所司代はあくまで老中の補佐に徹するだけ。すべて老中首座が悪い――徳川と朝廷との、狐と狸の化かし合いが理解できない、ケチん坊で石頭の松平定信。
黒塚はじっと目を凝らした。ここ、伏見は公家の別荘がひしめきあっていて、公家どもが別荘に生やした木々が風に揺られ、葉の擦り合う音が闇のなかに響いていた。暗殺対象はこの屋根の下で宴をしているだろう久我信通。徳川と朝廷の調整役・武家伝奏の久我は定信にとって邪魔者で殺すべき敵だった。理由はただひとつ、定信の言うことを聞かないからだ
――つくづく怖いお方だ。本当の悪人というのは牢獄に繋がれる輩ではなく、ああいうお方なのかもしれない。立派なお方で頭が切れるが話し合いができない。正論を振りかざして相手を潰すような方だ。正論で殺せなかった場合は本当に抹殺しようとする。その道具として送りこまれたのが我々だった。道具は主人の言うことを聞くしかない。歯向かったら、文字通り殺される。
また風が吹く。全裸でいるから肌に直接風が当たってひんやりする。ついでに股間にも当たる。玉袋が縮こまりそうだ。
「黒塚さま」
横から呼びかけられる。振り向くと狐火だった。狐火は水も滴る美少年なのだが暗くてその美しい顔もほとんど見えない。
「なんだ」
「マラが出てしまって恥ずかしいです」
よく見ると狐火は恥じらったように股間を指さした。もし明るかったら狐火の顔は真っ赤になっていたに違いない。だが目を凝らしても指の先、狐火の狐火はどこにあるか本当にわからない。記憶の中だと、たしか狐火の狐火は狐の面のように細かった。触れないでおこう。
「気にするな。まだ暗いだろ。これから全裸で暗殺するんだ。どうせ人に見られる」
狐火の狐火がしょげたように見えたが気のせいだろう。どうせ見えないぐらい小さいのだから。
屋根裏に忍びこむ。梁を渡り、板の隙間から座敷を覗くと、蝋燭のほのぐらい灯りが目の前を覆った。
座敷では燭台の元に暗殺対象の久我がどっしりと座り、女の肩を抱きながら酌を受けていた。酌をしているのは薄緑色の狩衣を着た男。顔は陰間のように甘い容貌で、切れ長の目はうっすらと陰をまとっていた。――七条高麿。官位は低いが毎晩宴を開き、蛸の足のように四方八方に人脈をつくっていた。奉行所の連中どもは高麿に「大蛸」とあだ名をつけて嘲笑っていた。
高麿のすぐ側、床の間には太刀が飾ってあったが木刀だ。ひよわな公家どもが振っても、その威力はたかが知れている。全裸だったが一応腰に脇差を刺している。それでひと突きすれば殺せる。
しかし香の匂いがやたら鼻につく。顔をあげて横を見ると、見越がしかめっ面をしていた。
「くっせえ。なんだこの匂いは」
「公家の考えてることはわけがわからねえ。気をつけねば」
狐火はそうつぶやくと顎に手を添えていた。
「武器になるものは床の間の刀しかないな。しかもあれは木刀。意外とすぐ殺せるかもしれん。なあ、見越。どうする?」
見越に意見を求めたその瞬間、見越がいきなり板を外した。
「いらいらするな。へ、歌ばかり読むナヨナヨ麻呂どもがよ! 殺すには素手で十分だよ!」
「こら、バカ、やめろ。いきなり突入するな!」
手を伸ばしたが間に合わない。狐火が「ふざけんな」とつぶやくとすぐ見越に足をひっかけた。見越は姿勢を崩した。見越はそのまま真下へ落ちていった。刹那、高麿は久我から目線を外さずに木刀をむんずと掴む。大きく木刀を振り上げ高麿は見越の頭を思い切り叩いた!
「いてええええ!」
絶叫しながら見越の体は床に叩きつけられた。女中たちが叫ぶ。久我は目を見開いて呆然としていたが、高麿が口に手を当てて笑った。
「あらあ、久我さま。宴の最中、失礼しましたわあ。東国から臭い獣どもがおじゃりもうしておりましたので、御気分を悪くされないよう香を炊いておりましたが、ああ、やはり獣は臭くて鼻がひん曲がりまするわ」
作戦失敗。なんとかして見越を救出せねば。高麿はホッホッホと優雅に笑うと、床に倒れる見越を振り向き、わざとらしく大声をあげた。
「おやおや、なんたることじゃ! 服すらも着てないとは。ホホ、片腹痛いわ! 久我さま、獣はすぐ駆除いたしまするのでご安心を」
高麿は女中の髪からかんざしを抜き立ち上がった。高麿は舌を突き出し、ねぶるようにかんざしを舐めた。
「うつけものめ、手を煩わせよって。貴様が姿勢を崩して落ちてきたから木刀で殴るしかなかった。そのまま落ちてたら今頃、心の臓にかんざしが刺さっていたぞ」
このままではいけない。
「狐火、降りるぞ」
「はい!」
二人同時に天井から落ちようとしたとき、風を掻っ切るような音が耳元でした。すぐに耳に痛みが走る。耳に手を当てるとぬるぬるとしていた――血だ。
高麿は舌打ちした。
「かんざしで目を潰そうとしたが命拾いしたな。おや、一匹だけ、いい男の匂いがしますぞ。いい男の獣は生きたまま味わうに限りまする。者ども、殺すな。生け捕りにしておじゃれ」
その瞬間、黒塚は背後に気配を察した。振り返ったとともに頭を殴られ、意識は闇の底へ消えていった。
目が覚めた。起き上がるとそこは三畳ほどの広さの板間で、太い木の格子が外の空間を遮るようにつけられていた。どうやら座敷牢に閉じこめられたようだ。隣を見ると、見越が寝っ転がっていてぴくりとも動かない。
すぐさま頭に激しい痛み。
「目が覚めたでおじゃるな」
座敷牢の外から声がした。格子の外を見ると高麿が立っていた。なぜか全裸だった。蝋燭の炎に照らされた裸体は筋骨隆々で、しかもなまめかしい。だが烏帽子は脱いでいない。烏帽子を脱ぐということは、公家にとって下着を脱ぐより恥ずかしい行いだからだろう。
高麿の足元には、狐火が倒れていた。狐火は縄で全身を縛られていた。
「狐火!」
「いい男よの」
高麿はくっくっくと笑った。
「麻呂は七条高麿。ぬしら、儂の屋敷で久我さまを殺そうとするなど言語道断よ。どうせ定信あたりが決めたことなんじゃろうが。威張りよって。将軍なんてただの飾りにしか思ってないのじゃろう。さあ、ぬしら、言え。この狼藉は定信の命で働いたのでおじゃるか?」
「……言えぬ!」
高麿はホホホと笑うと、突然格子を凄まじい勢いで蹴ってきた。陰間のような甘い容貌のはずの高麿は、鬼の形相に変わっていた。
「儂は宴を邪魔されて心底腹が立っておる。久我さまは青ざめて、あのあと帰られた。これからどうやって謝ろうか、考えるだけで胃が痛くなる。それに……、儂はまだ楽しみきっておらぬ」
高麿は足元の狐火を蹴った。
「こら、狐火を蹴るな!」
そう叫ぶと、高麿は薄気味悪い笑みを浮かべて、狐火の顔を鷲掴みにした。
「ほうほう、顔が儂の好みじゃ。それに芳しい匂いがする」
狐火は怒り狂うような険しい目で高麿を見つめた。高麿は狐火の顔に鼻をこすりつけ、すんすんと鼻を鳴らしニタニタと笑った。鼻を離した高麿は、いきなり狐火の顔面に唾を吐きかけた。刹那、高麿の高麿がいきなり天に向かって屹立した。蝋燭の炎に照らされ、勢いよくいきりたったそれの影は、はるか彼方まで伸びていった。
「ああ、気が昂ぶるのう」
高麿は恍惚とした口調で言った。
――こいつ、狂ってやがる。
狐火を助けたいが、この座敷牢からどうやって出ようか。もどかしく思っていると、高麿はどこからともなく箱を取りだした。箱の上面から長く細い鎖が二本伸びていて、側面には取っ手がついている。
「長崎から取り寄せたモノでな、『エレキテル』というそうじゃ。乳首に鎖をつけて、この取っ手を回すと、火花が飛んで乳首がぴりぴりするのじゃ。これで何人の男がよがり狂ったかのう」
高麿は慣れた手付きで鎖を狐火の乳首に持っていく。鎖の先端は二股の金具になっていて、狐火の乳首はその金具につままれた。
「やめろ!」
叫んだが無駄だった。高麿は箱の脇、取っ手をぐるぐる回した。バチバチという音とともに火花が飛び散った。狐火は苦しげに喘ぎ、狐火の狐火は見えるまで大きくなった。高麿の白塗りの顔は、玩具で遊ぶ子どものように無邪気に笑っていた。
「ほれほれ、もっと喘ぐでおじゃる」
高麿はまた唾を吐いた。さらに取っ手を回す。狐火は身悶えていた。
鬼畜だ。クソ、狐火を助けられないのか。そう思った瞬間、隣から怒鳴り声が響いた。
「てめえ、狐火になにをする!」
振り返った先には見越が立ち上がっていた。見越は歯を食いしばって格子の外を睨みつけていた。そうだ、こいつの馬鹿力なら。
「見越、格子を壊せ!」
「御意!」
見越は格子へ寄った。格子を掴むと雄叫びをあげた。格子はべきべきという音を立てていとも容易く壊れていった。
高麿は一瞬にして顔がしらけ、つまらなそうに吐き捨てた。
「者ども、出会え。こいつらは不憫じゃが生かしておけぬ。捨ててしまえ」
町屋敷が二十軒建てられそうなほど広い庭でも、松明がいたるところで焚かれていて明るい。一面が芝の原の庭を、手鎖をはめられて歩く。脇から、背後から、高麿の手下どもが足で蹴ってくる。屈辱だ。一緒に歩く見越と狐火は顔を白してうつむく。
庭の池に橋がかかっていた。その橋の上を歩かされると、池から磯の香りが立ちこめていた。
「これは海水か?」
そうつぶやくと高麿の手下の一人が蹴ってきた。
「うるせえ、お前らはどうせすぐ死ぬんだから黙って歩け」
「どういうことだ」
「お前らは、この池の“主”に食われるんだよ」
橋のど真ん中で止められた。池の岸で高麿は女の上に覆いかぶさり、畜生のように激しく腰を突いていた。
女の喘ぎ声に負けない大きな声で高麿が叫んだ。
「獣どもめ、儂の蛸に食われてしまえ!」
その瞬間、高麿の手下どもが池に突き落としてきた!
「くそ! 見越、狐火、大丈夫か!」
「ええ、それより、足元でなにかが蠢いていませんか?」
たしかに、足元にごつごつしたものがある。だが、岩ではなさそうだ。なんだこれは。
刹那、足元がぐらぐらと揺れ、水面からとんでもないものが浮かんできた。
――大蛸だ。
水面から出た大蛸の黒い頭は天高くそびえ、気味の悪い目がギョロリとこちらを見つめてきた。生臭い。吐き気がしそうだ。
「大蛸の餌となるでおじゃ!」
高麿は狂気じみた顔で笑った。手元に置いていた盃を一杯飲み、烏帽子を丁寧な手付きで直すと、また女に腰を打ちつけた。
「本当に大蛸っているんだ! 俺たち食われるよ。死ぬんだ!」
見越が泣き叫ぶような声で言った。
狐火はあたりをキョロキョロ見渡す。
「黒塚さま、どこもかしこも見張られています。逃げ道がありません!」
どうすればいい。蛸の触手が天に向かって伸びた。あれ、先端に吸盤がない……。
「おい。こいつは雄の蛸だ!」
「黒塚さま、それがどういうことっていうんです!」
狐火が絶望したようにわめいた。狐火と見越のもとに泳いで、耳元でささやく。
「俺は知っているんだ。雄の蛸ってのはな、雌とまぐわうと死んでしまうんだ。まぐわいは数刻にも及ぶ。さすがに数刻もまぐわっているうちに高麿たちも寝るだろう。そうしたら逃げる。それまで俺が犠牲になる。お前たちは蛸に体を食われて死んだフリをしろ」
――公儀隠密の禄は昔から安く、まともに食えたものじゃない。生きるため、銭を得るため、男に体を売って糊口をしのいだこともある。ケツの穴になにかを入れるのなんて、生きるためなら朝飯前。
大蛸の体に抱きついて、ねちっこく触りつづける。高麿たちの方向を見ると、どこかから陰間たちを呼び寄せて、乱交をおっぱじめやがった。芝の上で、男と女がぐちゃぐちゃに入り乱れ、互いの体をむさぼっていた。
大蛸の体を執拗に触り続けていると、大蛸は吸盤がない一本の足を自分の体に刺しこんだ。大蛸がむずむずとうごくと目をうっとりさせて、体のなかから、白い鞘のようなものを取り出した。その鞘は蛸の子種だった。大蛸は鞘をつかむと、黒塚の尻の穴にねじこんできた。目論見通り。憐れな大蛸は一世一代の種付けの相手に黒塚を選んだのだった。
尻の穴が苦しい。けど、部下を助けなければ。
「黒塚さま!」
狐火と見越は涙を流していた。
橋を誰かが歩く音がした。振り向くと、高麿が橋の上から罵ってきた。
「気が狂いよったか! 蛸とまぐわうなんて!」
高麿は腹を抱えて笑い転げていた。畜生、耐えろ。鞘を腸の奥に詰められて、腹がはちきれそうだ。けど、これしか助かる道がない……。
東の空が紫がかってきた。芝の上には、数えきれないほどの全裸の男女がぐちゃぐちゃに寝転がっていた。
大蛸は池にみっともなく浮かんでいた。目はすでに白く濁っている。
「天地開闢から今まで、それこそいろんな男が生きてきたけど、大蛸とまぐわったのは俺だけでいいだろ」
ケツに力をこめる。少し間を置いて、池の水面に、大蛸の子種がぷかぷかと浮き上がった。
「一応、矢を持ってきて正解だったな」
橋の上を振り向く。全裸のままの狐火は矢と弓を持っていた。
「ええ、黒塚さま。任せてください」
狐火は返事すると弓を構えた。矢の向く先、池の岸には高麿が寝ていた。大の字になりうつ伏せで芝に転がっていて、ちょうど、ケツの穴をこちらにおっぴろげていた。
「矢の先に毒を塗っていますから、すぐ死にますよ」
狐火が淡々と言うと矢を手から離した。矢はまっすぐ池を突っ切り、高麿の尻穴に刺さった。高麿は叫び、なにやらわからぬことをブツブツ言って倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
「顔を見られた以上、生かしてはおけない。もう死んだろうし逃げるぞ」
池からあがると見越がやってきた。
「黒塚さま、陰間どもの服をかっぱらってきました」
「でかした!」
急いで着こむ。派手な柄の服ばかりだがないよりはましだ。
三人で塀を乗り越え屋敷を出て、道をまっすぐ進む。別荘の外に出ると竹藪だらけ。雀の鳴き声があたり一面に響いている。
「どうします? お上はどうせ我々を見捨てますし。もう食っていけないですよ」
見越が不安げに言ってきた。
「大坂に行きましょうか。あそこなら、身分を隠してでもなんとか生きられるでしょう」
狐火の出した案に乗ることにした。
「見越、狐火。決めたぞ。これから俺たちは自由の身だ」
道を曲がった。このまままっすぐ、十里ばかり行くと大坂へ着く。
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