「すいません。質問に端的に答えてください。出産は自然分娩で行うのですか。それとも帝王切開ですか」
衆議院事務局の佐々木主任がこれから国会議事堂を自然分娩させる理由を説明しようとすると、報道陣の最前列、新聞社の中年女性がいきなり回答を遮った。女性はスーツのピンと立たせた襟をそわそわ神経質そうに触っていた。
「自然分娩で行います。医師団の見解も同じでございます」
人の話を最後まで聞いてほしいと思った。
衆議院事務局に勤めて十年。二年前に管理部へ異動してから、国会議事堂の施設管理を任されている。お役所仕事は前例踏襲、減点主義。結婚した妻と生まれてきた子どものため、どんな不祥事もミスも起こさず、慎ましく品行方正に生きようと決意した三十二歳、文字通り気が狂いそうな事件が起きてしまった。――国会議事堂が妊娠してしまったのだ。
中年女性がヒステリックに叫ぶ。
「『新生児』が死産したら、どう責任をとるおつもりですか」
女性の目の下にはクマができている。おそらく何日も帰れていないだろう。
「そもそも、わたしたちには帝王切開の知識もありません。無機物が妊娠するなど前例がありませんですし」
佐々木は報道陣に見せつけるように手を差し出すと後ろへ振り返った。
ここは国会議事堂前の広場。佐々木の手の先、噴水の向こう側には白亜の殿堂・国会議事堂が周囲の高層ビルに囲まれながらも気高くそびえ、その中央玄関の石畳が真球状に、おおよそ二十メートル膨らんでいる。やや灰色の球から突然、鈍く大きな音が鳴り響いた。胎児が「腹」を蹴っている。噴水の向こう側で、社会科見学に来ていた小学生の集団が叫んだ。
医師団の見解によると、現在妊娠九ヶ月、三十五週目だ。来月にも出産予定だ。
「今後の計画についてもう一度説明します。お手元の資料をご確認ください」
記者にうながしながら佐々木は手元の資料を開く。最近の超音波検査は技術進歩がすさまじく、添付したエコー写真には胎児の三次元画像がはっきりと写っていた。胎児は人間と国会議事堂のキメラ。体は国会議事堂の形をして、中央塔がヒトの頭。正面から見て左の衆議院側に手が二本、右の参議院側に足が二本生えている。
異常な事態がなかなか治らない夏風邪のようにだらだらと続けば、人はいい意味でも悪い意味でもその異常へ適応していく。そして自然と狂気にどっぷりと浸ってしまう。その狂気は、やはり夏風邪のように重症化してしまう。
正気を忘れた日本国民はそのほとんどが国会議事堂の「子ども」を心待ちにしていた。出産費用の五億円が国会運営費で賄えず、クラウドファンディングで募集したらたった一日で目標額を超える寄付が集まった。こんな世間で「そもそも生物じゃない国会議事堂が妊娠するなんておかしい」なんて声は出せない。
正気なのは俺か? それとも、毎日学校や会社へ黙々と通い、夜は教師や上司の悪口で盛り上がり、そんな平凡な生活をこなしながらクラウドファンディングへ真剣な気持ちで寄付した普通の人たちか?
「当初計画では国会議事堂が出産したら、二時間程度、母親の国会議事堂と一緒に過ごしてもらい、その後、前庭へ新生児を運搬。医師団によるケアを実施する予定でした。前庭には北庭と南庭の二つがございますが、北庭には、我が国における標高を決める日本水準原点があるため、所管の国土地理院から『水準点の標高が変わる恐れがあるため新生児をそのスペースに置けない』と通達がありました。代案として、南庭に置くという案もございましたが、新生児を安置する場所の真下に丸の内線が走り、東京メトロから運行に支障をきたすとして使用中止を求める連絡があり、現在、別の代案を検討中でございます」
佐々木は発言しながら、胃がよじれるような感覚に陥った。自分で言うのもおかしいが、マトモな人間が言っていい内容でない。ましてや、自分は国家公務員。語りかけるのは全国民。だが、自分の口から出る狂気的発言を、国民が期待している。どうすりゃいいかわかるわけがない。これ以上、突っ込まないでくれ。社会人がなんでも解決できるなんて子どもの妄想にすぎない。期待されても困る。だから、こんな長ったらしく意味不明な説明でごまかさなきゃいけないんだ。
中年女性がヒステリックに顔を歪ませて口を開こうとした。その横から、テレビ局の若手社員が目を爛々と輝かせて発言した。
「私の質問にも答えてください。国会議事堂を妊娠させたのは果たして誰だったんでしょうか?」
ワンコみたいに可愛げのある記者。新卒二年目。大学でラグビー部のキャプテンをしていたという。こういう奴は、きちんと空気を読んでくれる。渡りに船だ。
国会議事堂を孕ませたのは誰か。その謎を国民が知りたがる。妊娠が発覚してから、ワイドショーは連日連夜、妊娠させた男の正体を探している。あのテレビ局のYouTube配信も、同時接続数五十万人。
答えようとした時、隣に立つ同僚の水坂が割り込んで回答した。
「男の行方は調査中です」
水坂は気品溢れる笑顔を、さも当然のようにふりまいた。ネットでつけられたあだ名は「広報の王子様」。羨ましいと思った。だが、佐々木には、どうしても釈然としないことがあった。水谷は必ずこの質問に割り込んでくる。なぜだろうか?
* * *
会見が終わり、佐々木は広場から事務局のある分館に戻った。議事堂地下の食堂やお土産屋が「母体保護」のために分館の一階へ移転して、一般人にも開放されている。食堂からカレーの匂いが立ち込める。「議事堂ママ頑張れカレー」だという。お土産屋にはハチマキが売っていた。そのうちの一つを手に取ると「議事堂ママ 出産 ガンバレ!」と描かれていた。商魂がたくましい。
隣の自販機に行き、今日何本目だかわからないレッドブルを買う。缶を開けて飲み干すと目をつむった。何度も何度も見た、監視カメラの映像がふと頭に浮かんできた。
深夜の中央玄関。黒い人影はするすると玄関の前に近づき、突然ズボンに手をかけ下半身を脱ぎ出すと、地面にうつ伏せになり、腰を上下し始めた。リズミカルに腰を地面に叩きつけ、だんだんと動きが激しくまった。腰は高速で往復運動をして、監視カメラの映像が乱れる。そして、突然腰がピタリと止まった。男は深呼吸しているのか、腹を大きく膨らませて、そして凹ませた。数回それを繰り返したあと、止まっていた腰が大きくゆっくりと持ち上がり、人影は腰を地面に一突きした。
要は、誰かが国会議事堂へ種付けした動画だ。さすがにこの動画は国民には公表していないが、衆参両院議長、および事務方のトップ・事務総長の密命により、孕ませた男を血眼になって探している。
謎は大きく二つ。第一に、まずセキュリティが厳重な国会議事堂にどうして侵入できたか。第二に、なぜ中央玄関の地面に射精しただけで国会議事堂が孕むのか。――第二の問題には手をつけないでおこう。無機物を孕ませる原理を解明しようとしたら、おそらく人類が絶滅するまで研究をしなければならないだろう。
第一の謎を解くほうが先だ。国会警備を担当する衛視に協力してもらい、あの時間帯に国会にいた関係者の顔をすべて割っている。そもそも国会は国の最重要施設。部外者が容易に立ち入れるわけがない。関係者の中から犯人を探すのが妥当だ。あの日は深夜まで国会討論が続き、議員、マスコミ、衛視、職員が相当数残っていた。その中の誰かが、おもむろに中央玄関の前へ行って国会議事堂に種付けプレスをした可能性がある。
だが、佐々木が数ヶ月に渡り調査したところ、犯行当時、議会にいたすべての人間にはアリバイが証明されている。議員たちは本会議場でプロレスのように互いをもみくちゃにしあい、職員は対応に追われ、誰も外へ出る余裕などない。水坂も、当時は国会審議中継の担当をしていて乱闘の様子をカメラに収めていたらしい。
「今日もコーヒーか」
背後から水坂が声をかけてきた。佐々木が目を開けて振り返る。佐々木の左手は見慣れないエナジードリンクのペットボトルを持っていた。
「水坂、それってどこから輸入した」
「ブラジル。南米のエナドリは日本じゃ考えられないぐらい強いぞ」
水坂はペットボトルを開けて、中身を一気飲みした。
国会議事堂が妊娠してから、仕事量が激増している。管理部の職員は両手で数え切れないぐらい辞めていった。逃げる余裕のない職員は、エナドリを浴びるように飲んでなんとかごまかしている。公務員が緩いなんて大嘘だ。
ペットボトルを飲み干した水坂は口をハンカチで拭った。佐々木は水坂に半ば呆れるように言った。
「お前、よく狂わないよな」
「目の前に起きたことをゲームだって割り切ればいいんだ。誠心誠意、仕事に打ち込めなんて理想論は、こんな緊急事態で通用しないさ」
水坂は一呼吸置くと、言葉を続けた。
「そう考えないと、狂ってしまう」
* * *
妊娠する国会議事堂の健康を考え、国会機能は臨時でホテルニューオータニに置いている。夜遅く、宴会場に設けられた臨時の衆議院本会議場へ行って、プロジェクターの調整をしていた。議員たちが「出産の様子を本会議中に見たい」と発議してプロジェクターの設置が可決されたのだ。
昭和十一年、妖婦・阿部定が捕まった時、第六九回帝国議会では代議士・斎藤隆夫が、「軍部は五・一五、二・二六含めテロ事件を闇から闇に葬り、徹底した処置を取ってこなかった」と二時間にわたり糾弾していた。――粛軍演説、憲政史に残る名演説だ。その演説の最中に、三人の代議士が「阿部定逮捕の号外を読ませてくれ」と緊急提案。可決されたため、議会はいったん休会し、代議士たちはこぞって阿部定逮捕の号外を貪るように読んだという。
人間なんて早々変わらないんだ。歴史は繰り返す。作業を終えた佐々木はそう思いながらホテルニューオータニを出た。深夜で終電もないため、そのままタクシーで帰宅することにした。拾ったタクシーに乗り込み、行き先を告げる。タクシーは静かに走り出した。働き方改革なんて夢のまた夢。
日比谷公園の脇、祝田通を走っていた。佐々木が公園のトイレをふっと見ると、スーツ姿の男女が下半身を露出させて、腰を打ちつけあっていた。
いくら真夜中だからって、こんな街中で堂々とセックスするなよ。あれ、そういや、水坂はあの日、本会議中にトイレに行ったって、広報の後輩から聞いていたな。よくよく考えたらこの時間、水坂は果たして本当にトイレに行っていたのだろうか、疑惑が浮上する。トイレ周辺の監視カメラは確認していなかったな。調べなければならない。思考回路が回り始めると、運転席の顔も名前も知らない、老人のドライバーから声をかけられた。
「佐々木さん、いつもテレビで見てますよ」
毎日テレビやYouTube配信で顔を映されているから有名人になっている。なにも結果を出さなくてもいいのなら、このまま有名人になり続けたい。だが、国会議事堂を無事出産させる義務がある。
「ええ、ありがとうございます」
「あれだけ大きな新生児、本当に育てられるんですかね」
「以前、記者会見でも言ったとおりですね。新生児の養育は防衛省が名乗り出て、静岡の富士駐屯地で飼育しますよ。そもそも、防衛省がどうやって新生児を永田町から富士山のふもとまで運ぶかは謎ですが」
「そういえば佐々木さん、『キングコング対ゴジラ』って知ってます?」
「二年前ぐらいにそんな映画がありましたよね」
眠気でつい欠伸をしてしまう。
「違いますよ、それはハリウッド映画。昭和三十年代の映画で、キングコングが日本にやってきて、ゴジラと戦う話です。はなたれ小僧だった頃に観ました。南の島からキングコングが東京にやってきて、国会議事堂に登るんですよ。で、キングコングを眠らせたあと、富士山麓でゴジラと戦わせるため、自衛隊が輸送するんです。その作戦ってのが――」
ドライバーの話に佐々木は惹きこまれ、言葉を一言一句すべてメモ帳に書き始めた。この作戦ならいける。あとはどれだけの費用がかかるか計算しよう。
* * *
「国会議事堂が破水したぞ!」
衛視から連絡が入ったのは出産予定日の前々日、まだ日の昇らない朝の四時だった。
妻と子どもが寝ているなか、急いで家からタクシーを飛ばし、国会議事堂にたどり着いたのは朝の五時、東の空がようやく明るくなった頃だった。
作戦準備から決行まで一ヶ月。白髪がどっと増えてしまった。それでも、この仕事は完遂させたい。
事前に組んだ段取りどおり、噴水前には長さ四〇メートルの巨大なクッションを置いていた。クッションの上には強度の高い、特殊鋼材の網を設置。国会議事堂と北庭の間にはクッションで壁を作っている。新生児が北庭に来ないようにするためだ。噴水の脇には、万が一のため帝王切開できるように、地面を切り裂く刃をつけた巨大ユンボを数台配備している。
ライトアップ用の照明を点灯。白い光に包まれた国会議事堂は、これから、新しい命をこの世界に生み出す。
メガホンを手にとり、国会議事堂にラマーズ法の呼吸を呼びかける。
「ヒッヒッフー! ヒッヒッフー!」
徹夜で警備していた衛視と自衛官たちも、次第に一緒に声をかけ始めた。本当は機動隊にも出動要請を出そうとしたが、日本国憲法は三権分立を謳っているため、国会の敷地内に警察官である機動隊を入れるには議長の許可が必要だ。手続きが煩雑なため、取りやめることにした。
掛け声をあげること三十分。東の空がだんだんと明るくなっていった。刹那、広場に切れ目が走るやいなや、その切れ目から巨大な塊が空中へ向かって飛び出した。塊は宙を飛んだ。「母親」のおおよそ三分の一サイズの議事堂に、人間の手足が生えている。超音波検査の結果通り、衆議院側が手、参議院側が足、そして、中央塔のある場所には人間の赤ん坊の頭があった。
新生児は空中に美しい放物線を描き、クッションに落ちた。新生児は茹でガニのように手足をばたつかせながら、巨大な口を広げると、大音量の産声をあげた。まともに聞いたら鼓膜が破れそうだ。素早く耳栓を装着。
泣き叫ぶ新生児へ医師団がわらわら近づき診察。母子ともに健康だと確認した。その結果を佐々木は報道陣に伝えるとその直後、すぐさまスマホが震えた。画面をつけるとニュースアプリの速報通知が流れていた。
――ニュース速報 国会議事堂 出産 母子ともに健康
だが、ここからが本番だ。新生児を富士山まで運ばないといけない。
国会議事堂輸送作戦、決行。
佐々木はトランシーバーへ叫んだ、
「指揮官、お願いします!」
輸送作戦総本部のテントから、指揮官がトランシーバーで命令を下す。
「搬送準備開始! 玉掛け、始め!」
クッション脇に待機した自衛官たち数十人は新生児の下に敷いた網を、すばやく大型輸送ヘリ・CH―四七J「チヌーク」へ玉掛けした。超音波検査で推定体重はわかっていた。密度は人間と同じとわかったことも幸いした。大きさの割に軽く、一一〇トン程度。チヌークが一〇台あれば輸送できる。
「玉掛け完了!」
自衛官たちが続々と返事する。すべての玉掛けが完了したことを確認すると、指揮官は再び叫んだ。
「上昇!」
チヌークの翼が回転し、その巨躯を上昇させると、網にくるまった新生児はそのまま宙に釣り上げられた。ヘリたちは一斉に西方、富士山麓の方角を目指し飛び立っていった。やがて、朝日の光線が東京の空を満たすなか、ヘリに運ばれる新生児は、空の遠くへと消え去っていった。
「やっと終わった……」
佐々木はそう呟くとどっと疲れが襲い、倒れそうになった。だが、まだまだ仕事がある。国会議事堂が妊娠する前の状態に戻し、国会機能をホテルニューオータニから戻さなければならない。
* * *
中央玄関の前に立っていた。裂け目を塞ぐ工事が終わった。これでようやく代議士の先生たちに戻ってきてもらえる。妊娠線がばっちりと残った中央玄関は、まあ仕方ない。来年度の予算で改修をしよう。
富士駐屯地で養育していた新生児は、すくすく育っているという。駐屯地内をハイハイで這いつくばり、衆議院から生えた手で、駐屯地内の草を引っこ抜き、口へ突っ込んでいる。そろそろ参議院の足で二足歩行できる日も近いだろう。
世の中では新生児の話題はもうすでに消え去っていた。国会に詰めかける記者が、国会議事堂が自然分娩するかなんて狂気じみた質問をすることはなくなり、いつもどおり、どこかの議員が不正献金を受け取ったとか、どこかの議員が失言したなんてことを追っかける。テレビやYouTubeもいつもどおり、芸能人の誰々が不倫して、野球はどこのチームが強く、メジャーに行ったあの選手はアメリカで頑張っているという、そんなありきたりな話題を延々と垂れ流していた。国会議事堂が出産したという、狂気的事実を無理やり上書きするように。もちろん、もう水坂のことなんて、世間では忘れ去られている。水坂の誕生日に全国から大量のプレゼントが送りつけられてきたが、来年の誕生日はもうなにも送られてこないだろう。
「妊娠線は写真に写させないようにするか」
隣で水坂が妊娠線を指でなぞっていた。
白状させよう。
「水坂、お前が孕ませたんだろ。名乗り出ろよ。あの日、議事堂にいた人間のアリバイを調べ回ったんだ。お前だけがウソを言っている。トイレ前の監視カメラに映ってなかったぞ。中央玄関へ行く様子も確認した。さあ、観念しろ」
「……俺にも家庭があるんだ。隠し子がいるって知ったら、奥さんがおかしくなる。俺は、真実より幸福のほうが大事だよ」
水坂の顔がどんどん歪む。水坂の手は、仕事が平常に戻ったのに、いまだにブラジルのエナドリを持っていた。
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