時のない喫茶店

かきすて(第31話)

吉田柚葉

小説

1,724文字

コメダ珈琲で書きました。最近はダイアンのよなよなにハマってます。

ぼくが大学生のころの話だ。アパートの二軒となりに個人経営の喫茶店があった。住宅街のなかにあって看板のひとつもないので、すぐにそれとは気づかない。かく言うぼくもその存在に気づいたのは二年のおわりごろだった。とうじ、アルバイトもせず、親のしおくりだけでくらしていたぼくにはとうぜんあそぶ金もなく、さりとて大学に行くのもめんどうだったので日がないちにちさんぽをしてすごしていた。

ぼくはふたつのさんぽ道をもっていた。なんのことはない、アパートを出て右におれるか左におれるかというだけのことだ。左におれてすぐにその喫茶店はあった。だからそれだけながく喫茶店の存在に気づかなかったのはふしぎと言えばふしぎだ。ぼくが気づかないのであればだれも気づかないのではないかとおもう。しかし、白い外壁の西洋風のちいさなたてものは見るからに年季がはいっていた。店長は白いひげをたくわえ、ぶあついめがねをかけた思慮ふかそうなひとだった。モーニングは三百円で、トーストとゆでたまごにコーヒーがついてきた。ぼくは週に一回のペースでその喫茶店にかよった。いつでも客はぼくのほかになかった。あしたは喫茶店にいこうとおもいたった日は、大学図書館にいって折口信夫の全集をかりてきた。そうしてぼくはモーニングを注文しただけで午前中いっぱいをねばるのだった。店長はなにも言わなかった。というより、厨房の奥にかくれ、ぼくがお会計をたのむまでぼくの目のまえにあらわれることがなかった。喫茶店のなかは閴として時間がとまっていて、その時間のあわいのなかでぼくは世界でひとりだった。折口の文章はひとをよせつけず、いっこうに歯が立たなかった。理解してやろうというおこがましいかんがえをすてると、折口の文章に呼吸のリズムが一致するのをかんじた。それに満足するとぼくはフッと意識が消えるのだった。目覚めると正午をすぎていて、ぼくは店長を呼んで金をはらい、そとの世界にさんぽに出るのだ。それが幸福だった。

その日もつかい古したリュックサックに折口の全集を一冊いれて、喫茶店に向かった。窓ぎわの席について、モーニングをたのむと、
「じつは店をたたむのです」

と端然として店長は言った。ぼくはどう言ってよいかわからず、
「そうですか」

としか言えなかった。
「今月いっぱいです」

と店長は言った。今月はあしたでおわりだった。
「ありがとうございました」

とだけ言って、店長は厨房の奥へときえていった。

けっきょくぼくは閉店の日に喫茶店にいかなかった。朝目覚めて、まだモーニングにまにあう時間だったし、すぐにさんぽのために外に出たが、右のさんぽ道をえらび、あえて喫茶店のすがたを視界からとおざけた。淡い寂寥をかんじた。

それから数日ほどたって喫茶店を見にいくと、たてものはそのままで、ドアのまえに「開店」のふだがかかげてあった。いぶかしくおもい、ドアに手をかけると、それを引くぼくのちからにドアはすなおにしたがった。しぜん、ぼくは店のなかにはいることになった。あたりまえに店長がぼくをむかえ、「開店」のふだのとおりであるらしかった。ぼくはモーニングを注文した。すぐにいつものセットがはこばれてきた。店長はなにも言わなかったし、ぼくもなにも言わなかった。ぼくのリュックサックのなかに折口の全集はなく、手もちぶさたはなはだしく、出たものをたいらげるとすぐに店を出た。どうしてもぼくは店長にうそをつかれたというふうにはおもえなかった。おもいたくなかったし、ともすればあれはぼくの聞きまちがいだったのではないかともおもった。それ以降ぼくがその喫茶店にいくことはなかった。

大学を卒業するとぼくは地もとの不動産屋に就職した。くる日もくる日も飛び込み営業に出て、二年つとめて一件の契約もとれず、やがてこころがなくなり、無断欠勤をくりかえしてクビになった。ぼくは家に居場所がなく、母にハローワークにいってくるとうそをついては、まいにちさんぽに出かけた。ぼくはふたつのさんぽ道をもっていた。家を出て右に折れるか左におれるかというだけのことだ。右におれると町に出て、左におれると山道につづいていた。

いずれの道をえらんでも、時間はいたずらにすぎていくのだった。

2021年6月26日公開

作品集『かきすて』第31話 (全36話)

© 2021 吉田柚葉

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