どうやら自分の人生があまりたいしたものにはならないらしいということに僕は気がついた。三十五歳になっていた。世間から若者と呼ばれることはなくなり、新卒で入社した会社では中堅で、ステップアップを前提とした転職をするには難しい年齢帯に差しかかっていた。仕事はこれまでやってきたことの繰り返しや焼き直しでどうでもこなすことができた。新たな気づきもなければ、失敗も成長もない日々だった。日々当たり前のようにやってくる残業と当たり前のようにやってくる飲み会を処理することが得意になった。仕事とプライベートは傾いた形でバランスを保っていた。僕と妻の関係は安定以外の言葉が思いつかない関係だった。週末は二人で買い物に行ったり、ドライブをしたりした。東京郊外の大きな公園の側に建つ低層マンションの三階に住んでいた。二人で暮らすにはいささか大きすぎる部屋だった。結婚して六年が経つが、僕らの間に子供は生まれなかった。これからどうかはわからない。
日々は変わらずに巡り、これからも変わりそうになかった。たとえ世界に未知のウィルスが蔓延するようなことがあっても、きっと僕は僕のままである気がした。変わらない日常を僕と妻は二人で、いつまでも続くような時間を繰り返しながら生きてゆくように思えた。鏡を見ると、僕が変化していることを知らしめられた。変化は成長ではなく老化だった。毛髪が細くなり、顔に小さな皺が増え、唇の色味は少しずつ悪くなっていた。呼吸がなんとなく浅くなった気がするし、なんとなく疲れることが増えた。子供の頃、世界はもっと鮮やかで、明るく、大きく見えていた気がした。気がするだけで、気のせいかもしれない。僕は疲れていた。巡り続ける時の中で、まるでレコード盤のように僕は少しずつ摩耗していった。それから昔のことを思い出すことが増えた。
十五の僕には誰にも話せない悩みの種がたくさんあった。僕は種を大地に植え、水を与え続けた。どうして僕だけがこんな想いをしなければならないのだろう、と日々常々思った。世界のままならなさがどうしようもなく悔しかった。僕はこちら側にいて、みんなはあちら側にいた。あちら側にいきたいが為に、僕は数えきれないほどの屈辱的な行為をこなし続けたが、日常に変化が訪れることはなかった。
クラスの人が僕を無視するようになって、どれくらい経つだろうか。何がきっかけだったのか、今でもわからない。何もなかったのかもしれない。なんとなく、僕がみんなと少しズレていて、それを感じた誰かが思いつきで僕を無視するようになったのかもしれない。それまで仲が良かった、仲が良いと僕が思っていたクラスメイトに話しかけると、まるで僕の存在が見えていないかのような反応をされた。僕がそれほど接点をもっていなかったクラスメイトに話しかけると、目を逸らしあからさまに逃げられた。僕は幾度となく話しかけ続けた。場違いなタイミングで会話に割って入ろうとしたり、ごく自然な流れでグループの輪の中に入ろうとしたりした。すべて無駄だった。クラスメイトは僕を無視したまま、僕の悪口を言い合うようになった。僕はそれを聞きたくなくて、彼らに近づかないようにした。僕は彼らの輪に入ろうとしなくなった。彼らの声は僕の耳によく届いた。僕は自席で突っ伏しているか、特別棟の男子トイレの個室にこもって時が過ぎてゆくのを待った。それでも、声は聞こえてきた。僕は目を閉じ、耳を塞いだ。目を閉じれば何も見えなくなるが、耳をどれだけ強く両手で塞いでも、聞きたくない音が聞こえてきた。もっと強く耳を塞ぐことのできる手が欲しかった。
僕を無視し、いじめる人間を一人一人、僕は認識した。彼はサッカー部のエース、彼は家がお金持ち、彼女は人気読者モデル、彼女はクラスで一番成績がいい、彼は海外文学に詳しい、彼女は顔がイマイチだが胸は大きい、彼は噂によるとペニスがめちゃくちゃ大きいらしい、彼はギターを弾いていた、彼女は歌が上手い、彼は数独が異常に得意だった、彼女は高校生の彼氏がいながら大学生や社会人とヤってお金を稼いでいるらしい。
誰とも関わりがなくなったが、完全に塞ぐことのできなかった僕の耳は誰かしらの情報を拾い続けた。あらゆる人間に何かしら誇るものがあり、もちろん欠点もあるのだけれど、僕はそれらを聞きながら常に強く嫉妬していた。僕には何があるのだろう、と思った。僕は自分が何も持っていないことをよく理解していた。何もなくたっていいじゃないか、そう言い聞かせても、僕の言葉を上書きするようにして、両耳から聞きたくないいくつもの言葉と音が侵入してくるのだ。何もかもが嫌だった。何もかもがどうでもいいにもかかわらず、それでも、たったひとつ、何かが欲しいと思った。
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