世界史の終わり

一希 零

小説

2,067文字

2020年最後の小説投稿です。今年もお読みいただきありがとうございました。これからも書きますので、ぜひまた。

「世界史の教科書はどこで終わっているでしょう。」

掃除の時間に濡れ雑巾で拭かれた机は未だ表面が乾いておらず臭いを放っていた。くさい机に蓋をするように、真新しい教科書や参考書や問題集をびっちり並べ、僕がひとつひとつ黒の油性ペンで名前を書いている時、担任の教師は言った。

ちょうど世界史の教科書に名前を書いていた時だった。僕の斜め前の席の高杉が「最後のページ。」とぼそりと呟いた。声は生乾きの雑巾の臭いみたいに空間を漂い、行き場を失った。くさい物に蓋をするように教師は咳払いをしかけて、中途半端なくしゃみを溢した。

「答え合わせはしません。今はまだページを開いてもいけません。何も見ずに考えてください。」

担任の教師は何かを成し遂げたような表情で言った。連絡事項を伝えると、教室を出ていった。高校二年生の一日目だった。彼は数学の教師だった。僕は彼の言葉を半分守り、半分守らなかった。答え合わせはしなかったが、何も考えなかった。僕は世界史の授業を真面目に受けた。二年生から三年生になり、僕が世界史の授業をすべて終える頃には担任の言葉など忘れていた。

 

高杉はその日滑ったことがあらゆる運命を決定づけたと、度々僕に言った。

「新しいクラスに溶け込めなくなった。妙によそよそしくなった。一年の頃同じクラスだった奴も。クラスで孤立していたお前とつるむようになった。仕方なくだ。今になった。」

「別に、大学まできてつるまなくてもいいのに」

高杉は落下する線香花火の火の玉みたいに視線を下げた。

「間違ってないと思うんよ。」

「何が」

「終わってるか。どこで。世界史の教科書が。」

「あれね、最後のページってやつ」

「未だに正確に覚えてるんだ。俺はさ。世界史の教科書の最後のページの全文を。」

相澤さんは誰もが見惚れる美人だった。にもかかわらず、誰とも付き合っていないことで知られていた。相澤さんは常に一人だった。大学の講義中、彼女の周囲には不自然なほど人が寄り付かなかった。

大学一年の初夏のことだ。高杉は、キャンパス内を一人静かに歩く彼女の姿に一目惚れして、無人の円内に侵入した。「付き合ってくれ。好きだ。」彼は歩行する彼女の正面を塞ぐように立ち、端的に感情を伝えた。彼女は数分間無言で高杉の目を見つめた。高杉は高校時代のトラウマを思い出し、滑ったのではないかと恐怖した。「私でよければ、いいよ」彼女は言った。過去のトラウマから解かれ、いくらか冷静になった高杉は、彼女が体臭の強い人間であることに気がついた。彼女が常に一人なのは、この強い体臭が原因だった。

彼は彼女とのセックスについて、「くさい物に蓋をしてる。」と言った。卒業後、高杉がシステムエンジニアとして働き始め、相澤さんは高校の世界史の教師になった頃、二人は別れた。別れた理由を僕が高杉に尋ねると、彼は枯れ葉に火をつけるような目つきで「見解の相違。」と言った。僕と高杉が会うことも次第に減っていき、やがて関係は途絶えた。

 

「どうして、高杉と別れたの」

僕は妻に何度か尋ねたことがあったが、彼女は「うん」と音を発するだけだった。自分がいつか彼女と別れる運命を辿らないよう、彼女の過去の選択とその理由を把握したいと考えたのだが、最終的に彼らの破局の原因を探るのを諦め、彼女がずっと一緒にいたいと思う人間で僕があり続ける努力をした。努力の途上で僕らは結婚し、未だ僕は努力を継続している。僕が妻に「どうして、高杉と付き合ったの」と聞くことはなかった。

「どうして私を、好きになったの」

妻はしばしば僕に尋ねた。僕は決まって「匂いが好き」と答えた。彼女の容姿や体型が加齢と共に変わろうと、環境や人間関係の変化で性格が変わろうと、彼女の匂いは決して変わらなかった。変わったとしても、僕の好みであり続けた。彼女は僕の言葉を信じてはいないようだったが、それはどうでもいいことだった。僕が妻に「どうして、僕と付き合ったの」と聞くこともなかった。

 

定年を迎え、長い時間の仕事を終えた後も、妻は世界史の教科書だけは手放さなかった。時々、学校の椅子みたいに座面と背もたれが垂直な木の椅子に座って、波の音を聴くように世界史の教科書を読んでいた。教科書を読む妻の姿は高校生みたいだった。僕の視線に気づいた彼女がぴたん、と本を閉じるのを見て、ふと尋ねた。

「世界史の教科書って、どんな風に終わってるんだっけ」

妻は数分間無言で僕の目を見つめていた。僕の目の向こう側を覗くようだった。

「世界史の最後のページを全文、覚えている人がいたの」

「うん」

「私の教科書は、あなたのと違うって言った。それに、変わってくよって。その人、とても怒った」

妻は再び世界史の教科書を手に取り開いた。開かれた教科書を眺めながら、僕は妻によって閉じられた教科書を思い出していた。妻は教科書を開き、閉じ、開きを繰り返した。時計の針は進み、季節が何度も巡った。黄色い乾いた指が変色した紙をめくると、彼女の匂いが僕の鼻腔をくすぐった。大きなくしゃみが世界に響いた、

2020年12月5日公開

© 2020 一希 零

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"世界史の終わり"へのコメント 1

  • 投稿者 | 2020-12-05 19:15

    冒頭一行目が非常に良い問いですね。
    安直に答えたくない、答えてはいけない質問のように思えますので、即答は控えますが、常に念頭に置いておきたいな、と。

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