合評会2021年11月応募作品、合評会優勝作品

一希 零

小説

4,884文字

2021年11月合評会「YouTuber」参加作。好きなことで、生きていく?

姿見鏡が揺れていた。世界中の風がぴたりと止んだみたいに静かな夜だった。鏡もまた一切の音をたてることなく揺れていた。

鏡が時々揺れていることに気づいたのは少し前のことだ。横五〇センチ、縦一四〇センチほどの大きさの姿見鏡だ。無垢のパイン材で縁取られ、脚は無く、代わりに紐がついており、壁に刺した釘に吊り下げていた。東京の小さな家具屋で購入したものだった。鏡が揺れているのを最初に見たときは、エアコンの風のせいだと思ったが、エアコンのオンオフにかからず、鏡は揺れるときは揺れていた。壁に刺した釘や吊り下げている紐にも問題はなかった。

昔から僕は揺れていた。子供の頃、じっとしていなさい、と親によく怒られた。椅子に座れば地面に届かない両足を宙でぶらぶらさせ、立っていれば両腕をぶらぶらさせた。親に幾度となく注意されても、じっとしていられない性質のままだった。ひとつの点に定まることが、どうやら僕にはできないみたいだった。

僕は優柔不断な人間でもあった。何が食べたいの、と聞かれ、何でもいい、と答える。スパゲティと炒飯どっちがいい、と聞かれ、どっちでもいい、と答える。僕の回答に親はその都度苛立ちを募らせた。幼少の僕はなぜ怒られるのかわかっていなかった。親は、自分の好きを大事にしなさい、と言った。本当に何でもよく、どちらでもよかったのだ。幾度となく質問され、怒られることに僕もストレスを感じ始め、何が食べたいか聞かれたら、ミートソーススパゲティか炒飯、と必ず答えるように定めた。僕はミートソーススパゲティと炒飯が好きな人間だと親に認識されるようになった。誕生日には毎年ミートソーススパゲティと炒飯がテーブルに並んだ。母が作ったミートソーススパゲティと父が作った炒飯を囲み、父と母と僕と姉が座っていた。僕は地面に届かない両足をぶらぶら揺らしていた。

姉は僕と反対の人間だった。じっとしているのが得意で、物事を決定するのに長けていた。親はよく姉を褒めた。自分の意志を持ち、自分で自分を決定できる人間だと評した。しかし、成長するにつれて姉はしばしば決定を誤った。音楽が苦手なのにピアノを練習し、数学ができないのに理数科を受けて落ちた。親は姉の性質に気がつくと、姉の度々の失敗を指摘し、改善を促した。姉はひとつを選択する能力には優れていたが、正解を選ぶ能力には劣っていた。姉が選んでは誤りを繰り返す間も、僕はいつまでも選ぶことが出来なかった。二年前、姉は自殺した。僕が生き方を選べずにいる間に、姉は生きることをやめた。

僕が実家を出たのは、姉が亡くなってから一年が経った頃だった。高校を卒業して数年間続けていたファミレスのホールスタッフのアルバイトをやめたタイミングだった。ファミレスのホールスタッフのバイトは僕にふさわしい仕事だった。選ぶのは客で、僕は客の選んだものを端末に入力し、厨房へ伝送すれば良かった。あるいは厨房のスタッフがつくった料理を然るべき客へ運べばいい。練馬駅の近くの店舗だったため、常にある程度の客数がいたのも幸いだった。じっとしていられないから、常にやるべきことが僕には必要なのだ。

バイトの人数が増え、週六のフルタイムでシフトに入れなくなったのを機に辞めた。求人サイトで関東地区の募集を上から順番にエントリーしていき、そのうちECサイトの倉庫の梱包作業のバイトに受かった。場所は市川塩浜だった。西船橋の小さなマンションの一室を借りた。実家の食卓からは姉がいなくなり、僕がいなくなり、父と母は別々に食事をするようになった。ミートソーススパゲティと炒飯も食卓から姿を消した。

西船橋駅を南口から出て徒歩二十分、築十年、四階建ての鉄骨造マンション、四階角部屋に住み始めた。エレベーターは無く、当初は階段の登り降りが億劫だったがすぐに慣れた。玄関を開けると廊下が縦に伸びていて、右側に洗濯機とキッチン、左側は浴室、洗面台、トイレが並んでいる。床は薄いクリーム色の木目調だ。廊下を進むと扉がひとつあり、開けると七畳の縦長のワンルームとなっている。広くはないが、必要なものは揃っている。

物件選びが自分にとって困難な作業であることは明らかだった。僕はユーチューブを教科書にすることにした。物件、選び方、といった検索ワードで表示された動画を上から順番に再生し、内容をノートに書き出していく。いくつもの動画の言葉を書き込んでいくと、どれも似たような、ほとんど同じことを言っていることに気がついた。

不動産屋へ行き、ノートに連なる文字列を正しく読み上げ、希望条件を説明した。すべて満たすのは少し難しいですね、と言われると、ノートのページを一枚めくり、優先順位を伝えた。物件をピックアップしてもらい、印刷された間取り図を眺めていると、見に行きますか、と聞かれ、黙って頷いた。三つの物件を見たが、当然のごとく僕は選ぶことができず、その間にうち二つの物件は他の人が先に契約してしまったので、残ったひとつの物件に決めることができた。

物件探しをきっかけに、僕はユーチューブを見るようになった。アカミネログはガジェットからインテリアまで、モノと暮らしの動画を中心に活動するユーチューバーだ。元々ブロガーとして活動しており、二年前にユーチューブチャンネルを開設、着実に登録者数を増やして、現在チャンネル登録者数三十万人を超えている。動画編集技術だけでなく、プレゼン力、企画力、構成力が優れており、クオリティの高い動画が並ぶ。洒落た音楽と読みにくい繊細なフォントのテロップを貼り付けた動画や、言葉と言葉の間隔を切って繋いで作られた饒舌風の動画など、それらしくした動画は巷に溢れていたが、彼の動画は極めて真っ当だった。表面的なデザインや編集ではなく、企画や構成から優れているのは、彼の本業がベンチャー企業の営業マンであることときっと無関係ではない。何より、彼は正しいユーチューバーだった。ガジェットや暮らしのモノをとても愛していた。自分が良いとも思っていない企業案件の商品を異常なテンションで紹介する同業者を尻目に、彼は自分が心から良いと思ったモノを動画にしていた。彼は好きなことで生きていた。

彼の部屋はとても良く見えた。彼の部屋にあるモノのほとんどは、彼の動画で紹介されていた。一人暮らしを始めてすぐの頃に、僕は彼のチャンネルを知り、視聴するようになった。僕は彼が動画で紹介した洗濯機を、冷蔵庫を、デスクを、チェアを、ベッドを、ハンガーラックを、スツールを買った。何も無かった部屋にモノがひとつずつ増えていった。誤ることなく、あるべき姿へ向かって形を成していっている実感があった。僕の部屋はアカミネログの部屋に近づいていった。

カーシェアリングで借りた車を運転して、東京の小さな家具屋へ出かけた。その日はアカミネログで紹介された姿見鏡を買う予定だった。店員に動画を見せ、この鏡が欲しい、と伝えると、現在在庫切れであることがわかった。他に在庫のある姿見鏡をいくつか紹介してもらった。サイズを考えると僕の部屋に置けそうなのは、ひとつの姿見鏡のみだった。無垢のパイン材で縁取られた姿見鏡からは、素朴で丁寧な印象を受けた。僕の部屋に馴染むように思った。

購入した姿見鏡を車の後部座席に乗せて、この鏡を部屋のどこに取り付けるか考えながら、ラジオが流す遠い国のポップミュージックに耳を傾けた。東京の、いくつもの細やかな色彩に塗れた街並みがリズミカルに後方へ流れていった。大きな川を渡り、気づけばラジオはクラシックミュージックをしっとりと奏でていた。東京に比べて千葉の道路は砂っぽく感じた。

アイアンのハンガーラックの隣の壁に釘を打ち、そこに鏡を引っ掛けた。僕はとても気に入った。部屋で唯一、アカミネログの紹介ではないモノとなった。気分が良かったので、自分でミートソーススパゲティと炒飯を作って食べた。初めて自分で作った。あまり美味しくなかった。自分で作るのでは意味が無いのかもしれない。ミートソーススパゲティと炒飯が本当に好きなのかもわからない。後にアカミネログの動画で、賃貸の部屋の壁に釘を刺してはいけないことを知った。

 

 

鏡は揺れていた。室内は蓋をした瓶の底のように静かだったが、気になって眠ることができない。灯りの消えた室内で、確かに鏡が揺れているのを認識できた。枕元に置かれたスマートフォンの画面をタップすると、時刻は午前三時を示していた。明日も市川塩浜で午前九時からバイトだった。存在しない時計の針の音を幻聴しながら、焦燥感と苛立ちが体積を膨らませていった。

ベッドから出て、姿見鏡の前に僕は立つ。僕が映っている。両手で鏡を持ち上げ壁から外す。鏡の中の僕が歪み、ぶれる。素早く両手を天に掲げて、床に向かって強く振り下ろす。僕は鏡を叩き割ろうとする。クリーム色のフローリングに直撃する寸前で動きを止めて、僕は強く目を瞑る。瞼の内側で叩き割られた鏡を想像する。ひび割れた鏡面は直後に砕け散り、無数の、大小様々な鏡の破片が宙を舞い、プリズムのように光をばら撒く。複数に分裂した僕の姿が複数の鏡の破片に映し出され、あらゆるサイズで、あらゆる形をしたいくつもの僕が、すべての角度から僕を見つめ返す。その眼差しはいずれも奇妙に揺れている。不可思議な視線に酔う。想像する。想像するこの僕は目を瞑っている。瞑られた世界の奥底で過去に、他者に、想いを馳せる。

姉はミートソーススパゲティと炒飯の組み合わせを、スパチャ、と呼んでいた。姉はスパチャがあまり好きではなかった。スパチャが食卓に並ぶ度に、またスパチャか、と言って深い溜め息をついた。姉は勤める企業の選択を誤った。過酷な残業とパワハラが平然と行われるブラック企業だった。姉には歳上の恋人がいたが、うまくいっていなかった。相手は既婚者だった。姉は子供の頃から何ひとつ自分で決められない僕を、じっと見守ってくれた。時々、僕が決定できるよう、物事を整理してくれた。僕は義務教育を終え、高校へ行くことができた。

遺体となった姉は、長い間壁に刺さったままの釘のように、固く目を瞑っていた。姉の遺体が姉らしい姿をしているように思えたから、姉の最後の選択が誤っていたのかどうか、僕にはわからない。姉は初めから終わりまで、一点を見つめ、さもなければ閉ざしていた。姉は自分の人生をどのように感じていたのだろう。姉は好きなことで生きていたのだろうか。好きが好きで無くなったから、生きるのをやめたのだろうか。両親は子供だった僕と姉に、好きなことで生きなさい、と常々言った。父は区役所勤めで、母は印刷会社の経理をやっていたが、それが好きなことだったのか、好きではないからこそ僕らにそう言っていたのか、あるいは僕の知らない場所で、好きで生きていたのだろうか、両親は僕や姉の生き方をどう思っていたのだろう。姉はなぜ死ななければならなかったのだろう。

朝になり、目が覚める。重い頭を持ち上げバイトへ行く。薄いダンボールの上に本やコンドームを置き、輪ゴムで固定してベルトコンベアに流す。機械が透明のビニルでラッピングする。次の商品をダンボールの上に置く。繰り返す。バイトを終え帰宅し、シャワーを浴び、コンビニで買ってきたネギ塩豚カルビ弁当を食べる。スノーピークのチタンマグに金麦を注いで飲む。二十一時、公開されたアカミネログの動画を見る。ご報告、と題された動画のサムネイルにはアカミネさんと見知らぬ女性が映っていた。結婚の報告動画だった。報告の後、新居のルームツアーを行い、それから二人でお互いの好きな食べ物を作りあって食べる、という内容だった。杉の木のダイニングテーブルに、ミートソーススパゲティと炒飯と、生ハムサラダと、海老のアヒージョと、スノーピークのチタンマグとプレミアムモルツの缶とが並んでいた。コメント欄には祝福の言葉が連なっていた。

姿見鏡に目を向ける。姿見鏡の中の僕は、静かに揺れている。

2021年11月14日公開

© 2021 一希 零

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"鏡"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2021-11-20 10:05

    YouTuberとは結局、虚構なのでしょうか? 鏡の中の自分と、自分の自分。私もやってみたい比喩がいくつも出てきました。小説の終わり方も好きでした。もっとカッコいいタイトルの方がよかった。大量得点を期待していてください。

  • 投稿者 | 2021-11-21 11:19

    姉はいつも選択を間違えるのだから…世話になった姉の最期を見て、意思を持たない自身を無意識に呪うようになっていたのかもなあと。生活は驚くほど静かで穏やかでも。井上陽水サンの『灰色の指先』を聴きたくなるお話

  • 投稿者 | 2021-11-22 21:09

    ユーチューバーを模倣することで「あるべき姿へ向かって形を成していっている実感」を覚える語り手に、明確な自我を持てない人間の姿が際立っていると感じました。
    過去の作品も読ませていただいていますが、何か「である」こと、あるいは何か「になる」ことの困難や不安が著者の作品の主要なテーマなのではないか、という感覚を持ちました。

  • 投稿者 | 2021-11-22 23:04

    出だしがすごく良いです。ここだけで全編貫くどうしようもなさが際立っていました。
    好きなことで生きなさいと言われ、姉は好きなことの選択を誤り、弟はそもそも好きなことが分からず、ひたすらYouTuberの模倣をして生活する。
    生きることに何かの意義や意味を付けたがっても、ほとんどの人は意味もなく意義もなく死んでいくんだろうと思わされたことでした。

  • 編集者 | 2021-11-23 14:12

    子供の頃に一度好きと言ったメニューが永遠に出てくるの、分かります。自分はハンバーグですね。人生を主体的に選択しても、思うようにいかず、人生そのものを捨てて死を選択するまでに一貫した姉と、選択すらできずに惰性的に生を浪費する自分を体現するように揺れ動くのは姿見か、身体か、パスタを自ら茹ではじめたらそのメタファーについて分かるかもしれない。

  • 投稿者 | 2021-11-23 14:42

    揺れてるのに静かに整った作品ですね。
    ミートスパゲッティと炒飯が食べたくなりました。
    姉との対比も良かったです。誤った選択をし続けた姉がブラック企業に勤め、不倫して、最終的に自殺してしまうというのも。

  • 編集者 | 2021-11-23 16:11

    選択と言うものの持つ残酷さが強く描かれているのが印象に残った。日常や大半であることへの諦念なのだろうか。

  • 投稿者 | 2021-11-23 18:09

    よかった!!

  • 投稿者 | 2021-11-23 18:24

    静かに殺意が固形化していく過程を辿っているように感じた。結晶ができていくような

  • 投稿者 | 2021-11-23 18:43

    今回の皆さんの作品を読んでまず思ったのは、皆さんYouTubeよく見てるなあ~と。
    特に本作にはそれを感じました。語り手の世間とズレた感覚が「コンビニ人間」みたいだと思いました。

  • 投稿者 | 2021-11-23 19:44

    姉の事を語ってる部分が超怖くて面白かったです。

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