塗り絵

一希 零

小説

2,273文字

BFC3落選作。

平たい缶のケースに整然と収められた三十六本の色鉛筆から一本を左手に取り、すりすりと、黒い線で囲まれた白い領域に色を塗る。黒線の枠の外に、開かれた大きな世界があるわけではない。枠の外もまた、別の黒線によって囲まれた小さな、少しだけ異なる世界があるのみだ。群青色、薄紅色、山吹色。ひとつの世界にひとつ、色が灯る。

右手にはミネラルウォーターのペットボトルが握られている。左手を動かすことに疲れると、右耳の傍でペットボトルを小さく振る。半分ほど水が入った透明なプラスチックから、海の一番小さな波の音が聴こえてくる。

 

絵を描くのは得意ではなかったが、塗り絵であれば出来る気がした。大人の塗り絵、と検索して、時を超え少女が世界遺産を旅する塗り絵の本と、三十六色の色鉛筆と、鉛筆削りをアマゾンで購入した。始めてすぐに、これは思ったより時間がかかるな、と認識した。自分以外に誰もいない六十平米のマンションの一室で、仕事を終えた私は取り憑かれたように塗り絵に勤しんだ。正確で均一な色塗りが出来るようになると、グラデーションの技法や立体感を出す塗り方をユーチューブの動画を見て学んでいった。中でも私が気になったのが、線を消す、という技術だった。

枠の黒い線のおかげで綺麗な絵が描ける。しかし、黒い線が目立つと塗り絵感は残ってしまう。線を消すことで、塗り絵は絵に近づく。白色の色鉛筆を黒線の上に塗ってゆくと、黒が白によって完全に消えることは無いが、黒線は目立たなくなる。枠の中に色を塗る際も、影になる部分は濃い色を黒線の上から塗ってゆく。光が当たる部分には黒線の上から白色で塗り始め、黄色や水色など薄い色を乗せてゆくのだ。

やってみたが、上手くいかない。黒線を消すのに使う白色の色鉛筆は、通常の色鉛筆より柔らかく、濃く、色が乗りやすいものを使う必要があるらしい。三十六色鉛筆に入っていた白色では黒線に弾かれてしまい、色が乗らない。強く塗ると紙に跡がついてしまい、今度は他の色が乗らなくなってしまった。色塗りの技術にしても、これまでやってきたグラデーションより一段上のレベルを要求された。私は動画を何度も巻き戻し、再生した。黒線は現れ、消えた。

曖昧になってゆく輪郭を眺めながら、私はまだ小さかった娘を連れ、海水浴場へ行った時のことを思い出した。娘は、表面がすべすべとした細い薄茶色の枝を右手に持ち、ずりずりと、海水を含んだ灰色の砂浜に絵を描いていた。時々小さな波が打ち寄せ、娘の描いた絵の一部を消してしまう。波が絵をさらう度に、娘は、わあ、と声をあげた。絵は少しずつ描き換えられて、最後には当初描いていたのとはまったく別の絵になっていた。ヨットは一輪車に、ラクダはトナカイになった。娘と海に行ったのはこの一回だけだ。娘と二人並んで娘の描いた絵を見たのも、この一回だけだった。

やめて。ハラスメントだから。二度と干渉しないで。あなたのこと、信用してないから。十六歳の娘は私に言った。娘と私のコミュニケーションは途絶えた。高校を卒業すると彼女は家を出た。隣県でアパートを借り、アルバイトを始めた。彼女から連絡は一度も無かったし、私からもしなかった。時間の経過とともに、広い部屋に一人で過ごすことに慣れていった。コロナ禍で在宅勤務をするようになると、一人で家にいる時間が一層増えた。閉ざされた室内を満たす無音がうるさい時は、ペットボトルを耳元で振った。

 

塗り絵を始めたのは、カノンをフォローして少し経った頃のことだった。カノンはツイッターに自分が描いた絵をアップしていた。私が勤める会社の従業員数より多いフォロワーがいた。私はアカウントをつくり、彼女をフォローした。タイムラインには彼女のツイートと地元の新聞社のツイートのみが表示された。アップされた絵はすべて保存した。私の娘はカノンという名で、絵を描いていた。

塗り絵の動画を見るのをやめてツイッターを開くと、カノンの最新のツイートが表示されていた。つらい。何もかもうまくいかない。絵が下手でつらい。彼女の言葉だけが、タイムラインに寂しそうに連なっていた。私は色鉛筆を一本手に取り、鉛筆削りに差し込み、回す。然るべき形に芯が整ったのを確認すると、別の色を手に取り、鉛筆削りを回した。橙色、藍色、黄土色。木を薄く削る小さな音が鳴り、止んだ。三十六色すべて削り終えて、スマホをタップした。タイムラインにはカノンの言葉が変わらずに並んでいた。

応援しています。あなたの絵が大好きです。彼女の、つらい。に、私は短いリプライを送った。空色のボタンを小さな皺が刻み込まれた左手の人差し指でタップした。心臓の鼓動が鐘の音のように鳴っていた。風が吹き細やかに泡立つ波の音が聴こえた。数分後、彼女から短いダイレクトメッセージが届いた。私はそれを読んだ。幾度となく読み返した。いつの間にか眠り、起床した。風は止み波は収まり、波紋ひとつ浮かばない湖のように辺りは静かだった。蓬色のカーテンの隙間から差し込む朝日が私の頬を熱していた。

 

画材屋で新たに購入した白色の色鉛筆を使って、黒い枠の線の上を塗ってゆく。力を入れすぎず、撫でるように軽く、色を乗せてゆく。いくつもの新たな線が引かれ、黒線はそれらの線のひとつとして溶け込んでいった。黒い枠の線は消えたわけではない。新たに塗られた色の下に、確かに存在する。塗り絵は同じ塗り絵のまま、見え方を少しずつ変える。右手に空のペットボトルを握ったまま、私は左手を動かし続ける。

 

2021年10月29日公開

© 2021 一希 零

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"塗り絵"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る