まぼろしの魚

合評会2020年09月応募作品

曾根崎十三

小説

4,194文字

合評会2020年9月提出作品。
魚と私と不思議の国のアリス。

そいつを見つけたところでどうするつもりなんだろう。

小学生の頃、そいつのことを話した友人にも同じことを訊かれた。その時は「殺して食べてやる」と言った。今もそうなんだろうか。わからない。それなのにこんなにもあいつを渇望している。茂みをかき分けて目的地へと進んでいく。夜闇でスマートフォンの灯りがこうこうとしている。Google マップに示されたピンが近づく。あそこにあいつがいる。蚊に刺された足首が痒い。蚊は血を吸うために麻酔代わりに痒くなる毒を打っているのだと誰かが言っていた。
あいつはずっといた。初めて見たのは幼稚園の頃。父がいなくなった日の夜だった。窓の外に輝くクリーム色の魚が人間みたいな目をしてこちらを見ていた。布団を被って隠れながら私はそいつを見た。確実に目が合った。私だけは知っている。父はあいつにさらわれたのだ。だって父を丸飲みできるくらいの大きさはしていたのだし。
母が恋人を連れてきたあの日もあいつはいた。紫色の鰭をゆっくりと動かしていた。人間じみた目が不気味だった。あまりにも凝視するものだから母にもその恋人にも不審がられた。あいつは私以外には見えないのだ、と理解して俯いた私はお土産のハーゲンダッツが汗をかいているのを眺めた。あいつがあの男を連れてきたのだ。
あいつの話をすると困惑されることが多かったので、私は次第にその話をしなくなった。当然だろう。私以外には見えないのだから。認識できないものは存在しないのと同じだ。私以外の世界にあの魚は存在しない。唯一信じてくれていると思っていた小学校からの友人も、本当は適当に合わせていただけだった。
「子供って存在しないものを思い込みで見えちゃったりすることあるじゃん。歩美ちゃんもそうだったでしょ」
結婚して子供ができた彼女は当然のように言った。久しぶりのランチでそんな事実を突きつけられるとは思ってもみなかった。私はすっかり彼女だけは信じてくれていると思いこんでいた。誰がどう言おうと私にはあいつは「いる」のだ。今だってそうなのに。曖昧に笑いながら相槌を打った。横っ面をぶん殴られたような衝撃を押し殺して1200円のパスタランチと一緒に飲み込んだ。自宅にいるという彼女の子供もまた魚を見ているのだろうか。そしてそれを誰にも信じてもらえていない。いや、仲むつまじい彼女の家庭の子は魚なんて見ることはないだろう。この日だって子供の面倒は旦那が見てくれているという話だ。旦那は別段嫌な顔もすることもないらしい。しかし、家庭というのは往々にして見えないところで問題を抱えている。私からは見えないだけで、彼女の家だって何か問題があるのかもしれない。生憎、私は結婚もしていないし、子供もいない。ただ、私が「子供」として属している家庭では、再婚相手も、母が遊びに行くと良い顔をしなかった。母の愚痴によると父も似たようなものだったらしいが。なんて見る目がないのだろう。再婚相手は、子供の面倒を見るのは母親の仕事なのだと言っていた。たまに母が出掛けている間に私の面倒を見てくれることもあったが「悪いお母さんだね」と何かと嫌みを言ってきた。「お母さんは悪いことをしてるんだから、こっちだって贅沢しちゃお」と私におもちゃを買ってくれたり、外食で食べきれないほどの料理を注文したりしていた。ちっとも嬉しくなかったが、子供らしく喜ぶふりをした。彼が私にそれを求めているのは見え透いていた。私は彼の前では純粋無垢な子供で居続けた。何も知らないふりをした。わかっていないふりをした。あれは全部母の金だ。母が出掛けるにはそれだけの代償を払わなければいけないことを、母は理解していた。

中学時代に祖母が死んだ時もまたあいつがいた。さすがに別居している家族との死別では現れないのかもしれないとは思ったが、火葬場から細く伸びる煙の近くで、悠々と泳いでいた。細長い体を揺らしながら堂々と漂う。遠目でも分かるほどに私のことをじっと見ていたので、私は逸らして地面を眺めた。気味の悪い目だ。人を焼く煙と交わるあいつはまるで死神だ。祖母は私のことをいたく気に入ってくれていた。祖母の前では私は素直に甘えたり悲しんだりすることができた。いつか家出をしたら祖母の元へ行くつもりでいた。だからこそ奪われたのだ。子供心ながらそう思った。祖母のこともまたあいつが連れて行ってしまった。
家を出て、一人暮らしを始めてからは随分と長らくあいつに会うことはなくなったていた。私が独立した「世帯」になったからだろうか。しかし、別に結婚もしていなければ、子供ができたわけでもないし、母もその再婚相手も健在なのに、なぜか再びあいつは私に存在を主張してきた。夢の中であいつは私の目の前で泳いでいた。人間と変わりない大きさの顔を両手で挟むと、物言いたげな瞳で私を見つめた。クリーム色に輝くそこは水底。私は何歳だろう。私はまだずっと子供のままで、あいつに額をあてた。魚に体温はない。ひんやりとしている。これは水温だ。血が巡っているのに冷たいなんて不思議だと思った。空を見上げると銀色に輝いている。空は水面。この町は水の中にすっかり沈んでしまった。私はここを知っている。この広場のような場所に幼い私はよくやってきていた。秘密基地を作っていた場所だ。今は影も形もない。あまりにも遠くに来てしまった。
目を覚ました私は突き動かされるようにあの場所へ向かった。枕元のスマートフォンは準備万端で、目的地への経路案内を始めていた。私よりも気が早い。妙な寝汗をかいていた。腕で首と額の汗を拭う。タンクトップにパーカーを羽織って、光る6インチを握り締めて、ゴム草履を履いて、走っていた。まるで朝のゴミ捨てにでも行くような格好だ。まだあの場所はあっただろうか。でも今行けばまだ間に合う。とっくに開発されてマンションが建っていなかっただろうか。しかし走れば間に合うのだ。そのことに私は気付いていた。走れば何とかなる。まだこれは夢の続きなのかもしれない。
尖った草で脚を擦りむいてしまった。肘も痒い。それでも肺に入る空気は澄んでいて心地良い。夜露の蒸気を吸い込んでいるみたいだ。満月が明るい。誰かが打ち上げたんじゃないかと思う。あいつもあの色をしていた。あの場所がGoogle マップで出てくるということは存在しているに違いない。文明の利器が言っているのだから間違いない。まだ間に合う。この先にピンがある。
茂みを抜けた先のぽっかり開けたその場所に、あいつはいた。
何年ぶりに会っただろう。クリーム色に光る鱗。紫色の鰭。人間のような目。何も変わっていない。私の目線と合う高さで漂っている。私に会いに来たのだ。そして私もまたこいつに会いに来た。
ずっと会いたかった。
夢の中と同様に顔を両手で挟む。ぬるぬるとしている。魚だ。目はいくら人間のようでも魚なのだ。物言わぬ体温も持たぬ魚だ。ここは水底ではない。ただ少し湿度が高いだけの地上だ。なぜこいつは魚なんだろう。ここは陸だし、魚である意味なんてない。私か殺して食べるためだろうか。もしこいつが魚ではなく鶏や牛だったら捌ける自信がなかった。私が上手に食べられるように魚だったのかもしれない。魚なら三枚におろしたこともある。さすがにこんな大きさは捌いたことがないけれど。
「全部あなたのせい」
虫の声に混じって私の声が鳴る。かすかに頷いたような気がした。しかし言葉なんて通じるわけがない。だって魚なのだから。
私はこいつを殺して食べるのだ。何にしようか。こんなに大きかったら、何だってできそうだ。ムニエルにも刺身にも天ぷらにもフライにもできるだろう。何人もの腹が満たされるだろう。しかし私にしか見えないということは私にしか触れられないのだろうか。ということはつまり私にしか食べられないのだろう。私だけがこいつを食べられる。
こいつを食べてしまったら私はどうなるのだろう。もう何も変化を突きつけられることがなくなるのだろうか。それともこいつを見ることなくただ変化を受け入れて過ごしていくのだろうか。
額をあてると、干した布団のような陽光の匂いがした。魚らしからぬ匂いだ。ひょっとして魚ではないのだろうか。でもどこからどう見ても魚の形をしている。エラもある。声も発さない。魚だ。間違いない。
試しに齧ってみる。そのまま噛みつくなんてまるで動物みたいだ。いや、人間だって動物だ。口の中が生臭い。思わずむせてしまった。赤黒い血が滴って手と服を汚した。魚は少し背鰭をくねらせただけで、私にされるがままだ。このままむしゃむしゃと食べてしまっても良いかもしれない。実行しても抵抗しないという確信があった。私はさらに、今度はもっと強くあいつに齧りついた。弾力がある。体に力が入った気がした。歯をたてて柔らかな表皮を突き破る。鱗を舌で逆撫でするとちくちくとした。じわり、と生臭さが鼻腔の中を占領していく。お日様の香りが血生臭さに覆われて潰れていく。黒く赤くなる。夜の闇の中に私とあいつが落下していく。落ちていく。
「もう昼になっちゃうよ」
夜闇を突き抜ける声がして、私は布団の中にいた。明るい。今は一体何時だろう。
「夜中随分うなされてたけど大丈夫?」
沸かしたお湯でインスタントコーヒーを入れる彼がぼんやりと視界に見える。枕元のメガネをかける。明確な視界の中に恋人がいた。
「大丈夫かはわからないけど、コーヒー飲む」
「そろそろそう言うと思って用意してた」
枕元のスマートフォンをタッチしても、いつも通りのロック画面で時計が表示された。布団から這い出してコーヒーを飲む。スティックシュガーは二本必要。もう入っている。そうだ。私はこの人と結婚しようとしている。私の生活の中に当たり前のように存在している他人だ。では、どういうことなのだろうか。あれは夢だ。でも一体どこからどこまでが。
窓の外で何か大きな陰が動いたような気がしてカーテンを開けた。何もいない。そもそも私は何を探したのだろう。
「何かいたの?」
眼前にはいつも通りの街並みが広がっている。空には雲も飛行機も浮かんでいない。ただ青く青く広がっている。お出掛けにもってこいだ。もっと早起きすれば良かった。
「ううん。何もいないよ」
振り返ってまたコーヒーに口をつけた。
これもまた夢なのかもしれない。

2020年9月21日公開

© 2020 曾根崎十三

これはの応募作品です。
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"まぼろしの魚"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2020-09-24 19:46

    あいつとは何者なのか。死や結婚、不幸や幼さと関係するのか。何やら「こうだ」と言える決定打がないのもまた得体の知れない感じを際立たせているなあと思いました。

  • ゲスト | 2020-09-25 19:13

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  • 投稿者 | 2020-09-25 23:08

    人間みたいな目をしている魚、それだけで怖いのに、自分にしか見えないし、いつまでも消えないし、なんかデカいし、そんなんがおばあちゃんの葬式で煙の中泳いでいたら発狂しそうです。でも主人公にとって「あいつ」はどこか愛着があったのかな。だから最後のほうで自分から「あいつ」に会いに行って齧りつけたのかなと思いました。

  • 投稿者 | 2020-09-26 14:40

    力無い子供のころとか、弱っている時とかに何かが見えることって分かる気がします。生きてる辛さというのか、いつまでも消えない不安というのか、自分で自分の行く末を皮肉な目で見ているような、かといって関わるわけでもなくて。
    幻の魚を食べれば自分も魚も壊れる、悪夢から覚めて詰まりそうな息を一息ついたら、これもまた現実のふりをした悪夢なのではないかと惑う時、世界の景色がいやに鮮やかに見えること、ここの描写にも共感を感じます。

  • 投稿者 | 2020-09-26 16:42

    魚が何を表象しているのか、考えながら読んでいたら何もわからないまま終わってしまいました。でも魚がとてもいいものだというのは分かりました。でも大人の世界では子供の頃のいいものは否定されてしまう。夢オチのあと、世帯を持って大人になろうとしている私がどうやってそこに折り合いをつけるのか、想像が広がります。

  • 投稿者 | 2020-09-26 18:52

    すごくいい! 主人公の子ども時代の境遇、そして大人になった主人公の内面との対峙が美しいイメージを通して描かれている。誤記は「なくなったていた」の一箇所だけ。あと、字下げが直らないときは私はいつも、入力画面の右上にある「ビジュアル」を「テキスト」に切り替えて不要なコードを削除しています。正しいやり方は、作った人に訊けばいいだろうけれど。本作も星五つ!

  • 投稿者 | 2020-09-27 16:01

    魚は不安の象徴でしょうか。夢なのか現実なのかわからないふわふわとした展開が魚に収斂されていって、最後それを食べることで不安を克服する。そんなような印象を受けました。

  • 編集者 | 2020-09-27 17:01

    子供にしか見えない何かはトトロからitまで色々な表し方をされるが、自分にしか見えないあいつの存在感が、よく描かれていた。主人公はあいつと決別したのかどうか、今後についても想像が膨らむ。

  • 投稿者 | 2020-09-27 22:53

    不思議なんですが、魚自体は理解を拒絶している感が非常に強くも、魚を含めた世界観が途端に瑞々しくてこういっては何ですが、癒やしみたいなものが感じられました。

  • 投稿者 | 2020-09-28 00:23

    冒頭の不穏な語り口から不条理ホラーかしら、と読み始めました。主人公は望まない結果を作り出している幻影と対峙したかったのでしょうね。読後感も悪くなかったです。

  • 投稿者 | 2020-09-28 10:59

    明晰夢(でいいのかな?)のカオス感がとてもリアル?で良かったです。ちょっと「だろう」が多すぎるのが中盤気になってしまったけど、最終的に夢だったので、カオス感の演出やテンポを取るには有効な気もする。

  • 投稿者 | 2020-09-28 12:37

    夢の話って難しいですよね。読む人に現実感、現実だと思わせなくてはいけない感じを与えるのが大変ですよね。でも書きたいんですよね夢の話。いいなあ書けて。

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