糞ワクチン

応募作品

曾根崎十三

小説

4,771文字

下の話なのでお食事中の方にはお勧めできません。破滅派合評会「ワクチン」参加作品。
※うんこの話をしながらカレーを食べられるタイプの人を除く。うんこの話なので。

「トイレに連れて行ってくれよう。もう出ちゃいそうなんだ」

車椅子の老婆は涙声で訴えていた。

「今無理なの。行けないわ」

職員は他の入居者にかかりきりで、慌ただしく動き回りながら叫んだ。知識も経験もない優子からすればあれよあれよと言う間にあらゆる物や人が移動させられ、何が何だか分からない。多目的スペースで声が響き渡る。職員が確か今日は入浴の日と言っていた。他の職員も別の入居者を風呂に入れる用意で忙しい。それを優子はただ何の役にも立てず眺めていた。

「うんちが出ちまうよ」

「オムツ付けてるんだからそこに出してちょうだい。もうすぐお風呂だから問題ないわ」

「良いのかい」

深く皺が刻まれた顔に絶望と安堵が入り混じって浮かぶ。どちらかと言えば安堵の方が大きいように見えた。それほどまでに老婆の肛門は限界を迎えていたのだろう。

「大丈夫よ」

その一言で老婆はいきみ始めた。漏れそうでも気張らなければ出ないほどに筋肉が衰えているのだろう。何度か呼吸を整えながらいきんだ後、老婆はすっきりした面持ちで脱力した。うんこが出たのだ。今、彼女はうんこの上に座っているのだ。

優子はふと、自分は何故ここにいるのかと思った。何の役にも立たないのに。いなければならないからだ。中学の教員免許取得に「介護等の体験」という実習が必須だからだ。福祉の経験も知識もない学生は見学と老人たちの話し相手になることくらいしかできない。老人福祉施設の見学に行く必要があるのか理屈が分からなかった。忙しそうな様子をろくろく役にも立てず指をくわえて眺めている。実習の目的は資料に記載があったものの、それらは全て障害児との交流を目的とするようだった。老人は障害児の代わりにはならないし、障害児は老人の代わりにならない。

とにかく、優子にとって老婆の脱糞は衝撃的すぎた。赤子ならまだしも、明確な意思を持った他人がうんこを漏らす現場を目撃するのは初めてだった。決まった場所で排便したいという意思を持ちながらもそれが叶わないことがあるのだ。そしてそれは誰にでもあり得る話で、優子自身もそうなる可能性がある。加齢のせいだけでなく怪我や病気で動けなくなった場合もあるだろう。泥酔して脱糞した人がいるとも聞いたこともある。部活のOBは現役時代に合宿で酔いつぶれ、廊下で脱糞したそうだ。その話を優子は当時どこか遠い国の作り話のように聞いていた。しかし、そうではないのだ。今まさに優子の目の前で起こったのだから。決して絵空事ではない。優子にとってうんこを漏らすというのは理性と対極的な行為であるように思えた。幼児の頃にトイレトレーニングを受けて自分の意思で決まった場所で排便できるようになったのに、またそれを失う。それが「老い」だ。まだまだ自分を子供だと思っていた優子に対し「老い」がリアルな物として突き付けられた。

この一件以来、何度となく優子はうんこが漏れそうになる悪夢を見た。スクランブル交差点の真ん中で椅子に縛り付けられた優子が「トイレに連れて行って」と叫んでも誰も立ち止まらない。信号はいつまでも歩行者側が青のままだというのに、皆通り過ぎていく。腹の奥の違和感が次第に大きくなってきて、必死に優子は叫ぶ。悲鳴をあげる。それでも誰も優子をトイレに連れて行ってはくれない。誰にも優子のことが見えていないのかもしれない。そうしている間に、尻の穴のすぐそばまでうんこが降りてきている。肛門へ迫りくる感覚が生々しく、飛び上がって起きるとぐっしょりと冷や汗をかいていた。

結局、優子は教員にはならなかった。偏見だが、教員はとても健康的な生活などできそうにない。つまり、ふとした拍子にうんこを漏らすこともあるかもしれない。なので、優子は結局、事務作業中心のしがない会社員となった。給料も事務職の割に良かったので、老後に高級老人ホームに入るため、娯楽を禁じ、貯蓄に費やした。職員が潤沢にいる老人ホームで老衰するためには必要な事だった。この会社では基本的には好きな時間にトイレに行けるし、決まった時間に食事をとることができる。会社選びで何よりも重視したポイントだ。絶えず人と接し続ける仕事では、好きな時にトイレにも行けない。漏らすかもしれない。社会人になってすぐ一人暮らしも始めた。親には自立のためだと言い張ったが、自分専用のトイレが欲しかったからだ。優子は酒も飲まなかったし、極めて健康的な生活を心がけた。朝はバナナとヨーグルト、夜は納豆を食べて腸を労わった。ファストフードなどとんでもない。腸の負担になりそうなことは禁じた。もし急にトイレに行きたくなっても問題ないように、しかし、健康状態を維持するために、毎朝、家の近所を回るだけのランニングもした。事故に遭わないよう、交通ルールも遵守した。車が突っ込んできても怪我の危険性を減らすために、信号待ちの際はなるべく車道から距離をとり、青になってから足早に渡った。それもこれもうんこを漏らさないためだ。優子はうんこを漏らさないための生活を黙々と続けた。誰もまさか優子がうんこを漏らさないために健康的な生活をしているとは思いもしなかったので、ただただ健康意識の高い人として優子は受け入れられ続けた。優子自身もこの恐怖を誰にも伝えることができなかった。馬鹿にされる不安もあったが、言うことで漏らすのが現実になってしまうのではないかという懸念があった。今の優子に漏らす要素はないが、言語化してしまうことで、突如現実にうんこを漏らす危険性が出現するのではないかという気がした。それほどまでにこの恐怖に取りつかれていた。誰かに伝えることは何の利点もない。年々この恐怖が深まっていく。老いるに連れてむくむくと膨らんでいくのを感じる。この恐怖に取り込まれてしまったら優子はどうなってしまうのか。小学生の頃は刺身が好きで大晦日のごちそうに出てきたのを食べ過ぎて親に怒られた。中学時代は夏休み、プールの帰りにいつもアイスを買って食べていた。高校時代は下校時に寄り道して友人とフライドポテトを食べた。大学時代に友人宅でスナック菓子を食べながら飲んだチューハイ、どんな味だっただろう。もう思い出せない。食べたい気持ちがないわけではない。むしろ食べたい。しかし、腹を壊す危険性があったり、腸に良くないとされているものは禁じている。どうしてこんなに怯えながら毎日を過ごさなければならないのか。うんざりしていた。過剰なのは優子自身も分かっていた。死ぬまでこんなことを続けなければいけないのも辛かったが、それ以上にうんこを漏らすことの方が恐ろしく思えた。何だかおかしな病気になってしまう気がした。あの悪夢も年を重ねるごとに現実味を増しているように感じられた。尻に迫りくる感覚がよりリアルになっている気がする。通常の排便ですらその悪夢を思い出して気が滅入る。しかし常に快調でなければ漏らす危険性が上がる。だからちゃんと排便しなくてはいけない。うんざりした気持ちで毎日排便をする。

こうして、いつ自分がおかしくなってしまうのかと怯えながら優子は一生を終えるのだと思っていた。あの人が現れるまでは。

 

優子の最寄りのスーパーは、頭を悩ませていた。開店前、店の入り口になぜかいつも犬の糞が置いてあるのだ。最初は偶然だと思っていたが、あまりにも続くので嫌がらせだと思った店主は監視カメラで現場を確認した。そして知った。犬の糞だと思っていたのは犬のものではない。人間の――それも大の大人の――糞なのだ。さらに拡大してよく見ると、それは女だった。驚いた店主がそれを従業員や常連客に話すと、似たような事例が近隣でも複数件あると言うではないか。監視カメラがある店で確認すると、どうやら同一犯であるらしく、カメラがない場所での犯行もおそらく同じ女の仕業だろうという結論に至った。このことは瞬く間にニュースになり、優子の耳にも飛び込んできた。ニュースになっても連続脱糞魔はうんこをし続けた。場所を転々としながらテロリストのようにうんこを放った。ある時は駐車場。ある時は公園。ある時はコインランドリー。ひょっとしたら彼女の仕業でないものも含まれているかもしれなかったが、人々もうんこを見れば連続脱糞魔のものではないかと疑うようになった。

そして決まって犯行時刻は、優子が朝のランニングをしている時間だ。彼女がもう一人の自分であるような気がした。全くそんな覚えはないが、ひょっとすると自分が漏らしたのではないか。優子にはそう思えて仕方なかった。ランニングをしながら連続脱糞魔を探してみたこともあったが、見つけることができなかった。優子の自分の多重人格を疑い、ランニングをやめて部屋での筋トレに変えてみても、やはり彼女は日課の脱糞テロを欠かしていなかったので、筋トレをした記憶が妄想でない限り、優子の多重人格である可能性は極めて低いと考えられた。

連続脱糞魔、もとい彼女は一体何故そんなことをしているのか。テレビで学者が精神障害の一種だと話していた。社会へのアンチテーゼだと言う人もいた。極度に肛門が緩い可能性も挙げられていた。一人ではなく実はそういうカルト集団なのではないかという説もあった。ただ、監視カメラで捉えられた姿から推測するに、背格好の近い人物が同じ人のふりをしている可能性を除けば同一犯と考えるのが妥当だろう。優子としても、よくも毎日自由自在に狙った場所で脱糞することができるものだと感心する。そうだ。初めは彼女のことが怖かった。しかし、何度となく彼女の情報を目にしているうちに、気付いた。彼女はある意味便意を完全にコントロールしており、予期せずうんこを漏らすことから完全に開放された存在だ。どう考えても狙って脱糞している。あれほどまでに恐れていた行為に対し、優子はある種の憧れすら感じていた。彼女がもう一人の自分であれば良かったとすら思った。

連続脱糞魔に会いたくて、優子は次の犯行場所を予想しては張り込んだが、彼女に会うことは叶わなかった。どうしても会って、話をしてみたかった。彼女は一体どのようにしてこの境地に至ったのか。誰にも言えなかった恐怖が彼女になら言える気がした。彼女なら優子の恐怖に対しどのような反応をするのだろう。何となく、馬鹿にすることはない気がした。彼女の姿はカメラに捉えられているのに、顔は分からない。一切が謎めいている。いつも同じランニングウェアを着ているのに、目撃情報がない。

連続脱糞魔は優子を救うために現れた。そのための奇行なのだ。優子は思った。とんでもない妄想なのは自分でも重々理解していたが、彼女はうんこを漏らす恐怖により優子がおかしな病気になるのを防いでくれたのだ。ひょっとしたら優子以外にも同じ恐怖に飲み込まれる不安を抱えた人がいるのかもしれない。そのような人々を救う存在なのだ。その証拠に、優子がうんこの恐怖を和らげると同時に連続脱糞魔は少しずつ出没頻度が落ちてきた。腸の調子が悪くなっただけかもしれないが。そして、彼女は半年の期間を経て捕らえられることなくとうとう出没しなくなった。

今となっては、あの事件が一体何だったのかも、うんこに囚われた恐怖が何だったのかも分からない。喉元過ぎれば熱さを忘れる。しかし、もしもあの連続脱糞魔に会えたら感謝を伝えたいと思う。彼女がいなければ、と思うとぞっとする。仮に彼女が優子を救うために現れたのでなかったとしても、結果的に彼女は優子を救った。

 

優子は日本酒の香りを吸い込み、一口飲み込んだ。喉と体が温かくなる。随分昔のことを思い出した。酔いが回っているのだろうか。

ちびりちびりと飲みながら、目の前で捌かれている刺身が出来上がるのを待った。

2021年5月11日公開

© 2021 曾根崎十三

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純文学

"糞ワクチン"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2021-05-24 06:27

    タイトルとリードでふざけた話なのかと思ったら糞真面目な作品でした。
    最後まで真面目尽くしで書き手の人格さえ偲ばれました。

  • 投稿者 | 2021-05-24 06:39

    私は大丈夫です。あ、うんこの話。はい。カレー食べながらうんこの話大丈夫です。
    ですから、大変面白かったです。あとなんでかわからないんですけど、トイレトレーニングっていう文言を見た瞬間、ハッとしました。なんか妙に恥ずかしくなりました。はああってなりました。

  • 投稿者 | 2021-05-25 09:39

    何かに囚われるってこと、私にはよくあります。朝、仕事に行くのが恐怖だとか、車にちゃんと鍵をかけたかどうか、三回くらい確かめに戻ったりとか。うんこ漏らすことが恐怖だったことはないですが、この主人公は普通レベルじゃないですよね。早めの受診をおすすめしたかったです。ワクチンの要素はなかったけど、わざとそうしたんですよね? 楽しめる作品でした。恐怖もあったけど。

  • 投稿者 | 2021-05-26 00:40

    リード文を入れると26回、うんちも含めて27回、10枚ちょっとでこれだけ多くの「うんこ」が出てきた作品を私は知りません。強迫観念というものは誰しも少なからず持っていると思いますが、それがうんちを漏らすかもしれないというとは聞いたことなくて、面白い着眼点だなあと感心しました。

  • 投稿者 | 2021-05-28 20:06

    こういう話大好きです。
    何を隠そう私はちょっと前まで過敏性腸症候群を患っていて、思わぬうんこ、時宜を得ぬうんこ、ひょうたんから便意、トイレがない場所で便意、絶対この電車に乗らなきゃならない時になぜここで便意等々、長年悩まされてきました。なので優子の苦悩はまったくひとごとと思えません。
    なんだよ、漏らしてないんだからいいじゃーん!
    って思ってしまったり。
    あまりにも自分に引き寄せて読んでしまったので冷静な感想が書けないのですが、緻密で容赦のない描写ぶりはさすがに曾根崎十三さんです。

  • 投稿者 | 2021-05-29 07:39

    うんちによって壊され、うんちによって救われ。うんちというのは、人間とはなにかをいつも考えさせてくれると思います。

  • 投稿者 | 2021-05-30 12:20

    うんこ恐怖症を治癒する役割としての脱糞魔という最高にしょうもない設定を大真面目で語る文体が秀逸。防ぐというより優子はとっくにおかしな病気になっているよなとか、初対面の老婆に対する優子のタメぐち(意外と介護慣れしてる?)など、細かい部分で気になる点はいくらかあったものの楽しく読めた。介護等の体験は社会福祉施設と特別支援学校の両方に行くのがよくあるパターンなので、老人と障害児でeither orにはなりにくいかも。

  • 編集者 | 2021-05-30 22:44

    流石徹底的な描写である。腹を壊した時の、腹の激痛とは別にあの頭の中でぐるぐる循環する思考に似通っている?
    やはり人間の根源を見つめるには排泄が大事なのだなと考えさせられる。優子が救われたのなら、それで良いんじゃないか。これからも、人間の大切な同伴者であるうんこと良いお付き合いをしていきたい。

  • 投稿者 | 2021-05-31 12:29

    中盤の、読む側にも強迫観念を煽るような感じの描写が面白いです。
    もし便意をコントロールできたとしても、突然の便意に拘束されたうえで排便できたときのある種の快感がなくなることになりそうなので、それはそれで究極の選択になるのだろうなどと思いました。

  • 投稿者 | 2021-05-31 14:29

    相変わらず着眼点が鋭いなと思います。
    たいてい想像の中で美化されるときに真っ先に落とされるイメージが汚穢なんですよね。

  • 投稿者 | 2021-05-31 14:47

    先日ついに50歳になりまして、アラフィフどころかモロフィフなわけですが、かくいう私も成人してから3回ほど間に合わなかったことがあります。30年で3回です。みなさんも同じぐらいの回数だけ間に合わない可能性があります。誰もが無事に50歳になれるわけではないことを知っておいてください。人の尊厳などというものは、薄氷の上に立っているようなものなのです。ちなみにスーツの下がノーパンの状態で街中を歩くのは少しクセになりそうですが、長時間続けると痛いので早めにコンビニなどで着替えを買いましょう。

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