正義の味方

曾根崎十三

小説

20,661文字

アフターコロナの英雄譚。
そのへんにいる青年が主人公。

いつも通り出勤すると、シャッターの降りた店の前でおっさんが寒そうに首を縮めて立ち尽くしていた。何となくヤバい気がしたので、目が合わないようにしながら足早に通り過ぎようとしたが、案の定、おっさんは話しかけてきた。
「おい、お前ここの奴だろ。もう入れてくれよ」
「大変申し上げにくいのですが、開店前ですので、開店までお待ちください」
「こんな寒い中待ってるの辛いんだよ。俺、年だからさ」
そっちが勝手に来たんだろ。頭イカレてんのか。
「お客様、開店は九時からなので。まだ一時間あります」
「俺一人くらいどうってことないだろ」
「あなただけを特別扱いすることはできません。それに中で開店作業がありますので」
「先に買ったらとっとと帰るから邪魔はしねぇよ」
驚いた。入った上に買い物する気でいるらしい。衝撃的だ。開いた口が塞がらない。閉めてるけど。スーパーくらいどこでもあるだろ。気でも狂ってんのか。普段どんな僻地にいるんだ。
「開店作業がまだなので売ることはできません」
「俺このあと仕事あるから急いでんだよ。時間ないんだよ」
「お忙しいところわざわざありがとうございます。お仕事が終わってからのご来店をお待ちしてます」
みじんも感謝していないのはバレている。一瞬むっとした表情を浮かべたものの、おっさんはすぐに頼み込む姿勢へと戻った。
「仕事終わるの遅いから夜は無理なんだよ。なぁ頼むよ」
「別の日にお願いします」
「今日しかない」
はい出た。こういう系の奴は「今日しかない」とすぐ言う。こういう系の奴同士で作戦会議でもしてるんじゃないかレベルで同じことを言う。お前ら一体普段どうやって予定たててんだ。今までどうしてたんだ。さては、常に行き当たりばったりなのか。そうか。
「お休みの日にお願いします」
「休みは予定が入ってるから」
じゃあ予定やめれば。いつまで先の予定まで立ててるんだか。
「では日程調節の上ご来店お願いします」
「ほんとお前らは殿様商売だな。客を見下しやがって。柔軟な対応っていうのができないのか」
ほら。本性を表した。こちとら目があった瞬間からそういう人だと思ってましたよ。
「そんな風にはみじんも思ってませんが、あなたにそう感じさせてしまったことには申し訳ないと思います」
何が悲しくてタイムカードを切る前から仕事をしないといけないのだろう。気分は最悪だ。朝の星占いは三位だったのに。まぁ当たったことないけど。昔フられた日の星占いも一位だった。
「黙れ。調子に乗るな」
それはこっちのセリフだ。勝手に並んでおいて何なのだ。頭がおかしいんじゃないか。
おっさんが拳を振り上げる。俺が若い女だったら「責任者呼べ! いや、社長だ! 社長を出せ!」などと喚き散らされて終わりだったろう。あーあ。客に手をあげられるなんて滅多にないことだが、たまにある。まぁ、これで通報すれば勝てるので黙って殴られておけば良い。でも決して喜ばしいことではないので本当にうんざりする。面倒くさい。仕事も大して好きじゃないが、働いてる方がマシだ。まぁでももし選べるんだったら働かずに気楽に生きられる人生の方が良かったな。選べないけど。宝くじで二億当たんないかな。
その瞬間、僕らの間に颯爽と立ちはだかる男が現れた。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要なんてありません」
おっさんの腕を片手で止めながら奴は言った。駅で見かけたら十分後には忘れてそうなくらい平凡な顔をしていた。おそらく出勤途中らしくスーツを着ている。
そして奴は空いた方の腕を大きく振り上げた。堅く握りしめられた拳。痛そうだ。勢いをつけて振り下ろす。途端に吐き気がした。文字通りの意味で。今朝のコーヒーが鼻の奥でつんとしている。喉の奥でコーヒーとゲロの苦みが混ざり合いながらせり上がってくるのを飲み込む。ひりついたような不快感が残る。鳩尾が鈍く痛む。言葉にならない呻き声が口から漏れた。涎も一緒にこんにちは。
えっ、何で何で。おかしくない?
何で俺が殴られてるの。わけわからなさすぎ。奴に問いかけようと言葉を発そうとしたが、呻くだけで言葉にならない。奴は本気だ。本気で鳩尾を殴られた。
腹を抑えて地面にうずくまっていると、さっきのおっさんはうひぃと変な声をあげて一目散に逃げていった。そりゃあ逃げるよな。こんな頭のおかしい奴が割り込んできたら。
スマホを取り出そうと腹から手を離した瞬間に、上から容赦なく足が降ってきた。ずん、と重みのある感触と音がした、ような、気がした。カラカラと音を立ててスマホが地面を転がっていく。乗せられた革靴から手を引き抜こうとすると、さっと足を退けられ、また倒れ込んでしまった。爪が剥がれた気がして見てみたが、剥がれていなかった。少しヒビが入っただけだ。手の甲全体が赤くなっている。骨が折れているかは分からない。案外人間は頑丈だ。小学生の頃、滑り台のてっぺんから落ちた時も、同じことを思った気がする。じんじんと痺れるように痛むが、とりあえず動かせるので、欠勤しなくて済みそうだ。この人手不足の状態で休んだら他のメンバーに負担を強いてしまう。
「あなた何なんですか」
腹から声を捻り出して言った。まだかすれている。
「正義の味方だ」
奴は俺の前髪を掴んで引っ張る。痛い痛い。こんなに短いのにそんなに引っ張ったら頭皮が千切れちゃうって。
「正義の味方なのにそんなことするんですか」
振り払おうと力の入らない方の手も使って、奴の腕をめちゃくちゃに叩く。しかし、びくりともしない。
「お前が悪い」
わけがわからない。理不尽だ。何の言い掛かりなんだろう。ぶちぶちと髪の毛が何本か抜けた。あー。ハゲ予備軍と言われてるのに貴重な髪の毛数本が無惨な姿にされてしまった。
ぱっ、と手を離されて尻餅をつく。手をついたところで、踏まれてない方の手の上にも足が振り下ろされる。この数分のうちに何回「折れたかも」と思っただろう。本当に痛い時は声なんて出ない。悲鳴をあげて助けを求めたいのに痛くて声が出せない。さらに鳩尾に蹴りが入る。ゲロが口内にまで出てきた。喉から口にまでひりつく不快感がある。それをペッと奴に向かって吐きかけた。
奴はさっと身を引いたが、カッターシャツの裾をほんの少し俺のゲロが汚した。明らかに不愉快そうに眉を潜める。そこで間髪入れずに俺は彼の足に突進した。手に力が入らなくても体当たりくらいはできる。俺が足の上に乗っかった形で奴は倒れ込んだ。俺を離そうと手で俺の頭を掴もうとしたので、ゲロ塗れの口で奴の親指に噛みついてやった。前歯だと力が入る気がしなかったので、あえて横を向いて思いっ切り噛み付いた。ゴリゴリッと嫌な音がする。もちろん、ちぎる気で噛んだ。奴が驚いてギャッと悲鳴を上げる。俺には出なかった類の声だ。俺の歯はそこまで強くないだろうが、それくらいの気合いでやればある程度効くだろう。奴は空いた方の手でガンガンと俺の頭を殴る。口の中に血の味が滲む。俺のじゃない。肉に歯が食い込む。気持ち悪くて離しそうになったが、俺はさらに顎に力を込めた。頬を平手打ちされても、頭を拳でごんごん叩かれても俺は離さない。目がチカチカする。実際に揺すられているよりも大きく視界が揺れている気がする。目の前が全体的に白っぽく、幾多もの点が瞬きながら流れていく。これが俗に言う星が舞うというやつだろうか。生温かい鉄臭さが喉の奥にしみていく。浸食されるような嫌悪感。
「犬みてえなマネしやがって。気持ち悪い」
掠れた声で罵られたので言い返そうとしたが、顎の力が緩みそうになったのでそのまま歯を食いしばった。心の中で「俺犬派なんで、そういう悪口はちょっとやめていただきたいですね」と言い返した。
もがく奴の蹴りが何発か俺の腹にまた入る。めり込む深さを感じて、男の体も意外と柔らかいんだなぁと思った。鈍痛。またゲロがあいつの指にかかる。噛まれた手を夢中で振り回して店のシャッターに俺は打ち付けられた。ガシャガシャと騒々しくシャッターが音を立てる。俺の頭はなかなか割れない卵みたいだな。ぼやーっと視界の靄が濃くなり、全体的にチカチカしている。青とか赤とかにも点滅している。遠くで別の人たちの声が聞こえてきた気がした。
体から力が抜けていくような、いや、意識だけが外れるみたいな気がして、ハッと気付いた時には病院のベッドに寝かされていた。
初めて仕事を休んでしまった。皆勤だったのに。皆勤くらいしか取り柄がないのに。やってしまった。思わず頭を抱える。大慌てで店に連絡して遅刻を謝罪し、向かおうとしたが、既に事情を知っているらしい店長に「災難だったな。今日は休め」と止められてしまった。幸い、大した怪我はしていなかったらしく、一日で退院はできた。
聞いた話によると、出勤時に俺たちを見かけた後輩が通報したらしい。年下なのにしっかり者だ。
「気を付けて下さいね」
後になってから話した際に警察官からなぜかそう注意された。
「罰せられるべきは彼でしょう」
「いや、彼は『正義の味方』なので、我々は罰することができません」
俺の頭の上には疑問符が飛び交っていただろう。「『正義の味方』は『正義の味方』ですよ。良いから気を付けてください」
全く意味が分からなかったが、とりあえず空気を読んで俺は曖昧に笑って頷いた。もしかして俺が知らないだけで皆知っているのだろうか。そう思って、Google検索をしたり、SNS内を調べたり、数日間は普段見ないくだらないワイドショーも嫌々見てみたりもしたが、まるでわからなかった。奴は一体何だったんだろう。
「正義の味方って知ってる?」
仕事中に品出しをしながら後輩に聞いてみた。
「急に何ですか。『正義感の味方』は『正義の味方』ですよ」
後輩は警察官と同じことを言った。そういえばあの警察官も俺より若そうだった。世代差だろうか。
「それが分からないから訊いてんだよ。ググッても出てこないし」
「そんなの載ってるわけないじゃないですか。『正義の味方』は『正義の味方』ですから。それ以外の何者でもない。どうせまたググって調べようとしたんでしょ。無駄ですよ。そういう物じゃないんで」
後輩の表情を見る限り嘘をついているわけではなさそうだ。しかしますます訳が分からない。俺は同じ質問を先輩にも店長にもしてみたが、ほぼ同じ答えだった。店長は「考えたって分からないぞ」と付け加えた。狐につままれたようだ。俺を置いて世界が変わってしまったような気がする。いや、世界がおかしく見えるというのなら、それはもう俺がおかしいのだろう。もし世界中の誰もが犬を見て「猫」だと言っていたら、客観的事実として俺の認識が狂っているのは間違いない。
正義の味方の正体がわからないまま数日が過ぎたある日、突然それはやってきた。休日にGEOで新作ゲームの中古が出てないか見ていると、ゴーンゴーン、と突然鐘が鳴り響いた。しかしそれは俺の頭の中でだけだ。俺以外誰も鐘の音に驚いていないし、鐘なんてどこにもないからだ。
気が付いたら俺は店を飛び出して猛ダッシュしていた。そして横断歩道もない車道を横断し、斜向かいのケータイショップへ突っ込んでいった。いらっしゃいませの声を無視して奥のカウンターへ突っ込んでいく。そこでは厚化粧のババアが金切り声で「分かるように言わなかったあなたが悪いんでしょ! 私は素人なんだからね!」と叫んでいる。そして無駄にキラキラしたケースに入ったヒビだらけのiPhoneを大きくふりかぶった。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要はありません」
iPhoneを持ったその手を掴む。どこかで聞いたような台詞が俺の口から飛び出した。目の前の女の子がほっとした顔で俺を見上げている。あちゃー。違うんですよ。
俺の拳がカウンターの向こうにいる女の子の頬をビンタする。あーあ。それなりにかわいい女の子だったのに残念だ。こんな形以外で出会ってたら一回くらいヤれてたかもしれない。スニーカーのままカウンターに上り、何が起こっているのか理解できていないその顔面に、引っこ抜いてたキーボードを叩き込む。キートップがいくつか落ちる。多分元々ぐらぐらしてたんだと思う。AとKがころころと床に飛び降りる。あとBがあったらAKBなのに惜しい。
ババアは面食らって口をパクパクさせながら震えている。
「あなた何なんですか」
鼻血をぽたぽたと白いテーブルに垂らしながら女の子が俺を睨みつけて言う。おお怖い怖い。接客やってる女は穏和そうにみえても大体怖い。これは単なる俺の経験談だ。
「正義の味方だ」
口が勝手に動いていた。何これ。
あー、いや、これ知ってるわ。これ。なんかマンガで見たわ。いや映画だったかな。両方かもしれない。ゾンビの血を摂取するとゾンビになるってやつでしょ。その理屈じゃん。正義の味方の血を摂取すると正義の味方になっちゃうんでしょ。俺、あいつの血、めちゃくちゃ飲んだわ。あれじゃん。思いっきりあれじゃん。わかるわかる。これ知ってるやつだわ。進研ゼミでやったところじゃん。進研ゼミだったっけ。Z会かもしれない。ってか最近Z会って聞かないよな。もしかして潰れた? くもんにやられた?
ガン、と頭に衝撃を感じた。女の子にiPadで頭を殴られた。形的にたぶんiPad Proだ。ホームボタンないし。ひどい。iPadは人を殴るものじゃありません。超高級鈍器だ。ボロキーボードとは訳が違う。</p><p> しかしそこへさらに鐘が鳴る。ゴーンゴーン。これは俺にしか聞こえていない。なぜなら誰もその音に反応していないからだ。
俺は弾かれたようにケータイショップを飛び出す。そして歩道を全力で走る。何人かはねたかもしれない。徒歩で人をはねるなんて前代未聞だ。いや、徒歩じゃないな。俺は走っている。しかも普段こんな速度で走ったことがない。オリンピックに出られるんじゃないだろうか。尋常じゃない速度で風景が流れていく。階段を上り、閉まる改札を無理やり突破して走る。後ろで駅員が何か叫んでいる。こんなことならPiTaPaを作っておけば良かった。
駅構内で泣き叫ぶ幼児がいる。
「黙りなさいって言ってるでしょうが! なんでそんなにママを困らせるの!」
半泣きの若い女が手を振り上げている。俺は寸前でその手を止める。細い腕だった。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要はありません」
俺は女を解放し、両手で幼児を突き飛ばす。軽い体は簡単に吹き飛んで柱へぶつかりかけたが、すんでのところで女が受け止めた。
「何するの」
女がヒステリックに叫ぶ。ほんとそうですよね。でも俺正義の味方だから仕方ないんです。
「あなた何なんですか」
母は強し、というやつだな。さっきまで殴ろうとしていた幼児をぎゅっと抱き締めている。俺に対して敵意をむき出しにしている。
「正義の味方だ」
またもや口が勝手に動いた。おいおい。俺は女から幼児を引き離そうと女の腕を蹴った。
「やめなさい」
振り返ると複数人の警察官がいた。俺は無視したが押さえ込まれてしまい、ようやく俺は幼児を女から奪おうとするのをやめた。逮捕はできないが、手を出せないわけではないらしい。
「また『正義の味方』か」
警察官がうんざりした様子で言っていた。好きでなったわけではない。これは感染症のようなものだ。パニック映画なら世界中に「正義の味方」が広がり、感染者と非感染者の攻防戦が始まるのが妥当な展開だろう。そもそも正義の味方は今どれくらいいるのだろう。俺が知らなかっただけで、誰もが当然知っている程度の知名度があるのだろうか。いや、殴られた人は皆驚いていた。それともあれは自分が「正義の味方」に殴られるなんて、という驚きだろうか。「正義の味方」はいつからいるのだろう。どうやって始まったのだろう。俺が産まれた時にはもういたのだろうか。
先日殴られた時とは違って、iPad Proで殴られた頭は全然痛まなかった。正義の味方を全うしている間は俺は無敵でいられるらしい。走る速度も尋常じゃない。元々あまり腕っ節は強くないが、人を殴る強さだって以前より強い気がする。「正義の味方」を殴り返した時よりも遥かに手応えがあったのに、まるで自分の体は痛まなかった。体罰は、ぶった方も痛いのだからお互い様、という謎理論が昔は流行していたが、自発的に殴っておいてその言い分はどうかしているとしか思えない。自傷行為の道具にされただけじゃないか。
解放された後、俺はのろのろと線路沿いの道を歩いていく。相変わらず世界は不機嫌だ。道の端でボソボソと喧嘩しているカップルがいる。ドラッグストアで店員にいちゃもんをつけるジジイがいる。信号がタイミング悪く変わって舌打ちをするサラリーマンがいる。補助輪の自転車で母親を追いかける子供が、晩ご飯に対する不平不満を連ねている。外に出れば、こうして、息をするように不機嫌な人々が視界に飛び込んでくる。いつから世界はこんなにも不機嫌になってしまったのだろうか。
あの流行病があった数年間のせいだ。誰もがそう言う。それが一番都合が良いから。あの前と、あの後で、決定的に何かが変わってしまった。皆何となくそう思っているから諦めている。仕方なかったのだ。太刀打ちできない未曾有の災厄のせいなのだから仕方ない。あの病の世界的流行で何百万人もの死者が出て、流行抑制のために多くの犠牲を払った。あれは身体だけでなく、世の人々の精神すらも根深く蝕んでしまった、とよく言われているし、俺もそう思っている。二千年代にもなってそんなことに人類が右往左往させられるなんてフィクションじみていた。俺はあの頃、社会人になって新人とも言われなくなり、ようやく新しい環境も身になじんできたところだった。そんな所に強制的に環境変化をねじ込まれ、人間関係も大きく変わらざるを得なかった。世界は元には戻らないし戻れない。完全に元通りになんてなりっこないのだ。世界は重度の脳梗塞を起こしてリハビリ中の老人だ。後遺症は一生ついて回る。途中から気付いていた。とぼけていただけだ。誰もが、後に残る世界は素晴らしいものだという前提の夢物語をしていた。絶望しないように。皆我慢してたから。今だってまだ我慢してるから。皆えらいから。頑張ったから。我慢したのに、頑張ったのに、バラ色の未来がやって来ないだなんてあんまりだ。そんなことがある訳がない。まだ今は途中なのだ。然るべき成果が得られるのはまだ先なんだ。もっと我慢したら、もっと頑張ったら、幸福な世界が実現するのだ。でも、皆、ずっとずっとは頑張れないし、我慢できないから、ちょっとくらい当たり散らしてしまうのは、仕方がない。そして、こんなにも皆不機嫌なのに鐘の音はしない。正義の味方の発動条件は何なのだろう。
今まで働いてきて、何度も訳の分からない客に絡まれたことはある。流行病の時は特にひどかった。毎日のように赤の他人から罵られていた。でも、正義の味方が現れたことなんて一度もない。自称「正義」の罵倒をしてくる人はいくらでもいたが。そんな時こそ正義の味方は来るべきだった。でもいなかった。もしかしたら、俺は未来の正義の味方だから爪弾きにされていたのだろうか。なるのが必然だとしてカウントされていたのだろうか。いや、俺だけじゃない。皆、働いていて嫌な思いはしている。先輩が、後輩が理不尽な怒りをぶつけられているのを見るのも嫌だった。でも、正義の味方なんかが助けてくれたことはなかった。無闇に叫ぶ客を、俺たちは「雑魚がキャンキャン吠えやがって。こっちがビビって従うとでも思ってんのか」という冷めた目で見ていた。今もそうだ。どんな穏和な従業員でもあの目をすることがある。あれは諦念だ。無になっている。無駄に傷付かないよう、受け身をとっているのだ。怒ったりしたい。そういう点では、こうして世界が不機嫌になり始めた時に、他の人よりも耐性があるのかもしれない。正義の味方は爆発的な怒りに呼び寄せられるのだろうか。だとしたら、少々の不機嫌や苛つきには反応しないのかもしれない。我慢できていては駄目なのか。正義の味方とは一体何なんだろう。俺の知る限りではただの乱暴者でしかない。世間の人々が正義の味方に対してどのような感情を抱いているかは分からない。きっと訊いてもまた「『正義の味方』は『正義の味方』」というよく分からない回答をされるのだろう。まるでそこだけが触れてはいけない世界のバグみたいに皆型にはまった答えしか言わない。それとも俺が知らないだけで言及すると罰せられるような法律があるのだろうか。
この考えを話せる相手がいたらな。しかし、こんな話ができるほど、自分をさらけ出せる身近な相手はいない。恋人か家族か親友でもいないと無理だろう。生憎誰もいない。親友は数年前の流行病で死んだし、恋人には捨てられた。家族とは疎遠だ。爺ちゃんが死んだ時に実家に戻らなかったからだ。流行病があったから、行くのをやめた。移動を控えなければいけない時なのだといくら説明しても理解してくれなかった。家族には許せなかったらしい。冷血だの人でなしだのと罵られ、それ以降、連絡はとっていない。仕方なかった。俺にはどうにもできなかった。今だって何も出来ない。いや、何もしていないだけだ。出来る気がしないから。また調子に乗ったところを世界からボコボコに殴られて台無しにされるのだ。いくら得ても奪われるのなら最初からなければ何の問題もない。
と、暗い気持ちになっても仕方ない。全然嬉しくないが、俺は正義の味方だ。嬉しくないついでにヒーロー衣装を揃えることにした。立ち寄ったドン・キホーテのパーティーグッズコーナーで三十分吟味した結果、馬と鹿のマスクを買った。曲がりなりにも接客業をしているのであまり顔を晒したくはない。顔バレNGだ。俺的に。持ち帰った鹿のマスクから角の部分を切り取り、馬のマスクに穴をあけて嵌め込んだ。馬と鹿のキメラみたいな生き物のマスクができた。お手製ヒーローマスクの完成だ。米津玄師かよ。高校生の頃めちゃくちゃ流行ってたなぁ。パクったんじゃないよ。馬と鹿を米津玄師が一人占めするのは良くない。俺にだって使わせろよ。
あれ以来、幾度となく鐘は鳴った。鐘が鳴る度、俺はヒーローマスクを被り無双モードで町に繰り出し、別段悪いこともしていない人をボコボコに殴りつけて帰ってきた。他人の家に上がり込むこともあった。戸締まりが甘ければ、開けられる出入り口がなぜか瞬時に分かり、そこから乱入したが、どこも空いていなければ窓やドアを破壊して入った。しかし損害賠償を求められることはなかった。正義の味方に法律は無効らしい。警察官や「『正義の味方』だから」と何度か渋い顔をされたことがある。そういうものらしい。ありがたいと言えばありがたい。正義の味方の活動は俺の意思とは関係のないところなのだから。心神喪失扱いにでもなってるんだろうか。
拳に血が滲み互いの血が混ざってしまうことも、俺のように噛みつかれたこともあったので、「正義の味方」をあちこちにうつしてしまっている可能性もある。しかしうつせば治るものでもないらしく、相変わらず鐘は鳴り、俺は走り出していた。しかし、正義の味方は意外とご都合主義らしく、仕事中に呼び出されることはなかった。その上、正義の味方をしても疲れない。痛みもない。なので日常生活に今のどころ支障はない。俺を殴った奴のように他にも正義の味方がいるはずだが、鉢合わせたこともない。これだけ頻繁に制裁を加えているのに知人を制裁したこともない。とはいえ、正義の味方はどうやら分担されているらしい。思いの外、待遇が良くて驚いている。正義の味方はどこぞのホワイト企業が取りまとめているのだろうか。もっと振り回されると思っていた。フィクションの世界のヒーローというのはそういうものだ。
正義の味方らしき人が走っているのは何度か見たので、俺以外にも正義の味方は何人もいるのは間違いない。一匹見たら百匹いると思えって言うし。見かけた正義の味方の中には俺が殴って流血戦をした人もいたので、やはり正義の味方が血でうつるのは間違いないらしい。ゾンビじゃん。広がり方が悪役だ。彼ら、彼女らは人らしからぬ走りっぷりをしているので分かりやすい。正義の味方になる前は見たことがなかった。彼らはいなかったのだろうか。それともいるのを俺が認識していなかったのだろうか。
把握している限り正義の味方によって死んだ人はいない。加減をしているつもりはないが、加減はできているらしい。思い返してみれば、健康的な若者相手なら道具の使用も辞さないが、老人や子供は丸腰で殴っている。正義の味方は正義の味方であり、公平だ。
そして、正義の味方の制裁を受ける側も、呼んでしまった側も正義の味方を知らない。必ず何者かを問われるので「正義の味方」と名乗る。名乗ることで正義の味方は正義を味方になるのだろうか。それとも一度でも正義の味方と関わることで「『正義の味方』は『正義の味方』だよ」とプログラムされるのだろうか。
仕事帰りに、弁当屋の丸椅子で唐揚げが揚がるのを待っていると、スマホが震えた。取り出すと、なんとなく追っているコミックスの更新通知が来ていたので、ダウンロードして開く。もうすぐアニメ化されるらしい。確かにそこそこ面白いもんなぁ。
「すみません」
とびきり懐かしい声がした。小柄な女性が弁当屋のカウンターの前に立っていた。Web注文の画面を見せて、FeliCaにタッチをした。
恋人だった。
恋人だった人だった。よくできた話だ。こんな風に町でばったり会うなんて。ベタなラブソングじゃあるまいし。何て声を掛けようか。名前で呼んだら気持ち悪いだろうか。苗字か? 旧姓か新姓か? 旧姓で呼んで訂正されたら心臓に悪いし、新姓だと馴染みがなさすぎて口にしただけで心臓に悪い。
もたもたしているうちに彼女の方から声をかけてきた。俺の苗字を呼ぶ。ただ呼ばれただけだし、そもそも付き合う前はそう呼ばれていたのに、なぜだか傷付いてしまう。女々しい。俺はこうして何かにつけてうじうじしている奴だった。元々そうだった。彼女によってますます女々しくなる。彼女といた頃の俺は今よりもっともっと弱かった。支えてくれる人がいると人は弱くなってしまう。奪われる側の人間だった。その頃の俺が呼び起こされてしまう。
「久しぶりじゃん」
彼女は笑顔を向ける。
「ほんと久しぶりだよね」
妙にぎこちない口調になってしまう。
「こんな所でどうしたの」
「今実家にいるから。おつかい」
彼女はプラスチックの容器に詰められたらコロッケを見せながら言った。そういえば、彼女の実家と俺の家は同じ生活圏内だった。知らないうちに会っているかもしれない。お互い面識はないから会っていたとしても分からないけれど。いずれ挨拶しないとなんて話してたこともあったっけ。
何で実家にいるんだろう。妊娠して里帰りか? 妊婦には見えない。離婚したのだろうか。
「何かあったの。実家の家族とかに」
あえて可能性の低そうなところに言及する。
「別に実家にくらい行くでしょ」
大げさだなぁと笑う。また彼女は俺にがっかりしているのだろうか。いや、もう赤の他人となってしまった今、俺にそもそも期待なんてしないだろう。違う。元々恋人だって、赤の他人だ。何考えてるんだ。イカレたのか。よく考えれば分かることだ。やはり、ただ単に久しぶりに実家に戻ってきているだけなんだろう。そういえば、世の中は三連休らしい。
唐揚げ弁当お待ちのお客様ー、とマスクを付けた店員に呼ばれ、レシートメールを見せて、カウンターに置かれた弁当を袋ごと手にする。昔は手渡しだったなぁ、と思った。彼女と付き合っていた頃はまだそうだった。あの頃と同じ店員はもういない。流行病があってから、極力接触せずに販売を行う取り組みがどんどん普及した。
「元気にしてる?」
自分で口にしてみて、元気ってなんだろう、と思った。健康ではあるけど元気ではない気がする。もう随分長いこと元気じゃないかもしれない。元気とは何だろう。何これ。哲学的命題か。
「元気だよ。そっちこそ元気?」
「それなりに」
それなりに。それが一番しっくりくる気がした。
「あのさ『正義の味方』って知ってる?」
我ながらいきなりだな。
「もう。何その質問。哲学? それともそういうキャラでもいるとか?」
彼女が首を傾げる。少し泣きそうになった。俺の知ってる世界だ。懐かしい気持ちで世界が以前の形に戻ったような気すらした。
平和に付き合っていた頃も、俺はよくぼーっと今考えなくても良いようなことを考えては落ち込んでいた。ある意味平和ボケ。平和すぎて、有り余った脳味噌を無駄な思考に使ってしまう。そうして難しい顔で考え込んでいると、テレビを見ていた彼女が不意に振り返り「あー! またなんかうじうじしてるんでしょ」と首ねっこを掴んでくる。「首はやめて弱いからマジでマジで」なんてソファの上で転げていた。
もしあの病の流行がなかったら俺たちはまだ付き合っていただろうか。いや、元々駄目だったのを、災厄が暴いただけだ。人間関係がダメになるのは往々にしてそういうものだ。原因は目の前の出来事だけではない。決裂する瞬間、もっともっと前から原因が積み重なっているのを見ようともせず、ただ目の前の出来事に憤慨している。これは一般論だ。俺の話じゃないよ。
「そうだよな。やっぱそうだよな」
そうして、俺は「正義の味方」にまつわる話をした。俺が正義の味方であることは伏せた。俺にとって正義の味方であるのは情けなく恥ずかしいことだ。まだ俺は彼女になるべく格好をつけたかった。それが何の効果も成さないことを知っていながらも。
「何それ。下手な小説みたい。無名のアマ作家が書いたなんちゃってラノベじゃあるまいし。疲れて夢と現実が混ざっちゃってるんじゃないの。ちゃんと寝なよ」
「だよな」
笑ってみたものの、残念ながらこれは夢ではない。鞄の中のヒーローマスクがそう言っている。でも俺が狂っているわけではないことが証明された気がした。もし狂っていたとして、俺も彼女も狂っている。それだけで、救われてしまった。俺はまた彼女に救われた。別れても尚。
「そろそろ行かないと」
彼女は腕時計を見ながら申し訳なさそうに言った。すっかり袋の中のおかずは揚げたてではなくなっている。
「また飯でも」
あはは、と彼女は笑いながらひらひらと手を振った。馬鹿にされたんだろうか。いや、性格的にそうではないだろう。変わっていなければ。これは、ただ、誤魔化されただけだなのだ。彼女と俺が飯に行くことなんて、もうないのだ。馬鹿にはしていないが、いよいよ頭がおかしくなったくらいは思われたかもしれない。
家までの道を歩いていく。世界がまだ安穏としていて、俺たちが付き合っていた頃は、この道を彼女と一緒に手を繋いで歩いていた。坂道で突然競走を始めたり馬鹿なことをしていた。昔の話だ。昔の話は昔の話でしかないし、正義の味方は正義の味方でしかない。彼女に確認をとる必要なんてなかったのに、どうして確認なんかしたのだろう。自己満足に他人を巻き込んだだけだ。ああ駄目だ。すっかり、弱い俺が呼び戻されてしまった。後ろから多い被さっている。重い。気付けにコンビニで発泡酒を買い足す。唐揚げ弁当はすっかり冷めていた。
「無理だよ」
あの日、四角い画面の中で彼女が言った。俺は何も答えずにキーボードの埃をエアーダスターで吹いた。キートップも汚れている。拭き掃除しないといけないな、と思った。画面に目を戻すと彼女の後ろのポスターが剥がれかけているのが気になった。もうずっと気になっているけど言うタイミングを逃してしまった。
「私もあなたも別々の場所で働いてるし、会うためには電車にも乗らないといけない」
がっかりした、なんて言う子じゃないけど顔には思い切りそう書いていた。ドライすぎる回答だ。俺の「会いたさ」は渇いてパサついた状態でくるくる俺一人の部屋で回っている。
「君は寂しくないの」
問いかけると、あはは、と画面の中の彼女が笑った。悲しそうだった。俺は何でそんな顔をさせてしまったのだろう。
「ねぇ、私の話聞いてた?」
何を急に言い出すのだろう。面食らってまた黙ってしまった。黙っている俺に彼女は言葉を重ねる。
「君が話し出す前に、私が何の話してたか覚えてる?」
俺は必死に記憶の糸を辿ったが、まるで思い出せなかった。なんとなく彼女がしゅんとしたり笑ったりしていた顔が浮かんでくる。
「聞いてないもんね。適当に相槌打ってりゃ良いって思ってるよね。私のこと好きだって言うけど、私のことなんて、あなたは何も見えてない。あなたはいつも自分に夢中。嫌い嫌いって言ってるくせに。大嘘だよ。そんなに自分が好き?」
彼女の後ろのポスターが剥がれかけているのが気になった。彼女の好きなアニメのポスターだ。劇場版の前売り券を買った人だけが先着でもらえるものだ。一緒に買いに行ったし、貼る時は俺も手伝った。上の段を留めたのは俺だ。俺の貼り方が悪かったんだろうか。
たぶんその時からどんどん、どんどん、俺と彼女はズレていった。噛み合わなくなっていった。いや、もっと前からそうだったのに気付いていなかっただけかもしれない。世界の混乱が収束へ向かい、ようやく出歩けるようになった時も、俺たちは一向に会う約束を取り付けなかった。何となくどこそこへ行こうと話をふっても、以前のように彼女は話を進めてはくれなかった。俺はそれ以上踏み込むことができなかった。もし踏み込んでいたら奇跡の起死回生があったのだろうか。俺が悪いところを全部なおしても彼女はもう俺からどんどん離れていくだけだ。そう思いたい。思いたいだけ。俺はそれをすんなりと受け入れた。見苦しくすがりついても結果は何も変わらないことが分かっていたから。
その二年後に彼女は俺の知らない男と入籍した。教えてくれるような友達もいなかったのでFacebookで知った。綺麗な花嫁姿だった。知らない男で良かったなぁと思った。何かが少しずつ違っていたら自分がその知らない男になれていただろうか。時々集まって遊ぶような微妙な仲の友達はあの病気のせいですっかり疎遠になってしまい、今だってもうお誘いは来ることもない。ひょっとしたら何人かはあの病気にやられて死んでしまったかもしれない。それ以外の要因でぽっくりいってる可能性もある。LINEくらい送れば、生きてるかどうかくらい分かるかもしれないが、そこまでしようとも思わない。持ってしまうことが怖いから。失うことが怖いから。奪われることが怖いから。怖い。怖いのだ。俺は本当は臆病なのだ。小学生の頃お化けが怖くてトイレに行けずにおねしょしたことがある。怖がりなのだ。テストで百点をとりそうになって、あえて一つ間違えたことがある。怖い。怖かった。百点をとってしまうのが怖かった。好きな子に告白されたのに断ったことがある。怖いのだ。それを受け取ってどんな目に遭わされるか分からない。そんな恐ろしいことができるわけがない。彼女にはフられようと思って告白したら、付き合えてしまった。恐ろしいことをしてしまった。その結果がこれだ。自業自得だ。俺が全部悪い。全部全部悪いそういうことにして欲しい。じゃないとあんまりだ。
夕闇を背景に電線でカラスが鳴いている。
電信柱を拳を打ち付けた。じん、と骨に響く。正義の味方ではない俺は強くもないし、痛みも感じる。電線に止まったカラスは驚きもせずに鳴いている。もう一発叩く。握り拳に力を入れる。さらにもう一発、もう一発、とだんだん打ち付ける速度が速くなる。関節の皮がすりむける。電信柱の黄色と黒の縞模様に血が滲む。黄色に付いた血は目立つ。擦り付けられた血が不規則に線を引く。表面が無駄にぼこぼこしているので、俺の指は下ろし金にかけられた大根みたいだ。何にそんなに怒ってるんだろう。とりつかれたみたいに、そうしないといけない気がした。
電信柱はびくともしない。そりゃそうだろう。たかがこれしきの衝撃で動いたら電信柱は電信柱としての役割を果たすことができない。もし俺が今正義の味方だったら、電信柱をへし折ることくらいできただろうか。豪邸の重いドアを蹴りで開けたこともあるくらいなので、できたかもしれない。
骨ばった指にも肉はある。皮がすりむけた中には肉がある。血が巡っている。生きているから。大根おろしでミンチが作れる。何言ってるんだろう。大根も下ろし金もここにはないけど。
俺の気持ちはどこに向ければ良い。こんなに怒っているのに。正義の味方は来ない。誰に怒っているのだ。何に怒っているのだ。自分か。彼女か。友達か。家族か。過去か。未来か。世界か。あの流行病か。正義の味方か。分からない。何がそんなに嫌なんだ。誰も悪くないし、何も悪くない。あの病の時、自業自得だという言葉が流行った。外出したんだから自業自得だ。その仕事を選んだんだから自業自得だ。事情なんて知ったこっちゃない。そのくせ責める。自業自得だ。お前が酷い目に遭うのはお前が悪いからだ。なんでそんな酷いことを言うんだろう。どうして誰も彼もがそんなに荒んでるんだろう。テレビをつけてもSNSを開いてもいつも誰かが誰か責めている。何でそんなことするんだろう。知っている。分かっている。問うまでもない。理不尽に酷い目に遭うのが当たり前だと認めるのが怖いからだ。自業自得じゃなかったら壊れてしまうから。俺はその話を彼女にもした。彼女は俺が話し終わるまでひたすらうんうん、と受け止めて「大丈夫だよ」と言った。こんなに話したら気持ち悪いんじゃないかと俺が変に話を反らそうとすると「言って良いよ。大丈夫だよ」と促した。彼女は全部お見通しだった。彼女の「大丈夫だよ」が聞ければ、大丈夫な気がした。大丈夫じゃないけど、大丈夫な錯覚ができて、彼女にそう言われたら半日くらいは俺は正義の味方じゃなくても無敵だった。でもそんなことはもう無い。一生無いかもしれない。じゃあどうすれば良いんだ。憎む相手をくれ。何も憎めないし、恨めないなんてあんまりじゃないか。しかし俺はやり場のない怒りを電信柱にぶつけている。電信柱も悪くない。分かり切ったことだ。でも電信柱はビクともしないから。平気だから。殴ったって平気だ。俺の家にはサンドバックもパンチングマシーンもないから仕方ないよね。スーパーの床で駄々をこねて転がり回っている子供と同レベル。大の大人になっても。こんなおっさんになるなんて子供の頃は夢にも思ってなかった。彼女と付き合っていた頃だって思っていなかった。やっぱりあの病気が悪いのだ。でも病気は殴れない。じゃあ何を殴れば良いんだ。そうだ電信柱だ。でもどうしてだろう。ちっともすっきりしないのだ。やっぱり駄目だ。早く来てくれ。やはり正義の味方のことは正義の味方は助けないのだろうか。
「来いよ! とっとと来いよ! ほら! 何で来ないんだよ」
息を切らしながら、電信柱を蹴る。じん、と痛みが股関節にまで上ってくる。痛くない方の足で蹴ろうとしたら、バランスを崩して倒れてしまった。馬鹿だな。馬鹿なんだ俺は。でも、俺馬鹿なんだよ、って誰に言えば良いんだろう。正義の味方じゃなくて良い。通行人でも警察官でも良い。誰か俺を見つけてくれ。
ゴーンゴーン、と鐘が鳴る。正義の味方の出番だ。やっぱり俺がヒーローになるしかないらしい。俺は血まみれの手でヒーローマスクを被る。
痛みが消えていく。正義の味方は無敵だ。痛みなんて正義の味方には似合わない。足が勝手に動き出す。猛ダッシュで俺は家から離れていく。唐揚げ弁当は電信柱の下で置き去りになっている。食べられる頃には冷めているだろう。誰かが間違えて捨ててしまわないことを祈る。捨てられさえしなければ現代文明の利器、電子レンジがあるから大丈夫だ。現代に生まれて良かった。俺は恵まれている。電子レンジのない土地や時代だってあるのに、俺は電子レンジのある土地と時代で生きることができている。電子レンジを得ている。俺から電子レンジを奪うことはできない。ざまあみろ。
見知らぬ民家の塀をよじ登り、一階の屋根から、開け放たれた二階の窓にダイブした。
「こんな人のためにあなたが苦しめられる必要はありません」
俺は目の前の女が振り下ろそうとした包丁を白羽取りした。包丁を奪って窓の外に投げ捨てる。なんかヒーローっぽくて格好良い。格好付けすぎだろうか。顔が隠れているから余計に芝居じみた言動をしている気がする。ヒーローマスクはダサいけど。
「は? お前何?」
危うく刺されるところだった男が言った。お前が言うのかよ。危機を救われたことにイマイチピンと来ていない様子だった。
「正義の味方だ」
俺は男の顔面に擦り剥けた血まみれの指で殴りつけた。痛くはないが傷が塞がるわけではない。うっかり血が口に入ってしまったかもしれない。あちゃー。これでこいつも正義の味方になってしまう。また世界が平和になってしまう。やっちまったな。
包丁を持っていた女は男を庇おうとしたが、俺はそれを振り払う。男の方を膝で固定し、馬乗りになって顔面を殴る。ジタバタともがいているが俺は今無敵なので効かない。女がめそめそと泣いている。ぺちぺちと叩いてきたが、俺はビクともしない。ひんひんとしゃくり上げている。多分あれはメンヘラだ。メンヘラっぽい鳴き声してるから。ほら、来てるTシャツもそれっぽい。あんなの絶対ヴィレヴァンでしか売ってない。
男の鼻っ柱を血まみれの拳で何度も打ちつける。鼻から血が出てきた。鼻血だろうか。それとも鼻の外側を怪我したのだろうか。鼻の外側からの出血だとしても鼻血というのだろうか。鼻から出たどこまでの血を鼻血というのだろうか。その謎を解き明かすため俺はアマゾンの奥地へと向かった。アマゾンってどこの国だっけ。
ところが俺はメンヘラに悲鳴をあげさせられることになった。焦げ臭い嫌な匂いがして、匂いの元を辿ってみると、思わず立ち上がってしまった。
「これ以上殴ったら、燃やすから」
振り返ると、メンヘラが百円ライターをカチカチしている。明らかに自分の親指も炙っているが気にしていない。狂気の沙汰だ。いや、メンヘラだから自然か。いつの間にか俺のスニーカーの靴ひもがチリチリと焦げていた。それ自体は特にマズいことではない。しかし、俺は痛みが分からない。気が付いたら焼き殺されているかもしれない。それはさすがにヤバい。自分が殺そうとしてた男を守るために見知らぬ男を焼き殺そうとする心理もヤバいけど。
俺は男を蹴り、メンヘラを蹴り、また窓から外へ出て行った。ポツポツと雨が降ってきた。ボロ屋根で雨粒が踊る。俺の唐揚げ弁当どうなってるんだろう。
だんだんと正義の味方の力が抜けていく。いつもそうだ。出てくる時は一気に出てくるのに、抜ける時はビーチボールの蓋が緩んでしまったみたいに徐々にふにゃふにゃになっていく。だんだんと走る速度が落ちてきて、最終的に俺は一人で雨に打たれながら歩く寂しいおっさんになった。ヒーローマスクも外して手にぶら下げる。明らかに不審者だ。電信柱を殴った痛みが疼く。足が痛い。擦り剥けた指はヒリヒリとする。男を殴った痛みは残らない。ご都合主義だ。雨足が強まってきてとりあえずヒーローマスクを傘代わりにしたが、大した効果が得られるはずもなく、肩も足も濡れていく。正義の味方になることでハイになっても抜ければ結局なる前と同じメンタルに落ち着く。弱く、奪われるだけの俺。自発的に他人を殴ったことなんてなかったのに。
気付いてしまった。
正義の味方を呼ぶのは怒りじゃない。暴力なのだ。それもただの暴力ではない。人間への暴力だ。誰かが誰かに暴力を奮おうとした時、正義の味方は呼び出される。幸か不幸か、俺は自発的に暴力を奮おうとしたことがない。優しく生きていたら損をする。へらへらと良い子ちゃんぶっていても、誰も守ってくれない。暴力を奮おうとするクズだけが救われる。元々我慢できる人は、暴力に頼ろうなんて思ったこともない人はただただ虐げられているだけ。正直者は馬鹿を見る。
雨に打たれた唐揚げ弁当を手に取る。俺と同じで唐揚げ弁当も誰にも見つけられなかったらしい。いや、見つけたところで片付ける義理もないか。すっかり唐揚げが湿気ている。雨水だって中に入ってしまっているかもしれない。受け取った時は美味しそうだったのにこんな姿になってしまった。電子レンジも万能じゃないので、唐揚げ弁当を元の姿に戻すことはできない。
良い子にしてたって誰も助けてくれない。良い人でいたって何の得もない。そんなこと昔から分かっていたじゃないか。必死に努力して何事もなく無事に終わった物事は無視され、悪事だけが罰せられる。商売にもよくあることだ。クレーマーの主張だけが受け入れられ、何も言わずに満足している人たちの意見は無視され、改悪が繰り返される。行動を起こせ。黙るな。判断しろ。動け。さもなくば、ただ奪われ、ただ殴られ、死ぬだけだ。
というのは極論だけど、あながち間違っていない気もする。
正義の味方は人々の暴力を引き受ける。受け止めはしない。ただ引き受け、それを受け流す。そして暴力を客観視させる。正義の味方はやはり正義の味方なのだ。勧善懲悪だ。正義の味方は常に弱者の味方だ。暴力に至るほどの不快を強いられた、暴力に頼らざるを得ない弱者救済のために正義の味方は正義の味方たりえる。正義の味方は正義の味方でい続ける。暴力は悪なのだと見せつけるためだけに、耐えきった者が殴られる。いつかこの世界から暴力がなくなるまで、この連鎖は続く。確かにここのところ、殺人事件や傷害事件のニュースを目にしない。正義の味方の効果だろうか。
「いただきます」
誰と一緒でも、たとえ一人でも、いただきますと言うところが俺の良いところだと誰かが言っていた。誰だっけ。俺の妄想だろうか。だって一人でもいただきますを言ってるだなんて誰も知りようがない。そんな言葉をかける人がいるわけがない。バスタオルを首に巻いたまま、しおしおの唐揚げを割り箸で挟む。発泡酒はまだ冷蔵庫の中だ。
大気汚染の成分とか入ってるよ、やめなよ、絶対ヤバいって、と頭の中で誰かが言う。その誰かは彼女であり友達であり家族である。俺の知っている「誰か」のキメラだ。
電子レンジで温められた唐揚げは、思ったより変な味はしなかったが、何となくじゃりじゃりした。誰かが近くを歩いて泥でもかけたんだろうか。
「でも唐揚げは唐揚げじゃん」
俺は誰かのキメラに答えた。じゃりじゃりする弁当の続きを頬張っていく。食べ終わってから飲もうと思っていた発泡酒が不意に飲みたくなって、冷蔵庫に取りに行く。発泡酒の後ろでタッパーが積まれている。色とりどりの蓋のタッパーの中には母親がこの家で作ってくれたものも、恋人と作ったものも、皆で宅飲みした時の残りもある。ちゃんとある。間違いなくここにある。黒っぽい中身のそれらを指でつついてみる。胸の奥で小さな火が灯った。これがきっと愛しさだ。どれも入れた瞬間のことを覚えている。楽しかった。嬉しかった。ありがたかった。ずっとこうしていたかった。
発泡酒を手にとって、俺は冷蔵庫を閉めた。
「赤ちゃんじゃないんだから自分の感情くらい自分でコントロールしなよ」
誰かのキメラが言う。電信柱を殴ったのがそんなにダメですか。俺は正義の味方の世話になったことがないのに。それなら一生赤ちゃんで良いです。生後372ヶ月の赤ちゃんです。ほぎゃー。新生児みたいに快と不快しか感情がなければ良かった。
ピンポーン
ハッと目を覚ます。いつの間にか俺はベッドで眠っていた。もう日が高く昇っている。慌ててシフト表と電波時計の隅の日付を交互に見る。良かった、休みだ。
そして慌てて布団から飛び出し、インターフォンに出る。
「はい」
「宅配便でーす」
寝癖を手櫛でなおしながら玄関へ向かう。マジか。これ夢オチかよ。つまんないやつじゃん。
玄関のすぐ横に置いているシャチハタで押印する。実家からだった。開けると一番上に「HAPPY BIRTHDAY」と印字されたカードが入っていた。裏面に懐かしい文字で「たまには帰っておいで」と手書きの文字が書いてある。今日は俺の誕生日だ。また年をとった。また古びていく。老いていく。どんどん死んでいく。両親から、あの時は悪かった、と何度謝罪されただろう。決して許していないわけではない。俺は少しも怒っていない。むしろ家族を大切に思っている。カードを捨てると、その下には保存のきく食べ物と俺の好きな作家の新刊が入っていた。新刊はもう持っているから要らない。古本市場に売りに行かないと。食べ物は役に立つ。
とりあえずテレビをつける。
「国がしっかり経済が復活するための支援をしないとダメなんですよ。納税ってこういう時のためのものじゃないんですかね」
嫌いなワイドショーだ。深刻な口調で、被害者代表みたいな面をしてタレントがコメントしている。相変わらずだ。あの流行病があってから、いつ見かけても、こういうテンションの話題を飽きもせずに放送している。偶然見たときに限ってそうなっているだけだろうか。それとも、忘れているだけでずっと前からこの調子だったかもしれない。
チャンネルを回す。一通り流してみて、きのこの炒め物をしている番組に落ち着けた。
また誕生日が来た。いくつの時から誕生日が嬉しくなくなっただろうか。最後の楽しかった誕生日は、彼女と過ごしていた気がする。彼女が来て手料理を作ってくれた。たぶん冷蔵庫のタッパーの中にまだその時の残りがある。楽しかったなぁ。「別れよう」と言った時の彼女の驚いた顔が浮かんでくる。分かってたくせに。言わそうとしてたくせに。それともアレか。俺が歩み寄るのを待ってたのか。図々しい。試し行為か。そういうのはうんざりだ。勘弁してくれ。傷付いた顔をするのはやめろ。自業自得じゃないか。
ゴーンゴーン。鐘が鳴る。俺はソファの上に転がっていたヒーローマスクを被る。
あーあ。分かっていたけど、やっぱりこれ現実か。つまんないやつじゃん。
然るべき成果が得られるのはまだ先なんだ。今はまだトンネルの中にいる。止まない雨はない。まだか、まだかと俺は我慢している。頑張っている。
ダッシュでマンションの階段を駆け下りていく。三階まで降りたところで、隣のビルに飛び移る。まるでヒーローじゃないか。いや、正義の味方なんだからほぼ等しい。体が軽い。こんなに体が軽いのは俺が正義の味方だからだ。風を切って俺は走っていく。俺は奪われない。失わない。だって正義の味方だし。イカしてる。イカレてるの間違いかもしれない。まぁ、ともかく、正義の味方は正義の味方だ。俺は俺だ。平気だ。そう、「大丈夫だよ」。
口の中で呟いたその言葉は飴玉みたいにいつまでも転がっていた。
ひょっとしたら、もう誰もが正義の味方なのかもしれない。

2020年6月24日公開 (初出 tumbler投稿

© 2020 曾根崎十三

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