スピリタス

小林TKG

小説

2,652文字

スピリタスのニュースを見て思いついてたんですけども、書くまでに随分と時間がかかりました。とてもかかりました。

「スピリタスは火炎瓶になりますか?」
そう聞かれたのはもう十年も前の話であった。
『風邪、インフルエンザにかからないように手洗いうがいを徹底しましょう』という市で開催されたフォーラムで、私はそう質問された。手洗いうがいの重要性を説き、マスクをすることを推奨し、よく寝て抵抗力をつけるという当たり前の話をした後、終了時間までのつなぎの質問コーナーになった。その時誰よりも早く手を挙げた者がいて、私も反射的にその手を差していた。「君」などと尊大な態度で。
「ありがとうございます」立ち上がり礼を述べた者はまだ子供であった。ほんの十歳程度の少年であった。手洗いうがいなどまるで興味ないだろう少年。少なくとも私が彼の年の頃はそんなものに興味はなかった。遊ぶことに夢中だった。それ以外の事などどうでもよかった。
その少年はスタッフからマイクを渡されると、まず「スピリタスは消毒に使えるのでしょうか?」と言った。スピリタス?酒か?どうして10歳にも満たないような少年がそのようなことを聞いてくるのか。まだ声変わりもしてないような少年が。
「それはお酒のですか?」立ち上がった少年の周りに母親や父親と思われる人物は見当たらない。一人で来たのか?まずそのことに驚く。こんな当たり前の事を言い聞かせ、改めて参加者の脳に刷り込ませ、安心をさせるためだけのフォーラムに。更にその少年がスピリタスと来た。「お酒のです」そう言った少年のうなずきは力強かった。あるいは・・・何かに縋るようでもあった。
「スピリタス。皆さんはご存じあるかわかりませんが、そういうお酒があります。映画かなんかでもたまに出てきます。で、このスピリタス、なんとアルコール度数96%という尋常じゃない代物です。ちなみに一般に使われている消毒液のアルコール濃度はまずもって80%ほどです。ただ、お酒に含まれるアルコールも消毒液に使われるアルコールも、同じエタノールですからそういう意味で言えば、スピリタスは消毒液としても使えるという事になります」確かにある意味では使えるだろう。
「ただ、まずもって使う場合は無いでしょう。消毒液があればそれでいいのですし本当に緊急事態じゃない限り、これを消毒液として使うのはお勧めしません。なぜなら・・・」
「スピリタスには引火の恐れがあるからですか?」
少年は私の言葉を引き継ぐようにして、そういった。
「そう・・・です」その通りだよ少年。
「スピリタスは火炎瓶になりますか?」
「スピリタスはそのアルコール度数の高さから引火もしやすいお酒として有名です。揮発性が高くたばこの火などにもすぐ引火します。実際それで火事になったやけどしたというニュースもありますし、消防などでも注意を呼び掛けています」
少年の質問には答えなかった。それを知ってどうするんだと思った。そしてそのまま、まあ、これに頼るような事はこの先もまずもってないでしょう。よほどの緊急事態でも発生しない限りスピリタスに頼る必要はありません。手の消毒なら消毒液で行えばいいのです。各御家庭の皆さん。手の消毒は一番大事です。菌は大抵そこから体内に入り込みます。今日もこれが終わって帰ったらまず手洗い、うがいを行いましょうね。お子さんだけではなく、ご自身もですよ。
「ははは・・・」
会場が若干のそういう乾いた笑いに包まれたのを引き際にして、そのフォーラムは終わった。私が終わらせた。気が付くと少年はすでにいなくなっており椅子の上にマイクが置かれているのみであった。

それから15年経った。世界にはあの時ありえないと言っていた非常事態が訪れていた。マスクが無くなり、消毒液が無くなり、ウエットティッシュなどもなくなる世界が訪れていた。私自身はそれらを比較的受け取りやすい立場にあったために困ることは無かったが、もうずっと世界は殺伐としている。ニュースを見ると毎日新型ウイルス感染者の数が増えていく。一か月前よりも先週。先週よりも一昨日。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日。今日よりもきっと明日なんだろう。明日も増えるんだろう。毎日増え続けている。他にも消毒液の代わりにスピリタスが売れているというニュースもあった。
「スピリタス」そこであの少年の事を思い出した。十五年前、スピリタスの事を質問してきたあの少年の事を。

ある朝、家のポストに切手の貼っていない封筒が投函されていた。中を見ると便せんにしたためられた手紙が入っていた。

突然失礼します。あの時スピリタスの事を質問したものです。

あの少年からであった。

自分の家は酒問屋を営んでおり、子供の頃から様々な種類の酒を見て育ちました。スピリタスもその時たまたま発見したものです。自分の家は父がとても厳しくて、悪いことをしたら殴られたりしてよく酒の倉庫に閉じ込められていました。そのつらい状況から逃れたくて酒のラベルなどを見て現実逃避していました。
そしてある時自分はスピリタスを発見し、その度数の高さに驚き、あのフォーラムで先生に質問をしたのです。スピリタスは火炎瓶になりますか?と。父を殺すためでした。自分はいつか父を殺す日が来るのではないかと思っていました。自分が何もしてなくても悪いことが起こった時自分を殴りつけ倉庫に閉じ込める父を殺す日が来るのではないかと。いつか我慢できなくなって父を殺してしまうんじゃないかと。それに備えるために先生にあの質問をしました。いざという時殺せなかったではシャレになりません。自分が殺されます。だからあの場であんな質問をしました。先生には大変なご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。

その父が先週死にました。今流行している新型ウイルスに掛かり呼吸困難になってあっという間に死んでしまいました。僕が殺すはずだった父です。僕がいつか殺すと思っていた父が流行り病にかかりあっという間に死んだ。それで思ったんです。父を殺すために生きてきた僕のこの命ももう必要ありません。

僕はこれから自分ができる限りの事をしに行きます。先生、この手紙は読み終えたらすぐに破棄してください。燃やすなりして処分してください。残しておいて、万一にでも先生と僕の関係性が発見されたら先生にご迷惑をおかけするかも知れません。どうかよろしくお願いします。

少年の手紙を握りしめたまま、屋内に戻りテレビをつけた。ニュース速報が流れていた。国会に火炎瓶を投げつけた男が逃走したのち自に火を放ったという。総理大臣を許さないと書かれたのぼりと写真を持った状態で。

2020年4月5日公開

© 2020 小林TKG

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