最上階

泥で建てた家(第4話)

長崎 朝

小説

5,297文字

右のほうには透明の空間が遠くまで広がっていて、下半分は地球の備品たち。左目を左に動かすと右目も一緒についてくる。銀色のウエハースみたいなビルディングがたくさん視界を遮っている。

Sに撫でられたときに昇る熱い髪のにおいは風に乗り、彼の手の汗ばんだにおいはここから真っ逆さまだ。落っことしてしまった先を見届けようと手摺りに寄りかかって下を覗き込むと、黒い空中道路がカーブを描いて伸びていて、その上を自動車が連なって移動していく。

あれから一睡もしていないような気がする。眼球の裏側にピストルを突きつけられて、「眠り」の居場所を打ち明けるように脅迫されているみたいだ。

居場所なんか知らない。ほんとに、知らないんです。

「よぉく思い出すんだ。あいつを庇ったら、おまえまで痛い目を見るんだぞ」不眠はなおも迫る。

わたしがよろけて窓辺に座り込んだとき、下の自動車道からクラクションの響きが輪っかを作って、水面を目指す気泡のように大きくなりながら上昇し、この部屋ごと取り巻いてどんちゃん騒ぎのようにうるさくなったと思ったら、いつのまにか部屋はラッパの金属管の中に吸い込まれて収縮してしまった。わたしだけが取り残されて、やっぱりまだ自分のままだ。

どうしてSと別れたんだろう。そもそも別れるって何? わたしはそれを、拡げていたハンカチをきちんとたたみなおして引き出しにしまうことだと思っていた。波打つ柔らかな四角い平面の上で、わたしたちはふざけあったり転げ回ったりしてきた。時間が過ぎて、何もなかったように、小さめの四角にたたみなおす。だって折り目がついているじゃないか。でもそうじゃなかった。実際のお別れは、拡げたハンカチをくしゃくしゃにしてまず軽く鼻水を拭き、次に指紋の残らないようにそれを使ってピストルを握りしめ、眼球の裏側に突きつけることにほかならないのだ。誰の指紋かっていわれても、そんなのわからない。犯人の、ただ犯人の指紋っていうだけだ。ハンカチは折り目の濃さを少しずつ減らしていく。もとに戻ろうとする力を確実に失っていく。

 

 

薄れゆく犯人像を急いで補おうとするかのように、玄関の扉が開いて誰かが帰ってきた。その誰かの手が伸びて、不安定になったピストルを支えなおす。

おかえりなさいと声を出す前に、犯人のほうがあわててピストルを床に落としてしまった。ピストルは息をしていなかった。

「誰?」

「あなたこそ、誰?」

2019年8月29日公開

作品集『泥で建てた家』第4話 (全6話)

泥で建てた家

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© 2019 長崎 朝

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